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片岡大右物語(3)日本一の仏文学者

こけおどしの衒学趣味


 さて、今回も片岡大右のイカサマ、ペテンの手口を暴いていこう。

 フランスの社会学者リュック・ボルタンスキーが「国際報道や国際人道支援運動の功罪」について論じた言葉や、「フランス革命期の恐怖政治」を論じたハンナ・アーレントの言葉が、小山田圭吾に結び付けられるのであれば、およそ誰のどんな言葉でも使える。

「エクストリーム擁護」とは、うまいこと言ったものである。


「小山田圭吾は21世紀のカラヴァッジョなのか」という愚問


 ジャーナリストの今井佐緒里が、小山田圭吾をイタリアの画家カラヴァッジョに例えたことに、片岡大右は次のように反発する。

 ここで誇張と言うべきなのは、小山田圭吾の才能をカラヴァッジョのそれになぞらえている点ではない。誇張は、学校時代から現在にかけての人生のなかで、小山田がバロック期の放埒な天才に匹敵する行状を示してきたかのように示唆している点にある。

「長い呪いのあとで小山田圭吾と出会いなおす(1)小山田圭吾は21世紀のカラヴァッジョなのか」

 殺人まで犯したカラヴァッジョと、小山田圭吾の行状が同じだなどとは誰も思っていないし、今井佐緒里だってそんなことを示唆していない。カラヴァッジョが活躍したバロック期は、日本で言えば戦国時代である。織田信長や豊臣秀吉といった歴史的人物を例えとして持ち出したすことがよくあるように、そうしただけである。

 ところがこれは前振りで、片岡大右の本音は次の記述にあるのだ。

 カラヴァッジョの天才性はやはり、当時のローマの猥雑な活気のなかを生き抜いた荒々しい人となりを抜きにして考えることはできない。人と作品が決して無関係ではないというこの事情は、小山田についても同様だ。

 あきれることに、小山田圭吾はカラヴァッジョと同じ天才だというのである。これがどれほど愚劣な差別意識に基づくものか、これから徹底的な批判を加えていく。

モンドセレクション金賞のクッキーのお味は?


 片岡大右は「小山田圭吾とはどのような音楽家なのか」と題する章で、「小山田圭吾は間違いなく、過去四半世紀の日本の音楽を世界に向けて代表するひとりだ」(ママ)と書いている。

 その理由として、海外の音楽サイトでレビューが掲載されているだとか、日本の文化庁メディア芸術祭で優秀賞を受けただとか、グラミー賞にノミネートされただとかという履歴を並び立てる。そして、『コーネリアスのすべて』というファンムックから関係者のヨイショ発言をピックアップして権威づける。

 しかしこんなものは、音楽について何も語っていないに等しい。モンドセレクション金賞に輝いたクッキー、あの有名人も絶賛、という宣伝文句だけで味については何も言わないのと同じことだ。

 音楽を聴く耳があるなら、まずはサンプリングとパクリの問題に触れないわけにはいかない。そもそも小山田圭吾にオリジナルな音楽的才能などあったのかという問題である。

 これは中村佑介と樋口毅宏という、かつてフリッパーズギターのファンであった人たちからも疑問視されている。

 さらに、音楽ジャーナリストの宇野維正は、小山田圭吾の権威主義を批判している。

 やはり小山田圭吾が長年にわたり、いじめ問題をスルーできたのは、著名なミュージシャンたちとの交流といった、上級国民ならではの権威を笠に着た背景があったからだと言える。

 したがって、小山田圭吾を天才音楽家だのと権威づけることによって、これを擁護する片岡大右のロジックはまことに醜悪である。

 宇野維正による批判は以下のサイトで読める。


障害者は小山田圭吾の音楽の養分ではない


 片岡大右によれば、小山田圭吾はカラヴァッジョと同じ天才だというのである。その考察の背景には、天才芸術家は悪徳を養分にして美しい作品を生み出すという、芸術家神話がある。俗受けする、くだらない芸術家神話である。

 ロラン・バルトがいうように、「神話は物事を純化し、無垢にし、自然と永遠性の中に置くのだ」(『神話作用』篠沢秀夫訳 現代思潮社)。

 だが、こうした芸術家神話の無批判な再生には、いいかげん、とどめを刺しておかなければなるまい。

 片岡大右は『月刊カドカワ』(1991年9月号)のインタビュー記事をもとに、小山田を「『弱者』への思いやりといった表面的な次元とは一線を画したところで障害者と関わりながら少年期を過ごしたように見える卓越したミュージシャン」と絶賛する。あたかも、障害者との交流によってその美しいサウンドは生まれた、とでも言いたげである。

 こんな屁理屈が成り立つのであれば、音楽家はみな障害者施設で働けばよかろう。

 はたして小山田圭吾の音楽とは、そのようなものだったか。

 障害者は、小山田圭吾の音楽の養分ではない。

 片岡大右の考察は、憶測であるばかりか、愚劣な差別意識に基づいている。仮にプロ野球選手が同じ問題を起こしたとして、障害者との交流により卓越したピッチングセンスを身につけた、などと擁護されるだろうか。なぜアーティストだけが特別視されるのか。

 遺伝と環境からの影響を考える方が、まだ合理的である。

 マルコム・グラッドウェル『天才!成功する人々の法則』が述べるように、子供の将来を決める決定的要因は、親の経済力と文化資本である。

 小山田圭吾の父親は「和田弘とマヒナスターズ」の三原さと志で、母方の叔父は田辺靖雄だ。

「社団法人日本歌手協会」という歌手の団体があり、相談役に北島三郎、顧問に菅原洋一や五木ひろしがいるが、そのトップの会長が田辺靖雄である。

 田辺靖雄の妻は『コメットさん』の九重佑三子。長男は「肉マイスター」の田辺晋太郎。その妻がアナウンサーの本村由紀子。

 田辺靖雄の父親は、『NHK紅白歌合戦』で初代総合司会を担当したNHKの超大物アナウンサーである田辺正晴。他にも、版画家の中林忠良だの、 伊藤穰一(元マサチューセッツ工科大学教授)だのが親族にいる。

 小山田圭吾はまさに上級国民であり、その音楽もまずはこのような環境の影響を考えるのが筋であり、障害者との交流があろうがなかろうが、そんなものは小山田の音楽性とはほとんど関係がない。


沢田君の人生は小山田圭吾のものではない


 片岡大右は『月刊カドカワ』(1991年9月号)のインタビュー記事から、小山田圭吾は沢田君と友達であったと読み解き、それが美しい音楽となって結実したかのような神話を創作している。

 小山田圭吾もまた謝罪文で沢田君のことを「友人」と述べているのであるからその認識は正しいと思われがちだが、そうではない。この神話がグロテスクなのは、洋楽をパクって日本語の歌詞をつけてリリースするという以上に、もの言えぬ「弱者」の人生を搾取して恥じないその傲慢さにある。

 デービッド・エプストンとマイケル・ホワイトは、児童虐待の被害者と加害者の関係性の特質について、次のように述べている。

 もしある人の人生のストーリーが、それが本当に自分の創作ではなく、児童虐待や性的虐待をした親という加害者によって創作され、意味づけられたもので、しかもそれを「これがあなたのストーリーなのだ」といって押しつけられたとしたら、被害者は自分の人生を解釈するうえで、どういう影響を受けるだろうか。

「野口裕二・野村直樹訳『ナラティヴ・セラピー――社会構成主義の実践』第五章「書きかえ療法――人生というストーリーの再著述」金剛出版 P139-182

 D・エプストンらは、こうした重要な問いを投げかけ、被害者は「自分のストーリーを語る権利」を奪われていると指摘する。そして、児童性的虐待の加害者は、「虐待を受ける責任はあなたの側にある」ということを、ある時には公然と、ある時には暗黙のメッセージとして被害者の少女に伝えることで支配し続けようとする。

 商業雑誌で公然といじめ体験を語るのはむろん、いびつな友情物語を語るのも、どちらも加害者による創作ストーリーという点では同じことだ。もの言えぬ「弱者」は、関係性の非対称構図がもたらす「強者」によって創作され、意味づけられたストーリーを一方的に押しつけられることで、決定的に自分の人生を奪われるのだ。

「これがあなたのストーリーなのだ」という無神経な発言によって、被害者は二度殺されるのだ。

「村上清のいじめ紀行」で、ライターの村上清から小山田圭吾との対談を依頼された沢田君のお母さんは、それを断った。当然である。

「対談はお断りする」というお母さんの強い言葉は、このような他者による無神経な創作ストーリーから、かけがえのない息子の人生を守るために発せられたのだ。

 片岡大右が考えるように、小山田圭吾の音楽が沢田君との交流を養分として作られたものであるとするなら、それがたとえどれほど優れたものであっても、我々は断固拒否しなければならない。

 他人の人生を搾取して生み出される芸術になど、何の価値もないのだ。





「大学教員トリオ」が藤原悠馬のブログをパクる


 片岡大右は、小山田圭吾と障害者との間に豊かな心の交流があったと主張するのだが、これは片岡のオリジナルな見解ではない。
 北尾修一のブログがあるが、それよりも前に藤原悠馬がブログ記事「善悪は常に表裏一体 (小山田圭吾さんのいじめ問題より)」で書いている。

 藤原悠馬はすでにここで「インフォデミック」という言葉を使い、「原文を見ると印象が変わる」と書いており、片岡大右がこのブログを参照したことは明らかである。しかし、片岡大右のくそ長い論文のどこを読んでも藤原悠馬への言及が見当たらない。参考文献リストにも、ない。

 東京大学を出て博士号まで取得している仏文学者にこんなことを言うのはおこがましいが、他人の文章やアイディアを参考にしておきながらその出所を示さずに、自分が書いたものとして発表することは盗用・剽窃にあたる。

 藤原悠馬のプロフィールを見ると、高校まで全く勉強ができず、独学で生化学をマスターしたというセミナー講師であり、占星術師であり、精巣がんを切除術ナシで自然治癒させたとも書かれており、片岡はさすがにこんなブログが元ネタだと知られるのまずいと考えたのだろうが、それでも参考文献として明示しなければ盗用・剽窃にあたる。

 連載第2回目の『ロッキング・オン・ジャパン』インタビュー記事についての考察もまた、明らかに外山恒一の「小山田圭吾問題の最終的解決」というブログ記事を参照している。東京大学を出て博士号まで取得している仏文学者が、中卒の自称ファシストの名前を参考文献リストに挙げるのはさすがにプライドが許さないのだろうが、それでも明示しなければ盗用・剽窃にあたる。

 片岡大右がプロデュースしたこべにのブログ記事も、藤原悠馬と外山恒一の名前を参考文献リストから除外している点において、盗用・剽窃にあたる。

 これだけではない。「原文を見ると印象が変わる」と主張している者は全員、藤原悠馬のブログ記事をパクっているのだ。

 なかでも特に問題なのは、東京大学非常勤講師の片岡大右と、埼玉県立大学・准教授の高村夏輝、南山大学講師の大月英明である。こいつらは博士号を持つ研究者であり、大学で教鞭をとる教育者である。それが在野のブログ記事をパクっているのだから大問題である。

 研究者としても教育者としても失格である。いったいどの面下げて、学生を教育指導しているのか。

 国公立大学法人の教員には公務員と同じ遵法精神と倫理規定が適用されるはずなので、東京大学は片岡大右に処分を下すべきである。看護師や社会福祉士を養成する埼玉県立大学は、高村夏輝に処分を下すべきである。カトリック世界観に基づいた学校教育を理念とする南山大学は、大月英名に処分を下すべきである。



片岡大右のいじめ紀行


 片岡大右がパクっているのは、藤原悠馬や外山恒一だけではない。

 片岡大右がTwitterで仲良く情報交換していた「遊井かなめ」「はっぴーりたーん♪」「真夜中の残虐ラーメン」「含羞と諧謔」「world's end sequence」「ちえ」「とびだし」「碧ちゃん」「猫子さん」「光ひかり」「ロック」「週一母さん」「おのむー」「ぬこ山田」「澁谷のマリー」「マキマキ」といった名前も、参考文献リストに当然明記しなければならない。

 これは余談だが、ビートたけしによる『フライデー』襲撃事件の時に、ガダルカナル・タカ、そのまんま東、ふんころがし、大森うたえもん、柳ユーレイ、松尾伴内、大阪百万円という、たけし軍団のふざけた芸名が新聞の一面を飾ったが、片岡大右が参考文献をきちんと明記するならば由緒ある岩波書店のサイトもこれと同じことになるだろう。

 これでわかるように、片岡大右のくそ長い論文の元ネタはTwitterでやり取りされた信憑性の不確かな情報ばかりである。ネットで拾った情報でコタツ論文を書く、コタツ学者である。

 片岡大右が自分で結論付けたエコーチェンバー現象からインフォデミックへの転換とは、まさにこのことである。

 Twitterの蛸壺の中でエコーチェンバーされたヨタ話が、岩波書店の権威によって情報ロンダリングされたのだ。

 片岡大右は、「痛いニュース」や「アルファルファモザイク」といった「まとめサイト」には信憑性がないと書いているが、ならば、子育てブロガーなる「こべに」のブログにどれほどの信憑性があるのか。匿名で運用されている「コーネリアスファン私設検証サイト」なるものに、どれほどの信憑性があるのか。

 いずれも小山田圭吾ファンにとって都合の良い情報だけをピックアップしたデマブログであり、その信憑性は「まとめサイト」にさえ劣る。

 片岡大右はさらに、「小山田圭吾さん炎上問題を検証するカエル」「デザインあ再開を待つカエルコ」というTwitterのアカウントさえ、熱心にリツイートとしている。

「生まれは田んぼ カヒミカリィファンのおませな7歳」というバカげた設定のカエル兄妹のつぶやきに、どれほどの信憑性があるのか。小山田圭吾ファンの知能は、7歳児並みか。

 片岡大右のイカサマ、ペテンの手口は、あきらかであろう。

 ネットで拾ったヨタ話の出所を隠し、リュック・ボルタンスキーだの、ハンナ・アーレントだので権威づけて、岩波書店の威光を借りて情報ロンダリングを行っているのだ。

 そうして書かれた論文は、差別以外の何物でもない。

「村上清のいじめ紀行」から25年――。

 権威主義と差別主義が結びついて、世にもおぞましい差別記事がまた誕生したのである。





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電八郎
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