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きみの上には花ばかり(後編)

――書店でアルバイトをするのが、性に合っているのだと、信じこんでいたんです。馬鹿ですね。その娘はため息をそっと吐き出すような声で笑った。本屋に勤めれば、毎日本を読んで暮らせるとでも思っていたのか、そう自分に訊いてみたいくらいです。もちろん、そんな夢を見ていたわけではありません。でも他の仕事に比べたら、まだましかもしれない、と期待してはいました。まし、というのは、仕事ではなく、この私のことです。もうちょっと、人の役に立つ何かができるだろう、そう多寡をくくっていました。
 娘はとてもよく話した。そして話の合間に言い訳のように、私は本当はとても無口なんですよ、と繰り返した。手の気まずさを進んで引きとってやろうとする優しさと、自分が巻きこまれた突発事をどこか楽しんでいるらしい様子とを、男は同時に見てとった。間違って捕まえてしまったその娘は、二か月前に同じ場所で男を捕まえた女とは、見れば見るほど似ていなかった。そう断言できるくせに、あの女の顔を覚えていない自分に、二重の苛立ちを感じた。この女はあの女ではなく、その女もあの女ではない、そんな気の遠くなるような消去法を、この先おまえは何十回何百回と繰り返すつもりなのか。自嘲しながら、やっと二十歳になったかならないかの年頃の娘の顔を、なぜその娘が自分の目の前にいるのかもよくわからないまま、茫然として眺めていた。
――でも、駄目でした。売り場なんて、ちっとも覚えられないんです。作家の名前も、新刊のタイトルも、お客さんに何か訊かれるたびに、ぼんやりしてしまうんです。自分でも愛読していた本の場所さえ、わからない。私なんかより、パソコンの検索機をもう一台置いた方が、絶対ましです。本当に、そう思います。いつも、自分がどうしようもなく駄目な人間に思えて、仕方ありません。すり潰りしてやりたくなります。すり鉢に私を乗せて、すりこぎで、ごりごりと挽き潰してやるんです。死ね、死ね、って呪いの呪文みたいに呟きながら、二度と蘇らないように、ちゃんと土に還るように、心から憎しみをこめて、そうしてやるんです。
 露悪に酔っているようでも、ことさら沈みこんでいる様子でもなかった。ビールには二口三口しか飲んでいなかった。おっとりとグラスに口を近づけると、飲むというより口紅の跡を残すためだけのように唇を縁にあて、その間ずっと男を澄んだ目で透視しようとしていた。娘の話し方は、水たまりを慎重に避けながら歩くつま先のようだった。喉元で言葉を一つずつ静かに選り分けていた。言い淀んだり、声を詰まらせたりすることは決してなかった。水たまりの先にはまた水たまりがあり、どの水面にも娘の姿が映っていて、次々に現れる自分の姿を追いかけるように、娘の声は曲がりくねった道を正確になぞり続けた。居酒屋の中で会話するにはほんのわずか低すぎる声だった。身をかがめ、背中で周りの騒音を遮ろうとしているうちに、男は小さな娘に覆いかぶさるような姿勢になっていた。娘は訊いた。
――あなたには好きな本がありますか? いつも鞄の中に入れて、手放さずに持ち歩くような一冊の本を、お持ちです?
 男は首を振った。娘は自分のトートバックに手を差し入れ、一瞬、男はそこからハンマースホイの画集が出てくるのではないかと目を瞠ったが、引き出されたのはもっとずっと小さな単行本だった。娘は本を一度セーターの胸元にぎゅっと押し当ててから、男に差し出した。表紙を開いてとびらを見た。カフカ全集の一冊だった。
――日記です。三年前、たまたまそこの古書店で見つけた、端本(はほん)です。私には、どんな本よりも、この日記が親しく語りかけてくる気がします。この本だけが、私のことをわかってくれています。この本のことを一番よくわかってあげているのも、きっと私です。
端本という言葉が何気なく出てくるところが、さすがに書店員だな、と思いながらページを開くと、ところどころに色鉛筆で赤い傍線が引かれているのが見えた。自分の好きな本にためらいなく書きこみができる一途さが、羨ましかった。カフカの日記に施された傍線は、どれも垂直に、太く、決然と引かれていた。

 《解決不可能の問い:ぼくは破産したのか? 没落しつつあるのか?     
  ほとんどすべての兆候がそれを物語っている(無関心、無感動、神経の状態、放心、職務における無能、頭痛、不眠)、ほとんど希望だけがそれに反対している。》

 《抱きとって下さい、私を、あなたの腕に。それは深みです。私を抱きとって下さい。その深みのなかに。今は駄目だとおっしゃるなら、また後日。私を受けて下さい、受けて下さい、痴愚と苦痛のこのつづら織りを。》

 《無能、あらゆる点において、しかも完璧に。》

 男は娘に気づかれないよう、小さくため息をつきながら本を閉じた。自分のことを痴愚と苦痛のつづら織りだと信じている娘の、悲しみも怖れもないまっすぐな視線、朽ち果てる時を黙って待ち受ける静かな絶望に満ちた視線を、おずおずと見つめた。問い返す言葉が見つからなかったので、男は鞄からソフィ・カルの本のコピーを取り出し、カフカの日記の上に重ねて娘に差し出した。
 ホチキスで閉じられた紙束を見ると、娘の眼差しは急に輝きだした。ページの間から洩れる光を誰にも見せまいとするように、きゅうっと肩をすぼめ、微笑みながら中を覗きこみ、ふと生真面目な目つきになって黙りこんだかと思うと、一分も経たないうちに呟いた。私、この本、好きだな。男は心の中で苦笑した。
――信じていませんね? 私には抜群の嗅覚があるんです。その本との相性がいいか悪いか、最初に開いたページを斜め読みしただけで嗅ぎ分けられるんです。この本はとてもいい匂いがします。嘘じゃありません。
――差し上げます、と男は言った。全冊コピーをしたわけじゃないけれど、それでよければ。
――大切なものなんでしょう?
――さあ、どうだろう。何度か読み返したけれど、何が大切なのか、よくわからなかったな。
――大切でないものを、何度も読み返すの?
――鍵だけがあって、どんな扉を開けるのかがよくわからない、と男は言い、悲嘆とも怒りともつかない大きな感情の波を受けとめながら、ああ、俺は酔っ払っているな、と思った。酔いが残っている間は睡眠薬の服用を禁じられていたから、今夜はもう眠れる見こみはなかった。
娘は悲しそうに笑い、路上で男につかまれた手首を、まだその周囲に赤い痕が残っているとでも言うように見下ろした。
――きっと、その扉を探していて、人違いをされたんですね。違いますか?
――そうかもしれないね、あるいは。
――いつもそういう話し方をするの? どうだろう、とか、かもしれない、とか。
――そうかもしれない。
――大の男が、あんなに血相を変えて…… 私に説明する義務があると思いませんか。
――誰かが僕を盗んだんです。
――なるほど。それを取り返そうと?
――いや、相手が盗んだと思いこんでいる僕は、実は僕じゃないんだ。それを相手に教えてやりたい。
――ずいぶんと親切なんですね、あなたは。
 出会って初めて、娘の言葉に皮肉の棘を聞きとり、男は胸騒ぎを覚えた。相手が急に自分を「あなた」と呼び始めたなら、十中八九、それは攻撃が開始される合図なのだと、男は経験から知っていた。
――ご自身にもわかっていないみたいだから、教えてあげましょう。
――何を?
――あなたは嫉妬しているんです。あなたは、あなたを盗んだその誰かのことが、好きで好きでたまらないんです。あなたは、その誰かが勝手に盗んだと思いこんでいるもう一人のあなたに、嫉妬しているんです。
 男はがっかりして首を振った。
――その誰かに、僕は一度しか会っていない。顔さえ覚えていない。何も知らないんです。そういうお話が生まれる余地はない。「かもしれない」は付けませんよ。
――会った回数とか、相手について何を知っているか、とか、そんなことは問題ではないと思いませんか。
――盗まれたというのはね、僕のことを何も知らない誰かが、僕について知ったかぶりをして、何かをわかったような気に勝手になられることです。そういう傲慢さには、我慢がならない。
――あなたご自身は、自分について、どれだけ知っていらっしゃるんですか。
 少なくとも、きみよりは、と言いかけて、男は口をつぐんだ。娘は自分の父親ほどの年齢の男をからかうことに興味を覚え始めたらしかったが、どこまでも落ちつき払った娘がそう言うと、年若い精神分析医の診断のように響いた。激昂してしまいそうな自分が怖かったが、もう少しこの怒りを楽しんでいたい気もした。もう何年も、心底腹を立てたことがなかった。いったん怒りが噴き上げてきて、どうコントロールしていいかわからなくなった時、その怒りが自分をどこへ連れてくのか、見てみたい気もした。だが再び娘に話しかけた時には、つかみかけた怒りはもう手のひらの中で崩れ、他の感情と同じように指の隙間からこぼれ落ちていった。
――僕が知っているのはね、自分というものは、そんなに簡単に要約できるものじゃないということだな。僕自身にも、他人にも。僕自身にすらできないことを、他人に認めるわけにはいかない。
――意固地なんですね。でも私は自分のことを要約することができますよ。
――娘は微笑みながら、もう一度カフカの日記をとりあげ、抱きしめた。猫以外に友達のいない子供が猫を抱くしぐさだった。
――私を要約してくれるのは私ではなく、一冊の本です。私自身よりも、この本の方が私をよく知っています。この本が、私を定義しているんです。
 男がその本を奪おうとしているわけでもないのに、強く胸に抱いたまま、一瞬、敵意に満ちた瞳で娘は男を睨んた。奪えるものなら奪ってごらん、と瞳が男を挑発していた。痴愚と苦痛のつづら織だろうと、どれだけ完璧に無能だろうと、私が私であることを、他の誰にもやめさせたりできない。そう瞳が言っていた。男はまた娘に羨望を感じた。

 居酒屋を出ると、娘のすぐ後からつき従うようにして、靖国通り沿いに九段下へ歩いた。
――人違いしておいて、ろくに釈明もしないような人には、罰として少しつき合ってもらいますからね。娘は表に出ると急に明るい声になった。
――ああ、私、春は大嫌いだな。自分がぐずぐずに崩れて、汚らしい垢の山みたいになって、それが少しずつ腐っていくのがわかるの。散るんじゃなくて、腐るの。わかるでしょう?
 そう言いながら、犬の吐息のように生温かい、湿気に重みを増した空気の中で、娘はうんと伸びをし、その両腕をクロールの形に二度、三度、振り回した。細く小さな身体の内側に充溢する、弾けそうな力をうっかり覗き見てしまってから、男は目をそらした。娘は男を振り返った。
――プロコフィエフの七番目のピアノ・ソナタの緩徐楽章みたいな夜。聴いたことある?
――ないね。
――アルバン・ベルクのヴァイオリン協奏曲は?
――ない。
――じゃあ、フェデリコ・モンポウの『夢とのたたかい』は?
――名前も聞いたことがない。
――何も知らないんですね。日本で一番大きな図書館の司書って、そんなものなの?
 男は声を立てて笑った。きみは本屋じゃなくてCD屋に勤めるべきだったな。
 娘は口を尖らすと前に向き直り、平均台を歩く足どりでまっすぐ歩きながら、突然大きな声で歌い出した。ビブラートのかからない、童女のように澄んだ、美しいソプラノだった。男は驚き、聴き惚れた。

   Damunt de tu només les Flors. きみの上には花ばかり
  Eren com una ofrena blanca: まるで白い供物のよう
  la llum que daven al teu cos 光はきみのからだにあつまり
  mai més seria de la branca. 枝には何も残らない

   Tuta una vida de perfume 香りのいのちすべてが
  amb el seu bes t’era donada. 口づけとともに贈られて
  Tu respendies de la llum きみはかがやいていた
  per l’esguard clos atresorada. 閉じた眼に充たされた光のせいで

  Si hagués pogut ésser sospir せめて花のため息であれば
  de flor! Donar-me com un llir 百合のようにきみに身をささげ
  a tu, perqué la meva vida きみの胸の上で萎れ
  s’anés marcint sobre el teu pit. そうなれば
  I no saber mai més la nit きみのそばから去っていく
  que al teu costat fóra esaïda. 夜を知ることもなかっただろう

 午後十一時、世界には二人と娘の唄声以外のあらゆるものが死に絶えてしまったように思えた。歌詞の意味はわからなかった。ただ途方もなく大きな荒涼が訪れ、男の内側をひとしきり吹き鳴らしながら通り過ぎるのを、黙って耐えていた。それから尋ねた。
――どうしてそんなに寂しい唄を唄うんだ。
――私が寂しいからよ。
――どうしてきみは寂しいんだ。
――唄が寂しいからよ。
 娘はけらけらと笑いながら答えた。だが、もう一度最初から唄うように促すと、今度は頑なに口を閉ざした。いつでも男の少し先を歩きながら、娘のつま先は時折、眼に見えない水たまりを避ける具合に、かすかによろめいた。細い肩が蝋燭の灯のように揺らいだ。そのまま地下鉄の九段下駅への入口も通り過ぎ、何かに憑かれて歩く娘のかかとの音をたどりながら、酩酊するでもなく冴え冴えとするでもない、おぼろな酔いの中を、夜の奥に向かって歩き続けた。
 今年の桜は散るのがことのほか遅いらしく、四月も半ばを過ぎて、千鳥ヶ淵にはまだ桜が残っていた。ぼうっと光る群れの方を指さして、una ofrena blanca、と娘は叫び、男の方を振り向いて、白い供物、と言い直した。そしてさっきの唄の最初の一節を繰り返して唄った。Damunt de tu només les Flors. Eren com una ofrena blanc……
 次の瞬間、男はほの白く浮かび上がる闇に足を踏みこんでいた。
 桜は散り際の絶頂だった。発光する無数の花びらが風に煽られ、爆発するように吹き上がったかと思うと、霧となってゆったりと夜の空気の中に立ちこめ、やがて暗い底の方へ沈んでいく、その繰り返しだった。時間が流れていくのを目で見ることができた。花弁の一枚一枚に時が結晶し、砂時計の砂となって、ひとときも止まることなく降りしきっていた。娘は同じ唄を繰り返し唄っていた。男は立ち尽くした。ofrenaという言葉に呼び覚まされ、いったいいつどこで耳にしたものか、奉納唱(オッフェルトリウム)という単語が頭に浮かんだ。
 なぜこんなふうに身を任せきることができないのか。時が来れば散る。跡形も残らない。それでいいはずなのに、なぜこれほど寂しいのか。俺は何者でもない、闇の中から現れ、闇に消えていく、ただそれだけだ。そう開き直ることが、なぜできなくなってしまったのか。
 灰褐色の燐光が風の勢いに合わせて強まったり、また闇に溶けこみそうになったりするのを見るたびに、あの若い女の爪を思い出した。忘れてはいけないことを忘れ、忘れなければならないことが忘れられない、と思った。あの女にもう一度会いたかった。写された写真を示して、それがおまえだと主張するつもりなら、認めてもいい。本当のおまえは、おまえの孤独は、今、ここにあるおまえにではなく、闇の中に消えていった砂時計の砂粒の中にある、と言い張るなら、それで構わない。ただ、きみはどうなんだ、と、一言、問い返してみたかった。きみの孤独はどこにある。僕はきみに僕を晒した。どうしてきみは僕にきみを晒さない。それで五分と五分ではないのか。
 娘は初めて雪を見る子供みたいにはしゃいでいた。娘の浅黄色のセーターの上にも、黒い髪にも、睫毛にも、花弁が引っかかっていた。蛍がとまったように、そこだけが白く光っていた。娘は駆け出し、両手を空に突き出して、捧げものを受ける具合に落ちてくる花びらを受けとめ、また駆け出し、花弁の霧の中で回った。それから男の前に戻ってくると、思いのほか沈んだ、低い声でささやいた。
――帰ろう。風邪を引きそう。
 男はうなずき、駅の方角に向かって歩き始めたが、娘はついてこなかった。立ち止まり、首を傾げる動作で促した。まだ歩き始めようとしない相手にもう一度こちらから近づこうとすると、娘は意を決して男に駆け寄り、耳打ちをするようにつま先立ちでささやいた。
――あの人なのね?
――誰が?
――あなたの扉。
 男は顔を上げて周囲を見回した。誰もいなかった。
ここじゃないの。ここに来る途中。背の高い女の人だった。
――どうして教えてくれなかった。
――やっぱり気づいていなかったのね。
 娘は気味悪そうな顔をして男を見上げた。
 岩波ホールの前からずっと、九段下の駅まで、あなたのすぐ後ろ、三メートルくらいのところを、影のように尾いてきたのに。私たち、まるで三人一組みたいに歩いていた。あのヒールの音。あなたに気づかせるために、わざと靴音を響かせていたんだと思う。私の唄にかき消されないように――本当に聞こえなかったの? 何も感じなかったの?

 男は書庫から借り出してきた二冊の本を、事務室の机の上のブックエンドにしばらく立てかけておいた。カフカ全集の第七巻『日記』と、娘にコピーを渡してしまったソフィ・カルの『本当の話』。昼休みになると、交互にページをめくった。目を瞑っていきあたりばったりにページを開き、視線が落ちた最初の数行から読み進め、ふと立ち止まったセンテンスがあれば、モレスキンの手帳に書き写していく。作業を続けているうちに、その二冊がコインの裏表に思えてきた。
 ソフィ・カルはある日、偶然に一冊の手帳を拾い、そこに書きとめられた連絡先に次々とインタビューして、その証言の中から持ち主の姿を復元しようとしたことがあるという。もしソフィとカフカが同時代に生きていて、カフカがうっかりこの日記を落とし、それをソフィが拾ったなら、いったいどんなパフォーマンスが仕立て上げられたことだろう? 男は想像してみた。そして結局、ソフィはその日記に何も手を加えず、それをそのまま自分の「作品」として発表したのに違いない、と結論づけた。
 この奇妙な写真家を一貫して突き動かしているのは、見知らぬ他人の孤独を覗きこみ、その孤独をつかのま盗みとり、独占してしまいたいという欲望だった。あるいは逆に、自分自身の孤独を、見知らぬ誰に同じようなやり方で盗みとってほしいという欲望だった。不思議なことに、ソフィはその欲望を阻むものにも同じくらいの愛着を寄せ、他人と自分とを隔てているさまざまな壁に、玩具を弄ぶようにじゃれついていた。出会ったばかりの人間を自分のベッドで眠らせ、その寝顔を写真に撮った。生まれた時から盲いている人々に、これまでに見たもっとも美しいものを尋ね、そのイメージを写真に撮った。恋人と別れた時に宿泊していたホテルの一室を、そっくりそのまま再現して「作品」にした。
 カフカの日記は、そんなソフィの心をすっかり捕えてしまうはずだった。その几帳面な筆跡に、文字を書きつけたそばから消していく苛立たしい抹消線に、ひたすら繰り返されていく自分自身への呪詛と罵倒の言葉に、心奪われていたに違いない。いったいそこに剥き出しになっている孤独以上の、何をつけ加える必要があるだろうか。
 もしソフィ・カルが望むことがたった一つあるとすれば、それは彼女がカフカを誘惑し、ソフィをカフカの小説の登場人物の一人として物語らせることかもしれない。カフカは自分自身を剥き出しにしたように、その小説の中でソフィを剥き出しにするだろう。異形の動物に変身させられ、残酷な拷問機械にかけられ、血を流しながら少しずつ皮を剥がされていく、一人の写真家の孤独。ソフィはそれを恍惚として受け入れるだろう。進んで自分自身を供物として捧げ、カフカの眼差しの下で血と肉と骨の残骸になり果てながら、美しい奉納唱を唄おうとさえするだろう……
 会ったこともない写真家についての勝手な空想を、呆けた頭の奥で考えながら、境目の消えた一日と別の一日の間を男はさまよっていた。散っていく花びらのように、記憶や感情はふと寄せ集まり、かと思うとまた風にあおられて広がり、ますます時間の境目を曖昧にした。
 十年前に脳溢血で亡くなった父親の言葉を思い出した。都市銀行のシンクタンクの誇り高い調査員だった父親は、溢れ出した血に小脳をひとしきり浸され、四ヶ月間の昏睡状態をICUで過ごした後、眼球の動きを取り戻すのに一か月、右腕の動きを取り戻すのにもう二か月をかけなければならなかった。逆に言えば、男の父親が取り戻せたのはそれだけだった。
 たとえば父親は、時間を取り戻すことができなかった。
――今は、何時? 
 ようやく話せるようになった頃、父親の銅鑼声は、ほとんど十五分ごとに脳神経外科病棟に反響した。自分の父親はそんなに大きな声で怒鳴ることができる人間だったのだと、その時初めて男は知った。
――午後六時だよ、と男は答えた。
――六時って、何?
――時間だよ。
――嘘をつけ、と父親は怒鳴った。さっき、時間は、一日だって、言ったじゃないか。
――そうだよ。一日とか一年とか一秒も時間なんだ。でも、六時っていうのも時間の一つなんだよ。
――じゃあ、一日と六時は、お、同じなの?
――違うよ。一時間が二十四集まって、二十四時間で一日になるんだよ。
――わからないよう。
 父親は息子や妻の説明についていけなくなると、いつも顔をゴムのように歪めて叫んだ。叫び声はこちら側とあちら側を踏み越える合図となり、父親は悲鳴を上げながら、その境界線の向こう、息子にも他の誰にも答えられない問いの黒い沼の中に沈んでいった。わからないよう。叫び声を聞くたび、男は沼の中に沈んでいくのが自分自身のような気がして身の毛がよだった。
教えて。父は骨ばった腕で男にしがみつきながら叫んだ。教えて、二十五時は、どこにいくの?
――二十五時は、ないんだよ。
――二十四時はあるのに、どうして二十五時はないの?
――二十五時は、次の日の午前一時になるんだよ。
――ああ、あー、と父親は呻き声を喉の奥から絞り出した。ああ、あー、わからないよう。
 剥がれかけた白い皮膚を顔一面にこびりつかせた父の顔が苦しみに伸び縮みするのを見下ろしながら、男は説明の言葉を探そうとして、突然、自分の返答がすべて間違いだったことに気づいた。二十五時がいったいどこに行くのか、一日からはみ出してしまい、次の一日にすべりこむこともできない一時間のために、いったいどんなふうに時計を巻き戻してやればいいのか、男は知らなかった。
 それから三年が経った朝、父親は肺炎をこじらせて死んだ。そして今、男は自分がどこにも行き着くことのない二十五時にはまりこんでしまったのだと気づいた。わからないよう、と叫び出しそうになっているのは男自身だった。

 そのことを笑い話にしようとして娘に語ると、相手は深く考えこむ顔つきになった。やがて慎重な手つきで、一語ずつ確かめるように答えた。
――私には、過ぎ去っていく一分一秒が苦痛でたまりません。お腹の真ん中をピンで刺されて、壁にとめられているみたいに、この瞬間に繋ぎとめられて、身動きすることを許されていません。痛みは、今! 今! 今! って、絶えず私の中で叫び続けているみたいです。それが果てしなく続いていきます。もし二十五時が、一日からはみ出してしまった時間が本当にあるなら、私はその時間の中に逃げこみたい。
 最初に会った時と同じように、自分の苦痛について話す娘の口調は淡々としていた。自分ではない誰かの臨床報告を、同僚の医師にしている口ぶりだった。男と娘の間に、今、どこかで苦しみに喘いでいる第三者がいるようだった。
――今も苦しい? 娘の冷静な口調につりこまれ、男は思わず、それと知らずに残酷な質問をした。
――今は、遠のいています。一人になると、すぐに戻ってきますけれど。誰かと一緒にいて、苦痛が増す時と、減る時があります。相手によって違うんです。あなたが相手の時は、そうですね、それほど苦痛ではありません。あなたは、あまり人間の匂いがしないから。
 娘は冗談めかす様子でもなく真面目にそう言うと、紅茶をそっと飲みほした。
 なぜ娘が自分自身にそれほどの憎しみと苦痛を抱いているのか、それをこともなげに口にするのか、男は見極めたくなっていた。ただのポーズか、心の底からの感情なのか。原因は失恋か、幼少時の体験か。一過性のものなのか、ずっとそれを引きずり続けてきたのか。自分の視線の淫らさにうんざりしながらも、ことあるごとに、男の目は娘の苦しみの痕跡を見つけたがっていた。視線は娘の身体としぐさを舐めるように見まわしながら、黒い長袖のカーディガンから覗く細い手首の上に傷跡がないか、娘の瞳の中にほんの少しでも苦痛の兆候がないか、探し出そうとしていた。
 娘が自分を言葉で憎々しげにすり潰すたびに、あの女の声を重ね合わさずにはいられなかった。決定的なことが起こった夜でした。あの女がそう話す声を覚えていた。その夜を境に一生引きずっていくであろう傷を、覚悟しなければなりませんでした。その決定的な何かを、男はあの女からついに訊き出すことができなかった。まるで代償を求めるように、俺は目の前の娘が抱える苦しみの理由を知りたがっている、と男は思った。それを知ったところで、あの女の苦しみを理解できるはずもないことはわかっていながら、相手の告白をじりじりと待ち受ける自分を、どうしても抑えられなかった。
 娘と会うのは二度目だった。
 最初に人違いをして娘の手首をつかんだ時、男は自分の無様さに辟易しながら、ぎこちなく自分の名刺を相手に差し出した。名刺を誰かに渡すなどということ自体、もう長い間なかっただけに、余計に自分の振舞を滑稽に感じたが、そこに書かれた図書館の名は、相手の警戒心を解くのにそこそこ役立ったらしかった。千鳥ヶ淵での花見の帰り際に、娘は笑いながら言った。私に名刺を渡す男たちは、たいてい自分のプライベートな携帯番号を、裏にこっそり書くものなんですけれどね。そして男の名刺の裏に自分の携帯番号とメールアドレスを書きこむと、男に突き返した。さようなら。私からはあなたへ連絡しません。もし話したいことが出てきたら、あなたの方から、ここへどうぞ。
 自分から娘に電話をかけるとは思っていなかった。だが夜は日を追うにつれて長くなっていた。マイスリー、リスミー、優しい兄妹のような名前の睡眠導入剤と睡眠薬は服用量が三倍に増え、それでも眠れなくなった。眠れない男の頭上を、気道を確保するために喉に穴を開けた父親の姿が、離婚した妻との最後のやりとりが、それからそれへと明け方まで浮かんだ。悲しみも不安も恐怖もなく、ただ深く大きな寂しさだけが、空っぽの筒となった男を絶え間なく吹き抜けていった。
 花見の夜から四日後、男は待ち合わせの場所に十五分も早く着いてしまったのに、娘は先に来て待っていた。近づいてくる男に気づかず、恥じ入るような視線を辛抱強くつま先に落とし続けていた。叱られて廊下に立たされた子供みたいだった。男が目の前に立っても顔を上げようとしなかった。軽はずみを責められている気がして黙っていると、娘はふっと寂しそうに笑い、視線を伏せたまま呟いた。
――びっくりした。本当に来るなんて、嘘みたい。
――こういう状況の場合、それは男の側が口にする台詞だと思うなあ。
 男はほっとして軽口を叩いた。その口調の端に、娘に取入ろうとする自分の媚と小狡さを感じた。誰でもいい、どんな手段でもいい、他人の話を聞きたい、と思った。苦しんでいる他人の話を聞きたい。聞き出すとしたら、このタイミングしかなかった。お互いがまだ赤の他人の距離を保っていられる今なら、タクシーの運転手が乗客から身の上話を引き出すように、気軽に尋ねることができると思っていた。一言だけでいいはずだった。何をそんなに苦しんでいるんだ、何が辛いんだ? そう訊くだけでよかった。
 だが実際に会ってみると、話すのは男の側だった。
 娘の眼差しを受けた途端、あれほど滞っていた言葉は、不思議なほど滑らかに喉の奥から垂れ流されてきた。話して。話をしに来てくれたんでしょう? 娘の眼に促されるままに、男は話した。仕事のこと、本のことに始まり、二年半の結婚生活、妻とのいさかいから離婚へ雪崩れ落ちていくいきさつ、鬱病と診断されてからの三か月間の休職まで、繰り返し練習した口頭試問のように並べ立てていく自分の手つきに、男は驚いた。浅ましいとさえ思わなかった。ただ呆れていた。
 陽射しが傾きかけたカフェの窓際の席で、小柄な娘はまっすぐに背筋を伸ばし、こちらをやや上目遣いに見つめながら、まばたきもせずに男の話を聞き続けていた。親の葬儀の席で弔辞に聞き入る子のようだった。男が話の中に自嘲を織り交ぜるたびに、娘は目を伏せた。その眼差しがたたえている静けさ、ほとんど悲しみに近い諦めを、男はもう少しで優しさと勘違いしそうになった。自分がどれだけ話をしたところで、娘が一緒に悲しんでくれるはずもないのに、ことさら娘を悲しませようとして、男は次々に言葉を継いだ。娘の眼差しに引き寄せられて、ほんのつかのま、闇の中に散っていた砂粒が集まり、男をもう一度首尾一貫した物語に仕立てていった。娘は身じろぎもしなかった。まるで男は本当は一冊の書物であり、娘の指によって真ん中から開かれ、一字一句逃さずに読まれるのだとでもいうようだった。
男が言い淀んだのは、娘が一つの質問を向けた時だけだった。
――それで、私を誰と間違えたんですか?
 質問が一枚の栞になり、その栞を挟んで、不意に書物が閉じられるのを男は感じた。言葉はふっつりと途絶え、答えに詰まった。すると娘の顔つきが変わった。男の核心は言葉ではなく沈黙の中にあったのだと言わんばかりに、娘の頬に急に赤みが差し、喪の静けさの中に好奇心が広がっていくのがわかった。さて、何をどう話したものか、と思い、ふと思い出した言葉が口をついて出ていた。金曜日の子供。娘はかすかに首を傾げた。男はもう一度言った。
――金曜日の子供。あの人のカメラのケースにそう書かれていた。Friday’s child. どういう意味か、尋ねる暇がなかった。それが心残りなんだ。
――それなら、もう心配ありません。娘の頬に微笑が広がった。私が知っていますからね。もう一度うかがいますけれど、あなたは本当に図書館員? マザーグースもご存知ない? Friday’s child is loving and giving. 愛を与え歩く金曜日の子供。こんな唄、本当に子供でも知っています。
――そうか、と言ったきり、男は深く椅子に沈みこんだ。口の中で、二度、三度、繰り返した。愛を与え歩く金曜日の子供。
 しばらく黙りこんだ後、最初に口を開いたのは娘の方だった。
――いったい何に巻きこまれているんですか? あれは誰なんですか。今日もここに来るまで、ずっと私たちの後ろにいました。
――ずっと? 後ろに、すぐ近くにいたのか。
――とぼけているの? それとも、私が幽霊を見ていたの?
 娘はゆっくり顔を近づけると、男の目を覗きこんだ。目の中に隠れた狂気のありかを捜されている気がして、男は思わず顔をそむけた。窓の外、最初に娘の姿を見つけた車道の向こう側、コミック専門店のあたりに視線を泳がせた。もちろん、そこに誰が立っているわけでもなかった。哀れむような娘の視線が、自分の横顔に注がれ続けているのを感じた。思わず、深いため息が洩れた。
 あの女と出会い、女の話を聞き、盗み撮りをされるようになるまでの一部始終を男が語り終えると、また二人は黙りこんだ。
 自分が体験していることを正しく相手に伝えきれていないようで、話せば話すほどもどかしくなり、男は繰り返し言い換え、吃り、横道にそれ、最後は途方に暮れ、結語を宙吊りにしたまま、テーブルから両手を少し浮かせた姿勢で凍りついた。その手をこれから鍵盤に下ろし、音楽が始まるのを待つように、娘はじっとその手元に視線を注いだ。だがもう、男からはそれ以上の何も出て来ることはなかった。すべてのページはめくられてしまっていた。
――私は、と娘はぽつりと言った。Wednesday’s child. 水曜日の子供です。Wednesday’s child is full of owe. 悲哀に満ちる水曜日の子供。
――なぜなんだろう、と男は咄嗟に訊いた。何がそんなにきみを悲しくさせるんだろう。
――お答えすることはできません。
娘は毅然とした口調で言った。その言葉にほんの少し怒気が含まれているのを聴きとって、男は再び黙った。
――いやな子だとお思いでしょうね。さんざん人前でわざとらしく自分を罵り、嘲っておきながら、その理由を尋ねられると口を噤むなんて、思わせぶりでいやらしい振舞だと、自分でもわかっています。でも、こればかりはどうしようもないんです。痛みが私から離れたことは、これまで一度もありませんでした。これからもないでしょう。私は思わず、痛い、と叫んでしまいます。それはもう、ほとんど反射的な行動です。でも、何が私に痛みを与えているのかをお話することは、私にはできないのです。話したくないのではなくて、言葉にすることができないのです。言葉にした瞬間に、嘘になったしまうたぐいのことだからです。きっと、他の人から見れば、どうしようもなくありふれたことなのかもしれません。他の人なら、苦痛も感じずにやり過ごしているようなことなのかもしれません。私にはよくわかりません。私は他の人ではありませんから。
 そこまで一息に言うと、男が自分の話を理解するのを待つように、娘は一息ついた。
――水曜日の子供には、金曜日の子供が考えていることが、少しだけ想像できます。金曜日の子供もまた、水曜日の子供と同じように、どうしたって言葉にできない何かを、必ず抱えこんでいるからです。ただ、これからお話することは、すべて私の推測でしかありません。あなたは、Aというその写真家のことを、お調べになりましたか。
 何もわからずじまいだった、と男は答えた。図書館にある目ぼしいレファレンス・ツールは全部あたったが、どの参考図書にもデータベースにも、Aの名前はなかった。
 そうでしょうね。Aという写真家は、たぶん、元から存在しないのだと思います。その女の人の口から出まかせだったのでしょう。その人は最初から、ご自分のことを、ただご自分のことだけを、話されていたんです。あなたもそう感じたでしょう?
 女と別れた直後の、あの腑に落ちなさ、語られてしまったはずなのに自分がそれを受け止めていないという居心地の悪い感触を、男はもう一度思い出し、反芻した。娘は男のかわりに頷き、続けた。
 私自身は、誰かにこっそり写真を撮られていたら、気色悪くて、吐き気がするでしょう。そして私の孤独を、秘密を、あらゆる手を尽くして守ろうとするに違いありません。それを暴かれ、他人の目に晒されることは、殺されるも同然だからです。でも、金曜日の子供は、私ほど悲観的ではないと思う。私と違って、まだ夢を見ることができるのね。
――夢を見る?
――そう。自分の孤独を言葉にしなくても、誰かがそれを見つめてくれているという夢。必死になって自分の孤独を守りながら、一方では、その孤独を誰かがそっと盗み見てくれることを望んでいるんです。その誰かは、決して目の前に絶対に姿を現さない。その誰かのレンズの前で、金曜日の子供の寂しさは、自分でも気づかないうちに盗み撮りされ、すみずみまで、淫らなくらいさらけ出してしまっているでしょう。その誰かのことを夢見ている限り、きっとその女の人は、Aのように自殺せず、生きていくことができます。フレンチネイルの爪は、きっと目印なのです。その爪の先が、Aという架空の写真家の目にとまったように、見知らぬ誰かの目にとまり、自分の孤独を盗みとってくれることを、きっと夢見ているんです。

 その後も、郵便受けには一週間に一度、夕刊やダイレクトメールと一緒に必ず茶封筒が入っていた。時折、写真の中には男と一緒に娘の姿が写りこんでいることがあった。最初のうち、男は郵便受けの前で写真を千切り捨てるようにしていたが、次第にそれも面倒になった。写真を持ち帰り、電話機の横に積み上がった紙束――抗鬱剤、精神安定薬、睡眠薬、睡眠導入薬が入っている袋、それに療内科と薬局のおびただしい領収書――の上に置いた。
ある日、気まぐれにその中から一枚を取り出して職場に持っていき、机のブックエンドの右端に画鋲で止めた。ソフィ・カルとカフカの本はもう書庫に返した後で、その代わりブックエンドには、本から言葉を抜き書きしたモレスキンの手帳が立てかけてあった。
 昼休みになると、日本十進分類法と件名表目表の間に挟まったその手帳を広げた。

   《二十時四十五分。階段の上のほうに二人の足が現れる。わたしは隠
    れ場で身を潜める。彼らは店を出て、左に向かって歩き出す。数秒
    待つ。彼らの後をつけようとわたしが袋小路から出たそのとき、彼
    らは引き返してくる。〈彼女が先に振り返った。彼よりも彼女の方
    が怖い。〉わたしは思わず後ずさりする。彼らはこちらを振り返る
    ことなくわたしの前を、穏やかに、何もいわず通りすぎ、三時間前
    にやってきたのと同じ道を引き返す。通りに人影はない。彼らを距
    離を置いて尾行する。》

 なぜこんな回りくどい方法をとらなければならないのか。手帳と写真を交互に見比べながら思った。誰かが誰かの孤独の中心を覗きこむために、どうして尾行したり盗み撮りしたりしなければならないのか。
 問う一方で、男は薄々、その答えに気づいていた。試しに目を瞑って、自分があの娘を、絶望の理由を打ち明けることを頑なに拒む娘の小さな背中を、物陰に隠れて尾行するところを想像してみた。娘と会い、いったん別れたふりをして、回れ右をし、十メートルの間隔を置いてその後ろを、見えない水たまりを避けるつま先を、蝋燭のように揺らぐか細いシルエットを、追いかける。電車の座席で居眠りをしている横顔を、買い物籠を下げながらスーの食材売り場をさまよう虚ろな視線を、アパートの扉の鍵を開ける後ろ姿を、カーテン越しに窓に映るぼんやりしたシルエットを、目の端で盗みとる。
 あまりにも生々しくて淫らな空想だったので、慌てて目を開けた。
 たぶん、娘の言ったとおりだ、と男は思った。俺たちは自分の孤独をそう簡単に他人に明け渡したりしない。鉄でできた城壁の中にめいめいの孤独を囲い込んでから、唯一の扉を開けるための暗号が書かれた紙を、小さく丸めて飲みこんでしまう。そうやってたいていの人間は、自分の孤独を言い表す言葉すらも、永久に忘れてしまう。
 自分の孤独について黙っていることでしか、その孤独を他人に向けて表すことができない。その黙説法を読みとることでしか、他人の孤独を知ることができない。黙りこんでいる時、自分でも気づかないうちに、言葉にできない孤独が、俺たちの横顔に、指先に、背中に、滲み出てくる。城壁をむりやり破ることが他人にも本人にもできない以上、そうやって滲み出てくる孤独を盗み撮りする以外に、いったいどうやって他人の孤独を手に入れる方法があるだろう。

 思い切って盗み撮りされた写真の一枚を娘に見せると、相手はあからさまに怯えた顔つきになり、そわそわと周囲を見回してから、小声で言った。
――よかった。幽霊じゃなくて。
――まだわからない。幽霊なのかもしれない。
写した人が? それとも写された人が? 
 またからかわれているのかと思って顔を上げると、娘は不機嫌そうな顔で男を見上げていた。
――あなたは生身の人間を幽霊扱いしている。
――幽霊、と言ったのはきみの方だ。
――私にはその人が見えています。でも、あなたは見ていない。見ようともしていない。あなたはその人を透明人間にしてしまっている。殺して、幽霊にしてしまっている。
 男は気色ばんで、いや、違う、と言った。声が大きくなっていた。
――きみに何がわかる? 僕はあの人を見つけたいと思っている。どうしてあの人が僕には見えないのか、僕自身にもまったくわからない。だが、最初に出会った時から、ずっと探している。探して、もう一度話がしたい。それは本当のことだ。
――あなたは怖がっている。
娘はこちらを静かに見上げて言った。上目遣いになると、娘の三白眼がかすかに酷薄な光をまといつかせ始めた。
――もう一度あの人と話をする機会なんて、絶対に訪れません。それができるなら、あの人はとうにあなたに話しかけているはずです。違いますか。本当はあなたにもわかっているんでしょう? 十分にわかっていながら、認めるのが恐ろしくて、希望を失うのが怖くて、見ないふりをしながら時間を引き延ばそうとしているんでしょう?
 前のめりの姿勢になったまま、男は言葉を詰まらせた。離婚した妻から、別れ際に同じことを言われたのを思い出していた。あなたは私と話をする機会を永久に失くしました。話しかけようとする男に向かって妻はそう言った。機会ならいつでも、あんなにたくさんあったのに、あなたはすべて潰してしまいました。いいですか、私はずっと待っていたんですよ。それを潰したのはあなたなんです。
 男は思わず訊いた。
――話す機会がないなら、どうして僕につきまとうんだ。
――それはあなたが考えることです。娘は紙コップの紅茶を啜った後で答えた。ここから先は、私の立ち入ることができる場所ではありません。でも、あなたはもう……
 娘の言葉が途切れた。突然に訪れた静けさの中で、男はいつもの癖のように窓から向かいのコミック書店の黄色い看板を眺めた。いつのまにか五月も半ばになっていた。初夏にしては肌寒い日で、通りはまだ春物のコートを着ている姿が目立った。その姿を水槽の中の熱帯魚のように眺め、しばらくしてもう一度向き直ると、娘は鳥のように肩を尖らせ、首をすくめていた。男と目を合わせずにささやいた。
――振り返らないで。そのままの姿勢で聞いて下さい。
――『フレンチ・コネクション』みたいだな。知っているかい。
――黙って。あなたの少し後ろに、あの人がいます。
 そう聞いた途端、それまで泡立っていた気分が嘘のように凪いだ。不思議なほど穏やかな気持ちだった。やっと来たか、と、寂しさに似たかすかな疲れを感じながら、心の中で男は呟いた。果てしなく長い間、この瞬間を待ち続けていた気がした。
――そう。写真を撮っている?
――カメラを持ってる。じっとして。
 男は顎の先で頷いた。
――今、撮りました。あなたの背中を。
――まだ続ける様子かな。
――もうやめようとしてる。カメラをハンドバッグにしまった。終わりみたい。
――こちらに背中を向けたら、教えてほしい。
――後を追うのね?
 男はもう一度頷いた。
――私も追います。
――いやだね。僕一人で行く。きみには関係がない。
――無理です。あなたにはあの人が見えてもいないじゃないですか。娘は嘲るように言った。私には見えます。それに私は警戒されていません。早く。すぐに行かないと、また見失ってしまう。
 男はまだぐずぐずしていた。娘は呆れたように男を見つめ、先に立って喫茶店の扉を押した。
――最初からそのつもりだったんでしょう? 二人一組なら、あの人を追いかけられる。あなたは尾行のためのパートナーが欲しかったんでしょう、『フレンチ・コネクション』みたいに? いいですか、私があの人を追います。少し後から、私を追って下さい。あなたが私を見失ったら、そこで終わりですからね。二度とチャンスはないと思って。
 前を向いたまま言い残し、もう小走りに駆け始めていた。頷く男の方を振り返りもしなかった。歩きながらトレンチコートを羽織る娘の姿はみるみる小さくなっていった。男もまた駆け出した。娘の背中のさらに向こうに、ずっと待ち望んできたもう一つの背中があるのかどうかは見分けられなかった。ただ娘を信じてついていくしかなかった。
 日はすでに暮れきっていて、舗道を歩く学生たちの群れの中から小さな背中を見分けるのはひどく難儀なことだった。明治大学の脇を通って坂を下り、JRの御茶ノ水駅の改札を抜け、新宿方面のプラットホームに駆け下りたところで、一度、見失った。すべりこんできた総武線に運任せで乗りこむと、娘のポニーテールの髪が隣のドアのすぐ脇で揺れているのが見えた。同じ車両にあの女もいるのかもしれない。そう思ったが、混雑した電車の中では、首をめぐらせるどころか、娘の後頭部が視界から消えないよう、閉ざされたドアに貼りついているのがやっとだった。新宿駅で大量に吐き出される人混みに押されまいと必死でしがみついていると、目の前にいたはずの娘は影も形もない。慌ててプラットホームに飛び移り、泳ぐように人混みをかきわけ、今度こそ完全に迷子になったと観念し、はっと思いついてポケットから携帯電話を取り出そうとし、するとその二の腕を後ろからわしづかみにされた。
 男に振り返らせる余裕も与えず、娘は再び男の前に立った。そして顎で行き先を指し示したかと思うと次の瞬間には人の波にまぎれ、そのまま空隙を器用に縫いながら、驚く速さで階段へと進んでいった。男は前後左右の重い塊を押しのけ、喘ぎ喘ぎ追った。今度は山手線だった。三十分ほど前に人身事故があったらしく、プラットホームはごった返していた。男は何度となく背中を見失い、するとそれを見越していたかのように、すぐ脇に娘が立って男を壁際に押しつけたり電車の中に押しこんだりした。自分が本当にあの女を追っているのか、それとも娘に先導されるがままに、どこか途轍もない場所に拉致されようとしているのかもわからなかった。
 下りたのは千駄ヶ谷だったか信濃町だったか、夢中で改札を抜けた男にはどちらでもよかった。ただ十メートル先のトレンチコートを追うだけだった。曲がり角にさしかかるたびに、娘のヒールのかかとが合図のように高く鳴った。角を右に曲がり、直進し、また角を右に曲がった。まるでアンモナイトの殻のように大きな渦巻き型の道のりを歩いているような、遠回りをしながらその渦の中心に少しずつ近づいているような、錯覚を覚えた。いつかこんな夢を見た気がした。
 いくつめの角を曲がったか数えていなかった。気がつくとコンビニエンスストアの明かりの前で、両手をポケットに突っこんだまま立ち尽くした、寂しげな娘の姿が目に入った。男は近づいた。娘もまた、とうとう女を見失ったのだ、と思った。
 娘は男を振り返ると、無表情のままポケットから片手を出して前を指した。マンションの間に挟まれた児童公園が、窪みにたまった影のように、小さな暗がりをつくっていた。
――そこに入りました、と娘は言った。行ってらっしゃい。私はここで待っています。
 
 
 入口の狭さに比べ、公園は思ったより奥行きがあった。細長い矩形の空間に、ブランコが二つ、ばねで地面に固定された動物をかたどった乗り物、砂場、そしてそれらと向き合うように、木立の合間に距離を置いて二つ一組のベンチが三組、置かれていた。その一番奥の、一番暗いベンチに座っている人影を見つけると、男は足の裏が砂利を擦る音を立てないよう、注意して歩いていった。
 近づいていくにつれ、暗がりの中の人影がどういう姿勢をとっているのか、男にもわかってきた。
人影は前屈みになり、自分の太腿に肘をつき、二つの手のひらで顔を覆っていた。ベンチの斜め向かい側、縞馬の形をした乗り物に、揺れないようにそっと腰を下ろしてから、男はその女に目をこらした。女は肩を震わせ、鼻をすすり、しゃくりあげていた。時折身じろぎし、女の顔を覆う手のひらがが照明に照らされた領域をかすめるたびに、指先の小さな白い爪が光った。やがて、道に迷った子供みたいに、女は声をあげて泣き始めた。ええん、ええん、と、下手な子役の演技のように泣き声を上げた。男はその場に固まったまま、女が泣く声を、ただ黙って聞き続けた。きっといつも家に帰る前に、この女はこの場所へ必ず立ち寄るのだ、と男は推測した。毎日、誰にも見つからないように、この女はここへ来て、たった一人で泣けるだけ泣くのだろう。このみすぼらしく煤けた公園が、女が自分をすべてさらけ出すことのできる、世界で唯一の場所なのだ。そこまで考えた時、突然、一つの感情が心臓をわしづかみにし、絞りあげた。痛みに呻きながら、男は思った。
 かわいそうに。
それは休職して以来、一度も味わったことのない気持ちだった。半年以上もの間、つねに自分自身の寂しさ、自分自身の孤独だけしか目の前になかった男に、初めて射しこんできた、混じりけのない、真正な他人への感情だった。男は泣きじゃくる女を見つめたまま、しばらくの間、その感情が自分を奥底から揺さぶり、中心を刺し貫き、激しく痛めつけながら通り抜けていくのに任せた。そしてその間ずっと、同じ一つの言葉が、心臓の鼓動に合わせて、繰り返し男のこめかみで鳴り響いた。かわいそうに、――かわいそうに、――かわいそうに。
 もう少しで男は声に出してそう言ってしまうところだった。だが、もし相手に近づき、肩に手を置き、その言葉を本当に口にしてしまったなら、女は必ず激怒し、男に向かって叫んだことだろう。気安く触れるんじゃないよ。今、自分が踏みこんでしまっている領域は、決して言葉で触れてはならない場所だということを、女が自分に望んでいるものは言葉ではないことを、男は初めて本当に理解した。
 ポケットを探ると、指先が触れたカメラケースの感触は妙に懐かしかった。音を立てないようにカメラを取り出し、スイッチを入れ、フラッシュをオフにし、夜間撮影モードに切り替え、ズームを最大にしてから、顔を覆って泣く女にレンズを向け、シャッターを切った。それから立ち上がって、木陰に身を隠した。
 しばらくして、女もまた立ち上がった。ハンドバッグからハンカチを取り出して目のまわりを拭い、鼻をかむと、入ってきたのとは反対側の方向から出て行った。男は少し離れて後を追った。女の後ろ姿を見つめながら夜の道を歩いた。ショートボブの髪先が揺れるたびに、二の腕をくすぐったく感じた二月のことを思い出した。かかとがこつこつと規則正しく鳴った。さっきまで激しく泣きじゃくっていた女とは、もう別人だった。公園から歩いて五分ほどの場所にある二階建てのアパートの、一階の一番端の部屋に入っていくのを見届けるまで、そのまますぐ後をついていった。
 女の部屋の番号を確かめてから、カメラをもう一度ポケットから取り出した。写真の写り具合を確かめた。暗い画像だったが、被写体の姿は十分に見てとることができた。灰褐色の爪の色もきちんと写っていた。男は満足し、スイッチを切り、カメラからメモリーカードを引き抜くと、女の部屋と同じ番号のついた郵便受けに入れた。ことりと音を立ててカードが郵便受けに落ちるのを確かめてから、男はアパートに背を向け、元来た道をたどり始めた。
 それが男にできることのすべてだった。

 ポケットの中に収まっていたカメラは、まだかすかな温もりを帯びていた。男はさっきまで女が座っていた公園のベンチにレンズを向けると、シャッターを切った。メモリーカードがなくとも、何枚かは撮ることができるはずだった。振り向いて、自分が座っていた縞馬を写した。縞馬の隣の象とパンダを、誰も乗っていないブランコを、茂みからするりと現れた一匹の猫を、街灯に照らされて砂場に浮かび上がった自分の影を写した。その影を追いながら公園を出ると、まだコンビニエンスストアの前に立って男を待っていた娘は顔を上げ、何かを言いたそうに薄く唇を開いた。男はファインダーを覗いたまま、声に出されなかったその質問に、片手を上げて答えた。
 近寄ってこようとする娘を制止して、レンズを向けた。
 娘は照れたように笑ったが、顔をそむけはしなかった。急に背筋を伸ばし、地面を踏みつけるように両足を開いて立ち、片手を腰に当て、こちらを挑発する姿勢になった。さあ、撮れるものなら、撮ってごらん。
男がシャッターのボタンを押す瞬間、初めて出会ってからずっと少女のようだったその面立ちが、液晶画面の中で大人の女の顔つきに変わった。

     ※文中の引用は次の著作による。
       ソフィ・カル『本当の話』(野崎歓訳 平凡社)
      フランツ・カフカ『決定版カフカ全集7 日記』(谷口茂訳 
       新潮社)
      ジョセプ・ジャネス『きみの上には花ばかり』 (フェデリコ・
       モンポウの歌曲集『夢とのたたかい』から。高橋悠治訳)

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