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育児と小沢健二



3年間にわたって連載していたcakesの育児日記が終了しました。そもそものスタートは週刊新潮で、そちらは1年間。それからcakesだったので、計4年間にわたって書いてきたことになります。

今から書く長い文章(1万1000字!)は、これから育児日記をnoteへ移行するにあたって、どうしても先に書いておこうと思ったものです。

これから小沢健二について手厳しいことを書きます。どうしても書きたかったことです。ファンを自称する方はどうぞ目を背けて下さい。


うちの息子ですが、2年前に表出性言語障害と診断され、会話に多少の問題があるもののすくすくと育ち、現在5歳です。来年はいよいよ小学生になります。毎日、可愛いなと思います。自分の中にこんなに「可愛い」と思う感情があったのかと驚くほどです。

今年、芸人の玉袋筋太郎さんにインタビューしたとき、彼には成人を過ぎた息子さんがいるのですが、こういう発言をしていました。

「育てたんじゃなくて、育ててもらったよ、俺のほうが」

僕は立派な人間ではないし、育児をしたことで人間的にどこか成長したのかと訊かれても答えられませんが、玉さんのこの言葉が、本当によくわかります。

妻の三輪記子にも感謝しています。

記子は39歳の高齢出産でした。もともと感情の起伏が激しい人が、出産後しばらくはさらに激しさを増し、言葉だけでなく実際の暴力もたびたび受けました。

(本人も今となっては反省しているでしょうし、それを責めるつもりはないです)

記子は付き合いだして半年ぐらいが経過してから僕に言いました。

「樋口さんの子どもが欲しいです。籍を入れなくてもいいです。お金もいりません。一切迷惑をかけません」

後半の部分は守られませんでしたが、たいした問題ではありません。命がけで僕とふさこの子どもを産んでくれたことに感謝しかないです。

さて、小沢健二の話をしましょう。

まずは最近、僕が「実話BUNKA超タブー」「実話BUNKAタブー」(なんてタイトルだ)に寄稿した原稿に目を通してみて下さい。

小沢健二、ああ kakkowari 宇宙!

もともと僕は小沢健二の信奉者で、2009年のデビュー作『さらば雑司ヶ谷』でも、ハードボイルド小説なのにいきなり登場人物たちに「人類史上最高のミュージシャンは誰だ?」と語らせ、小沢健二という結論に導くテキストを書いたことがある。

当時、小沢は世間から忘れ去られた存在だった。彼のことを再評価させたいという思いから暴論を書いた。その直後、小沢は13年ぶりのツアーを発表。少しずつ活動を再開し、「笑っていいとも!」やMステに出演して自分の歌詞を褒め称えてくれたタモリと再会した。17年ぶりのニューアルバムもリリース。売り上げはパッとしなかったけど歌詞のクオリティは相変わらず高く、天才の健在ぶりが見て取れた。思春期からの偶像が維持されたことに僕は胸を撫で下ろした。

僕は小沢がシーンの最前線に帰還したことを確認すると、『さらば雑司ヶ谷』を上梓したときとは状況も変わり、僕が語り部として名乗りをあげる必要はなくなったなと、一抹の寂しさとともに安堵を感じていた。

しかしここ数年、ライブも新曲も、とてもではないが納得がいくレベルではなかった。

特に新曲「泣いちゃう」の歌詞の一節、

「地球が病気になってます」。

いったいどうしたのだろう。まるで小沢健二ぽいことを書こうとした凡人による劣化したコピーのようだ。

洗脳されていた頃のToshiの曲「さまよえる地球人」を想起してしまった。

しかしネットを見ると相変わらず気色悪いほどの賛美一色で、批評めいたものは皆無だった。

今年の3月始め、小沢健二がAwesome City ClubのPORIN(23歳年下)と不倫しているという情報を入手した。僕の耳に入るぐらいだから世間にバレるのも時間の問題だなと思った。

だが小沢はPORINと歌う動画をYouTubeに無邪気にアップ。しかも楽曲のタイトルは「失敗がいっぱい」! あなた絞首刑の準備を自分でやります……?と頭を抱えた。そして今回の文春報道だ。

断っておくが僕は作り手に品行方正など求めないし、芸能人の不倫報道にも「当事者たちで解決すべき。まわりが騒ぎすぎ」と思ってきた。とはいえ小沢は家柄や学歴やルックスや頭の良さがわかる文章など、華麗な生き方を提示してきた「上流階級」ではないか。

しかも近年お子さんをアルバムジャケットに起用したり、PVに登場させたり、子煩悩ぶりをアピールした作品を発表してきた。なのにこの記事を書いている現在、報道についてのコメント一切なし。雲隠れ。

はっきり言う。みっともないよ!

しかもネットで手を替え品を替え小沢の賛辞を惜しまなかった人たちがこの件についてはほとんど完黙。教祖による教育が行き届いているなとしみじみ感じた。

「失態があっても信じず、みだりに騒ぎ立てるでないぞ」とわざわざ教祖が発令しなくても、信者はだんまりを貫くことで忠誠を誓った。究極にダサい相互補完関係。見ていて恥ずかしい。

僕より怒り心頭なのはわが家のエリザベスこと妻の弁護士、三輪記子だ。彼女は「小沢が東大に行ったから自分も東大に行った」という僕よりガチな人だ。

「小沢は自分がまだイケてると信じたくて、自分の承認欲求を満たすために若い子と付き合いたいのでは。それにしても情けない」とまで言う。

かつてアントニオ猪木の信者だった週刊ファイトの井上義啓編集長は、猪木の晩年を嘆き、「我々は猪木に百の我慢を持っていた。しかし我々は、その我慢を使い果たした」と名言を残した。井上の気持ちがよくわかる。

今回古巣の出版社から「小沢にひと言お願いします」と言われて寄稿した。歴史に残るアーティストはみんな不幸な状況から名盤を作り上げてきた。

たとえ小沢が離婚に追い込まれて子どもに会えなくなってもどん底から過去最高のアルバムを出すと信じたい。最後にもうひと言。小沢健二、解脱せよ!

久しぶりに読み返しました。自分で言うのもおこがましいですが、媒体のゲスさに抗う、真摯な原稿だと思います。

続けてその半月後に発表したものはこちらです。

落日のex.フリッパーズ・ギター 小山田いじめ事件から奇跡の逆転劇はあるか

ここまで小山田圭吾が叩かれた理由の大きなひとつとして、東京オリンピック開催に反対する人たちの意図があったことは否定できない。

彼らは開会式の作曲を担当するひとりに、かつて面白おかしくいじめを告白したアーティストがいたことを知ると、糾弾して炎上させることで何としてもオリンピックを阻止させようとする狙いがあった。そこに長引くコロナの憂さ晴らしが加わって、小山田は格好の標的になった。

無論、小山田の過去のいじめ告白を擁護するつもりはない。しかし、僕自身はこれに限らずキャンセルカルチャーに加担するのは躊躇があるし、今回のコーネリアス・バッシングにノレなかったのには幾つか理由がある。

まず、脳科学者の中野信子さんの著書『正義中毒 人は、なぜ他人を許せないのか?』から引いてみる。

〝他人に「正義の制裁」を加えると、脳の快楽中枢が刺激され、快楽物質であるドーパミンが放出されます。この快楽にはまってしまうと簡単には抜け出せなくなってしまい、罰する対象を常に探し求め、決して人を許せないようになるのです。こうした状態を、私は正義に溺れてしまった中毒状態、いわば「正義中毒」と呼ぼうと思います。この認知構造は、依存症とほとんど同じだからです。〟

相手が反論できないような「絶対悪」はこうした人たちの大好物だ。僕もカッとしてSNS

で発信しようとするとき、中野さんの訓告を思い出すことにしている。

それでもネットを見ていると、自分の人生と関係のない芸能人の不倫にさえ本気で怒れる人たちが一定数存在するように伺える。「正義中毒」の人が増えているように見えるのは気のせいだろうか。

読売新聞が去年こんな記事を載せた。

「自分勝手や残酷なことして「バチがあたる」…信じる人76%、半世紀前より割合高く」

読売新聞社が3月10日~4月20日に実施した全国世論調査(郵送方式)で、人の迷惑も考えないで、自分勝手なことをしたり、残酷なことをしたりする人について、「バチ」があたるということが「ある」と思う人は76%に上り、「ない」の23%を大きく上回った。
同様の質問をした1964年12月調査(面接方式)では、「ある」41%と「ない」40%がほぼ並んでいた。調査方法が異なり、単純比較はできないが、半世紀余り前よりも、現代の方が「バチあたり」を信じる人の割合が高いことがうかがえる。


現代の日本はバブル崩壊後から「失われた30

年」とも呼べる不景気が常態化し、格差社会が固定化するなど閉塞感があることも、「バチがあたればいい」と思う人が増えている一因だろうと思う。

さて、上記を踏まえて今回の事件についてまとめていきます。小山田圭吾が「ロッキング・オン・ジャパン」でいじめ自慢をしていたインタビューは、僕も当時読んでいます。その後「QuickJapan」でもっと深く踏み込んだ記事があったことも何となく覚えている。

「何となく」というのは立ち読みでパラパラ捲った程度だから。小山田がいじめていた相手に障がいがあったのは今回初めて知った。創刊間もなかった頃のQJは「山田花子自殺直前日記」など悪趣味系で、個人的にじめじめして気持ち悪かった。QJだけでなく、病気っぽさを売り物にした作り手や作品は苦手です(今回の事件により初めて当該記事に全文目を通した。一次情報大事)。

当時は小山田のいじめ発言にたいして驚くことはなかった。というのも、小山田は前身バンドのフリッパーズ・ギターの時代から、相棒の小沢健二も含めて「性格が悪い」「他人を小馬鹿にする」ことで知られていたから免疫ができていたことが大きい(だからって擁護するつもりは略)。

あのですね、小山田圭吾ってああいう人ですよ。フリッパーズでデビューした直後に自動車事故で大腿骨が股関節に食い込むほどの大怪我をした。フツーそれほどの重傷にあったら人生観が変わってもおかしくないし、アーティストたる者歌詞に反映されるもの。「俺もう歩けなくなるのか?」とか「お医者さん看護師さんに感謝」とか。長渕剛だったらアルバム3枚は作ってるでしょう。

でも小山田は一切なし。長期入院中にギターを弾いて末期ガン患者の断末魔の叫びを聞いて笑ったとかいう記事を掘り返して怒っている人たち、もっと根本的なことに気づきましょうよ。

「ジャパン」の当該号のインタビューにあったタイトルキャッチ、「脱力した感じは一貫してある」って、要するに「心が死んでいる」んですよね。小山田は自覚ないだろうけど、そもそも心の欠損があるから、それを埋めるために表現者をやっているわけで。

「社会的に許されない罪を犯した表現者は作品ごとパージされるべき」と考える人たちがいる。しかし力を持つ作品は時間という裁判官を超越してサバイブする。

例えば、戦争協力者の烙印を押された藤田嗣治は戦後も日本に帰れずフランスで晩年を過ごしたが、今なお彼の個展には大勢の人が詰めかける。ヒトラーのパトロンだったリーフェンシュタールの映像美を否定することは難しい。ロック史上最大の人格破綻者ジョン・レノンはアル中からオノヨーコをボコボコにした。しかし大衆はビートルズを聴く。イマジンを「平和の象徴」として口ずさむ。小山田の音楽も時間がジャッジするだろう。

そして今回、僕が失笑というか唸ったのは他のところにある。みんなとっくに失念しただろうけど、小山田事件の前に小沢健二の不倫があった。ふたりが組んでいたフリッパーズ・ギターに対する思いは人一倍ある。

なんせ僕は『ドルフィン・ソングを救え!』などという、小山田小沢をモデルにしただけでなく、彼らの歌詞を大量に引用した小説を上梓したほどだから。あれだけ性格が悪いふたりがあれだけ素晴らしい音楽をやっていたという、一筋縄ではいかない事実は消しようがない。

フリッパーズ解散後も、小山田小沢はそれぞれ申し合わせたようにソロデビューが同時。「MOON WALK」「さよならなんて云えないよ」のマイケルオマージュの曲リリースも同じ時期。その後幾つも阿吽の呼吸を見せて、今回の不祥事もほぼ一緒。小沢の不始末を小山田が掻き消した。おまえら相変わらず息がぴったりだよ!


ネットには「こうなったら裸一貫やり直しでフリッパーズ・ギターを再結成しろ!」という声まである。音楽の方向性が違えたふたりが今さら一緒にやるわけないじゃないか。とは言いつつ、まさかの逆転劇が起こったらそれって何て言うの? ケガの功名? 棚からぼた餅? 火事場泥棒?(違う違う)。何でもいい。だけど彼らに残された逆転のカードはそんなつまらないものではない。今後それぞれがキャリア最高のアルバムをリリースすること。それ以外考えられない。


さて、長い長い前振りはここまでです。

「樋口はむかし神輿を担いでいたくせにアンチに回った」と思う人もいるでしょう。

『さらば雑司ヶ谷』
『雑司ヶ谷RIP』
サブカルコラム集『さよなら小沢健二』
『ドルフィンソングを救え!』
などで小沢健二について言及してきて、やっと言い足りたのかもしれません。

それゆえにかつての偶像を客観視できるようになったことも大きいのだと思います。

先の原稿にも記しましたが、「週刊ファイト」の井上義啓編集長は長きにわたってアントニオ猪木の記事を書いてきました。猪木教の広報官と一部で呼ばれて、猪木の布教に務めてきた。

しかし晩年には、猪木の支離滅裂な言動に呆れてしまったのでしょうか、離れていった。

「我々はアントニオ猪木に百の我慢を持っていた」
「我々は、その我慢を使い果たした」

作家の夢枕獏さんも旧ソ連まで追いかけるほど猪木のファンでした。

なんせ夢枕獏さんの中では、「日本が世界に誇る3大偉人は空海、宮沢賢治、猪木」と名言していたほどです。

しかし、あるマイクアピールから、「もう十分、操を尽くした」と思った。

氏の中の3大偉人を外れたけれど、「いまも普通に猪木を尊敬しているそう」です。


繰り返しますが、何でもかんでも正義の名の下に善悪を区別することは、僕は嫌いです。

人間はそんな単純な生き物ではないからです。

古い友人がネットで「正義」の大鉈をふるっているのを見ると居た堪れない気持ちになります。

僕はキリスト教信者ではないですが、「罪なき者のみが石を投げよ」と、よく思います。

妻以外の女性と姦通しても、勝新太郎や山城新伍や松方弘樹や千葉真一などに、当時世間は正義の鉄拳を喰らわすことはなかった。それは何ででしょう。

時代が違うから?
キャラクターが違うから?

いいえ、彼らは小沢健二のように幼い子どもで商売をしていないからです。

アルバムジャケットに息子を全面的に出したり、
PVに登場させたり、曲にサンプリングした声を使ったりはしていません。

「良きパパ」のイメージで売ったこともありません。

小沢はツイッターで子どもと仲良しアピールをしていますが、家庭で実際にどの程度、育児に関与しているかは知るよしもないです。

正直なところ、僕は小沢の不倫騒動に、宮崎謙介議員が育休取得を取っている間に不倫した事件を想起しました。

もうみなさん忘れていますが、バリバリの保守政党である自民党で育児休暇を取ると宣言して、どれだけの期待の声があがり、そして裏切られたか。宮崎氏は「嘘つき」と散々叩かれました。

彼は血税を浪費していたわけですし、結果議員辞職をしたので罪は償われましたが、小沢はどうなのでしょう。

子どもたちとコラボした彼の作品に嘘はなかったのでしょうか。


そして、それより小沢健二にもっと落胆したことを今から書きます。

小沢健二の不倫を伝える文春の記事には、相手のPORINのみが記者の質問に答えていました。小沢健二に質問状を送ったけれど返答はなかったと。

不倫相手の若い女性を矢面に立たせておいて、自分はだんまりなのです。

小沢に群がる、彼の提灯持ちたちもいつもは舌鋒鋭いのに、この件に関しては完黙。

その後も小沢は自身のツイッターで、子どもたちと仲良く、「不倫がバレたからって別居していませんよ」アピール。報道を頭から否定するでもなく、「誤解です。ビジネスパートナーです」と弁解するでもなく、何事もなかったようにスルー。有耶無耶にして幕引きをはかっています。

あのですね、これって今まで散々見てきた、悪しき不倫オヤジの構図とまるっきり同じですよ。

それをあの小沢健二がやっているのかと思うと悲しくなります。

〝オザケンよ、おまえもか!〟

彼はインタビューなりツイッターなり、もしくは作品なりで、

〝子どもを愛しいという気持ちと、若い女に欲情する気持ちはまた別なんですよ〟と語るべきです。

でも小沢は白を切り通すでしょう。

そしてしばらくしてからPORINが参加した作品を発表して、

〝なんだ〜、このためだったのね!
オザケンを信じてよかった〟

と信者は胸を撫で下ろす。

教祖と信者による、欺瞞の関係は維持されます。


どんどん育児日記とかけ離れているように見えますがいましばらくお待ち下さい。この際小沢の不倫より重大なことを記しておきます。

小山田はイジメをした過去について一度も謝罪しないままずるずるときて、時限爆弾が炸裂したことはご存知の通り。

そして小沢健二にも時限爆弾があります。

引用のレベルを遥かに超えた盗作行為です。

僕がこのことについて言及できるのも、小沢について考え、語り尽くし、ようやく偶像視する必要が無くなったからではないかと思います。

ポップミュージックは引用の歴史です。

先人が編み出したコード進行をまんま借用するのは御愛嬌。

しかしその範疇を超えたら?

古くから言われているのはツェッペリンの「天国への階段」。

「『天国への階段』はパクリじゃない。あの曲とだって似ている」ジミー・ペイジが法廷で証言
https://m.huffingtonpost.jp/2016/06/17/stairway-to-heaven_n_10520368.html

日本だと筒美京平が露骨に洋楽のメロディをいただいていますし、大瀧詠一は確信犯のパロディを繰り返してきました。

あえて「パクリ選手権」と呼びますが、これの優勝候補は何と言っても、Style Councilの「 Shout To The  top」からまるパクした、佐野元春の「Young Bloods」です。

佐野元春の曲がStyle CouncilのShout To The Topに犯罪的に似ている
http://nicomelmo.blog118.fc2.com/blog-entry-931.html?sp

〝これが怒られないなら俺もやっていいんじゃないか?〟と、当時16歳の小沢少年は衝撃を受けたのではないかと予想します。

僕は小説家ですが、文芸の世界では断りなく他者の原稿からたとえ1、2行でも拝借したら、どんな大家でも地位が危うくなります。実際、近年もそれで作家生命を断たれた書き手が数名います。


さて、翻って音楽は、小沢健二はどうでしょうか。古くからのファンはもちろんご存知ですよね。

例えば「恋しくて」。

恋しくて / Manic Monday
https://www.google.co.jp/amp/s/gamp.ameblo.jp/duriza/entry-12021801694.html

断言しますが、これはオマージュでも本歌取りでもない。ただの剽窃です。

作詞作曲したプリンスが生前訴えなかったのが不思議なぐらいです。

しかし責めるべきは小沢だけにあらず、「好き」ということで長い間、目を瞑り続けてきた僕も共犯のような気がします。

だってこの曲、ほんとにいい曲なんですもん。

「マニックマンデー」はもちろんむかしから好き。

だけど「恋しくて」が「Buddy」のカップリングとしてリリースされる前に、NHKの公開音楽番組で初めてテレビで観たときから、

https://m.youtube.com/watch?v=1higqo-N_uA

「あれ、『マニックマンデー』じゃん! まんまじゃんよ、これ知らないよー。ここまで露骨にパクっていいの? ……でもいい!」

という具合でした。

小沢の歌詞も素晴らしいのですが、やはりこれは音楽の魔力なのだと思います。

街を歩いていて、たまたま通りやコンビニに流れているタイトルも知らない音楽が気になったり、仕事や勉強をしながら流しているうち、だんだん好きになっていたことが、みなさんあると思います。

「〜しながら」なのに、いつのまにか好きになっている。しかも音楽の場合、建築や絵画や詩などと違い、作り手が人前に出て、すでに何度も発表している作品を再生することが可能。しかも受け手のみならず作り手まで快楽とカタルシスを共有できるという、圧倒的に優れた表現形態です。

「すべての芸術は音楽に嫉妬する」という格言通りなのだと思います。


「恋しくて」以外も小沢は、「さよならなんて云えないよ」からマイケルの「Black and White」のギターフレーズを使っていますが、あそこまで時代も近く、日本でも大衆レベルで有名な曲を臆せず借用しているのは、まだマシなほうなのではないかと。

問題は、「ドアをノックするのは誰だ?」とジャクソン5の「I Will Find A Way」。

https://p-a-r-k.blogspot.com/2009/08/i-will-find-way.html?m=0

これも日本語の歌詞を載せただけ。

「東京恋愛専科・または恋は言ってみりゃボディブロー」がGilberto Gilの「De Bob Dylan a Bob Marley, um samba provocação」。これは悪質。文化盗用ではないのか。

ご存知ない方は聴き比べてみて下さい。

https://m.youtube.com/watch?v=jGYPIfty-Bw

https://m.youtube.com/watch?v=ejj3e5D6hbY


もっと知りたい方はこちらを。

【全曲紹介】小沢健二 – LIFE【元ネタ紹介あり】
https://moimoi-days.com/ozawa-kenji-life-review/

小沢健二シングル元ネタ集
https://open.spotify.com/user/225wxq333ld7kchnbtemslidy/playlist/67dU7durbrSvIVCEd082XW?si=2vxdUUB8StmR5lyG_VgEsA&dl_branch=1

小沢健二はフリッパーズ・ギター時代から、引用していない曲を探すほうが難しいです。

なのに当時のインタビューで小沢は、

「僕は『LIFE』っていうアルバムをかなり独力で作っちゃったんですよ、ひとりぼっちで。発想から結論までをもう僕は完全に発明してやってるんですよ」(「ロッキング・オン・ジャパン 1996年4月号)

と、ぬけぬけと語り、インタビュアー(山崎洋一郎)もまったくツッコまず。当時から釈然としなかった。




イラストレーターの中村佑介さんがブログで「大好きな物知りお兄さんの本棚、CD棚が、実はレンタルではなく万引きしたものまでポツ…ポツ…ポツと含まれていたような不安」

https://lineblog.me/yusuke_nakamura/archives/1062454461.html
(とても誠実な内容でした。パクリについてここまで踏み込んだテキストを、音楽ライターから読んだことはないです)

と書かれていましたが、僕もあのモヤモヤ感をずっと「でも好きだから」で誤魔化してきました。

レディオヘッドの「Creep」は、The Holliesの「The Air That I Breath」に似ていると長年言われてきましたが、近年The Holliesのソングライターふたりが「Creep」のクレジットに入り、印税も入るようになりました。

http://fantasmusica.seesaa.net/article/414646288.html


電気グルーヴも「シャングリラ」のクレジットに、Silvettiが入りました。

https://past-orange.com/po_sp/?p=1336


小沢健二もどこかのタイミングで自主的にカミングアウトすべきと考えます。

そこで全面的に拝借を認めるか、曲によっては「これはこれこれこういう理由があるので自分の中ではパクリには該当しません。オマージュです」と釈明すべきです。

僕が『タモリ論』で記した、「パクリの5箇条」も載せておきます。




話が脱線しました。しかし小沢健二を本気で語ろうとしたら、今さらですがこの盗作疑いは避けられない問題でした。

小沢について語られている本、語っている人が盗作問題について触れていなかったら、片手落ちにもほどがあります。

年がら年中、小沢健二の歌だけでなく、発言、書いたものを、まるで彼の人間性まで優れているかのように賛美している方たちは、それでもまだ彼を崇め続けていくのでしょうか?

思春期に宗教にハマった人は、不合理を感じながらも足抜けすることなどできないだろうなと想像します。


僕は小沢健二に百の我慢を持っていた。
しかしその我慢をほとんど使い果たしてしまった。

しかし僕はいまも普通に小沢健二を尊敬しています。たぶん。



さて、わが家に話を戻します。

小沢の不倫騒動以降、僕と妻の三輪記子はたびたびネタにしています。

記子「たけちゃんも育児日記を書いて、一文でお金を稼いでいるんだから浮気をしないようにね」

しっかり釘を刺されています。

男の下半身がいかに無節操か、男ならみんな知っているでしょう。

男の性欲は実に直截的で、単純で、暴力的で、幼稚。

偉大なるキング牧師も愛人が複数いた。もちろん彼だけではない。現在も、口先ではリベラルを唱えておきながら下半身はアナーキーな男を、僕は何人も知っています。

先日、夜に外で仕事があり、子どもを記子に預けて家を出ました。わが家ではめずらしいことでした。

「じゃあ仕事に行ってくるね」

玄関で見送る息子を抱きしめる。やっぱり可愛いなと思います。自分の中にこんなに「可愛い」と思う感情があったのかと思うほど。

そして感じずにはいられない。

小沢ってこんな風に息子を抱きしめた後、仕事場のホテルで女を抱いていたのかーー。

さっきから「決めつけるな」「証拠がない」と言い張っている方、例えばティーンアイドルが「部屋に一緒にいたけど朝までゲームをしていた」と釈明したのを頭から信じるようなものと大差ないですよ。おわかりですか?

こんなに小沢を糾弾しておきながら、僕だって生きている限り絶対に浮気しないとは断言できない。下半身に人格者はないから。

しかしもし浮気をしてしまってバレた後は、女性を矢面に立たせて自分はだんまりを貫き、その後もツイッターで知らんぷりをすることだけはやめよう。カッコ悪いから。

以上です。ご一読ありがとうございました。

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