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見田宗介(みたむねすけ)「まなざしの地獄」を読んで

 見田宗介が亡くなったことを知り、いや正確には今年4月に亡くなっていたことを知人から知らされ、「まなざしの地獄」を読んでみました。

 この人の名前や著作は、以前から時々気になっていたのですが、"気になる”だけで時が過ぎていました。そもそも、この人の名前を、「けんだ・そうすけ」と読み間違えていたこともありました。

 見田宗介の死去を知らせてくれた知人からは、「気流の鳴る音」、「自我の起源」を勧められました。が、「自我の起源」の一部に目を通してみると、難解で、今の自分にはハードルが高いと感じたため、書評を参考にしつつ、この著作を選んでみました。

 この著作のテーマは、当時の日本社会を揺るがした現実の事件、すなわち永山則夫による連続射殺事件で、社会学者としての視点、分析がわかりやすかったと思います。それでも、ときおり不必要に難解な言葉遣いがあるように感じたのは、私の日本語レベルが低いせいなのかと気になりました。本の最後についている、弟子である大澤真幸の解説の文章が、論理も言葉遣いもわかりやすいので、一層そう感じてしまいました。

 例えば、

 「否定性は、止揚の不可欠の一契機である・・・」(「まなざしの地獄」から)

 難解な哲学書の翻訳のような、こんな表現を使う必要があるのでしょうか。誰に読ませたいのかと考えてしまいます。

 それにしても、この作品に接することで、こうした歴史的重大事件に対する、自分の無知不明を恥じることになりました。

 この著作は、NNと呼ばれる永山則夫の引き起こした事件を、不幸な生い立ちの若者が、自暴自棄になって引き起こした単純な事件と捉えずに、そのような事件を引き起こした社会の深層に迫って解き明かそうとしました。

 「人の現在と未来とを呪縛するのは、この過去をその本人の「現在」として、また本人の「未来」として、執拗にその本人にさし向ける他者たちの「まなざし」であり、他者たちの実践である」という視点から、「まなざしの地獄」という言葉が生まれています。

 「都会に流入してのちは、"生理的な飢え"そのものは・・・一応満たされていたはず・・・。絶対に満たされなかったものは、社会的差別、自己の社会的アイデンティティの否定性、あるいは、"存在の飢え"とでもいうものであった」

 そして、この構図は、「自営業者」の中の分厚い層を形成している、在日朝鮮人や被差別部落の出身者たち(そうだったんだ!)にも当てはまるのだという。

 「社会は一つの、よく機能する巨大な消化器系統である。それは年々数十万人の新鮮な青少年を飲み込みその労働力を吸収しつくし、余分なもの、不消化なものを凝固して排泄する」、そういう時代だった。

 永山則夫が感じた以下のような無念を我々は、感じ取ることができるだろうか;

 「貧困とは貧困以上のものである。経済的カテゴリーであるより以上に、社会的存在論のカテゴリー・・・。貧しさが人を殺すということ、このことの無念」

 『「見る前に跳べ」というアジテーションは、跳ぶ前に見ることもできる人間の言い方だ。「見る前に跳ぶ」ことだけを強いられてあることへの無念・・・』

 大澤真幸の以下のような解説、分析からも学ぶことができるだろう;

 この「まなざしの地獄」で分析される永山則夫の事件が起きた時代は、1960年代後半から1970年代。そして、その後、1997年の神戸「酒鬼薔薇聖斗」事件、2000年の西鉄バスハイジャック事件、同年愛知県豊川市の老女殺人事件、2008年の秋葉原無差別殺傷事件と、凶悪な少年犯罪が続いて発生したが、これらの少年たちは、犯罪を犯した年齢こそ違うが、すべて同じ年生まれだという一見不可思議な符合。

 これらの事件は、"まなざしの不在"が"地獄"であった少年たちによって引き起こされたという分析。すなわち、「まなざしによる地獄」と、「まなざしの不在による地獄」という際立った対照性がみられるのだという。

 「特別に恨むべき理由もない他者を殺害するという、至上の悪において初めて、彼らは自らの存在の透明性を克服して、自らの確固たる存在を獲得することができた」という分析は衝撃的でもある。

 永山則夫事件の背後に、こんなにも深く日本社会が抱えていた(大澤真幸が指摘しているように、違った形でその後の日本社会も抱え続けている)本質的な課題、構造が横たわっていたことに今頃気づかされました。永山則夫本人の著書も"存在"は知っていましたが、手に取るまでの関心は持ちませんでした。これは読んでみなければいけないという気になりました。

 本筋から外れますが、実は近年、「死刑制度」について少し興味を惹かれるています。きっかけは、何年か前に渋谷の映画館であった、死刑制度を廃止する活動をしている団体が主催した映画祭でした。そこで訴えられていた主張に、説得力を感じました。

 最近では、森鴎外没後100年記念の講演会で、基調講演やパネルディスカッションの進行役を務めた平野啓一郎が、その際に提示した、人や社会に対する視点や視野に惹かれるところがあったのですが、その彼が「死刑について」という本を最近出している(岩波書店)ことに気がつきました。どんな主張をしているのか、関心があります。

 ちょっと発散気味になりますが、「死」を取り巻くテーマとしては、その平野啓一郎が、前述の基調講演で取り上げた、森鴎外の「高瀬舟」のテーマ、すなわち"安楽死"にも、強く興味を惹かれます。

 このテーマに関しては、やはりミニシアターで先日見る機会があった羽田澄子監督のドキュメンタリー映画「終わりよければすべてよし」で、考えさせられることがいろいろありました。こちらは自分にも降りかかってくる身近な問題ですので、避けて通れないテーマでもあります。

(終わり)

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