鈴木智之

かつては小説を書いていたが、小説家ではない。今は詩を書いているらしいが、詩人でもない。

鈴木智之

かつては小説を書いていたが、小説家ではない。今は詩を書いているらしいが、詩人でもない。

最近の記事

水族館

わたしに似ている魚を探しに 夜の水族館へ出かけた どの魚もわたしに似てはいなかったが 魚たちの影はどれもわたしの影と同じだ 夜 消灯の時間はとうに過ぎ 水槽の明かりだけが足元を照らし 魚の影は床を走り回り 小さな脚注のように わたしの影にまとわりつく わたしのつまさきが波紋の影をひろげる それが本当ならば とわたしは呟き 声が途切れる それが本当ならば いや 本当ではない ここは水族館ではない 七百病床を越える大学病院 それがわたしのいる場所だ 槽に見えるものは すべて病室で

    • 牧羊犬の夢 

      鐘が鳴る 丘の上に連なる羊たちは 頭を上げず 草を食んでいる 私は待つ 午後 彼らの影は長い 夏が終わる 代赭色に覆われた季節が来る 羊たちはそんなに貧弱な巻き毛で 冷風から身を守るつもりなのか 鐘が鳴る 私の吐く息はすでに白い 雪のひとひらが足元に落ちる 季節に季節が重なる 私は待つ もう 鳴き声は 聞こえない 彼らが食む草はとうに枯れた 羊たちは凍え 一頭 また一頭 倒れていく 一声も鳴かず 訪れるものが何かも知らず ただ 倒れていく その時 彼らは聴くだろう 鐘の音を 

      • 音楽室

        流氷に仮設された音楽室の中で 斜めに傾いだ鍵盤を押す ふたつ みっつ はりめぐらされてゆく音程の差分が よそよそしい等高線になる よっつ いつつ 灰色から水色にいたる 淡彩に塗り分けられた深度は 暗い藍色を夢見る 五線譜のぬくもりを懐かしむ余力は 私にはない グランドピアノの屋根が開き 黒い帆が掲げられる 楽譜は譜面台とともに吹き払われ 鍵盤は冷たく 指は音楽を奏でる前に凍える 対位旋律は崩れ 楽節の隘路にとどこおり ただ左手に許された三和音の記憶だけが 時間をかろうじてせき

        • 「きみの上には花ばかり」のためのノート

          この短編を書いたのは2011年で、活字になった三番目の(そして最後の)小説である。最初のタイトルは『オッフェルトリウム』で、地方自治体が主催する文学賞を受賞し、僕にしては大きな額の賞金を貰った。それが今のところ唯一の賞歴だが、三人の選考委員による評価は総じて否定的で、うち一人からは完全な失敗作だと断言されたほどである。僕としても特に異論はなく、それ以前に書き上げた二つの長編小説と比べて優れた点があるとも感じない。ただ読み返してみると、今でも正視できる作品はこれ一つだけのよ

          きみの上には花ばかり(後編)

          ――書店でアルバイトをするのが、性に合っているのだと、信じこんでいたんです。馬鹿ですね。その娘はため息をそっと吐き出すような声で笑った。本屋に勤めれば、毎日本を読んで暮らせるとでも思っていたのか、そう自分に訊いてみたいくらいです。もちろん、そんな夢を見ていたわけではありません。でも他の仕事に比べたら、まだましかもしれない、と期待してはいました。まし、というのは、仕事ではなく、この私のことです。もうちょっと、人の役に立つ何かができるだろう、そう多寡をくくっていました。  娘はと

          きみの上には花ばかり(後編)

          夜 私のつまさきは なだらかな半音階の稜線をなぞる 雨が踝を流れる 私は裸足だ 足指の爪は黒い 陽に焼かれた印画紙のように いんがし と声に出してみる その言葉をどこで覚えたか 思い出せない 私の黒い爪 私の穢れた足跡 私という印画紙に残された ただ忘れてゆくための焦げ痕 その黒い痕を ひとさし指で なぞり 私は倒れ 眠る なぜ 眠りに落ちる というのだろう 私は 眠りに浮かぶ 背中を 黒い水が流れる 浮かんだまま 私は 水音を聴く そして不意に思う 春が来るのだと 春もまた

          きみの上には花ばかり(前編)

           三か月の休職の後、男が最初に始めたのは写真を撮ることだった。  家電量販店で買った一番安いデジタルカメラは、すぐ手のひらに馴染み、それ自体がかすかなぬくもりを持っているようだった。背広のポケットに入れると、子供の頃、ハムスターをレインコートに隠して小学校に連れていったことを思い出した。  三か月前、職場のメーラーにたまっていく一方のメールをただ茫然として見下ろすことしかできなくなった時、男には昨日起こった出来事と一昨日に起こった出来事の区別がつかなくなっていた。半年以上前の

          きみの上には花ばかり(前編)