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偉人の別の顔#6 地質学者・ダーウィン

進化論の生みの親であるチャールズ・ダーウィンの名前は、NHKの動物番組のタイトルにも使われるほど生物のイメージが強烈です。しかし、彼はいわゆる生物学者ではありませんでした。現代なら”進化生物学者”と名乗っても良いかもしれませんが・・・。

ダーウィンは裕福な医者一家に生まれたので、両親から医者になることを切望されますが、医学にはまったく興味を示さず、エディンバラ大学医学部に入学したのに2年で中退しました。次に、牧師になるためにケンブリッジ大学神学部に入学しても、必修ではない博物学や地質学、さらには昆虫採集に傾倒しました。しかし、この時の勉強が後の進化論に役に立ちます。

ダーウィンはケンブリッジ大学を卒業すると、恩師の紹介で英国海軍の測量船ビーグル号に乗船することになります。この偶然が、のちの進化論への船出になります。ダーウィンの任務は、各地の地質や動植物の調査でした。ビーグル号は5年をかけて、南米、ガラパゴス諸島、ニュージーランド、オーストラリア、ケープタウンなどを経て、イギリスに帰ってきました。

ここまでに何度も、”地質”というキーワードが出てきましたが、ダーウィンは実は地質学者なのです。彼は、代表作『種の起源』を発表した年に、地質学の賞を受賞しています。もちろん、彼は地質だけを研究していたわけではありません。地質学以外にも、植物学、生物地理学、無脊椎動物学、心理学、科学旅行記などの分野で独創性を示しています。ダーウィンは独創的で多才なマルチ学者でした。

ダーウィンがガラパゴス諸島で、変種の動物に気づいたのはある意味偶然ですが、それに気付くだけの準備が出来ていたことが、重要な視点です。ダーウィンが唱えた”自然淘汰による進化論”は、現在では生命科学の統一理論となっていて、驚くほど多様な生物がどこから来て、どのようにして特定の環境に適応するようになったのかを説明できる理論です。この理論は、化石の記録、種の地理的分布、発生学上の再現性、相同構造、遺残器官、分類学上の入れ子関係など、多くの多様な証拠を調和させる理論でもあります。現在では広く受け入れられている進化論も、実は発表してから140年間も認められませんでした。

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ダーウィン(1809-1882)

ダーウィンの有名な名言に、「生き残る種とは、最も強いものではない。最も知的なものでもない。それは、変化に最もよく適応したものである」と言うのがあります。また、「誰が正しいかではなく、何が正しいかが重要である」や「科学者は願望や愛着ではなく、石の心を持つべきである」という、科学者や研究者への戒めとなる名言もあります。また「科学とは、事実を整理することである。これにより、普遍的な法則や結論を見出せる」という名言も、ダーウィンらしいです。

ダーウィンがガラパゴス諸島で、イグアナやフィンチのように、同じ種の動物でもカラダの特徴が異なることに気付いたのには、博物学などの知識が役に立ったのは間違いありません。しかし私は、やはり根底には”化石”などの古生物学の知識が頭にあったのではないかと考えています。三葉虫の化石は示準化石と言われるように、その地層の年代を推定する重要な化石です。しかし、三葉虫の化石は地質年代ごとに少しづつ変化しています。ダーウィンは、生きている生物の前に、死んだ生物から”進化論のヒント”をもらっていた可能性があります。

ダーウィンは「 私はつかの間の事柄に気づき、それを観察する能力が人より優れているだけである」と謙遜していますが、”自分の持てる知識を総動員して、一つの結論を導く洞察力”は、並大抵ではありません。そういう意味では、ダーウィンは天才です。

最後にダーウィンに関するウンチクを一つ。ダーウィンの母スザンナは、高級洋食器で知られるウェッジウッドの創始者の娘です。

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