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【雑感】「周りはアホばっかりだ!」と嘆く人に対して思うこと

◆「無知の知」について

随分前にSNSでこんなことを述べている人がいた。

「無知は罪である」と。
「無知は時として犯罪である」と。
「無知は存在自体が悪である」と。

そして、ソクラテスの「無知の知」を引き合いに出しながら、彼らは「自分が知らないということすら知らないのはアホだ」というようなことを言っていたと記憶している。

でも、私から言わせると、このソクラテスの「無知の知」、意味の取り違えなんだよなあ……と思う。「無知の知」という言葉は、あのソクラテスが、ソフィストとよばれる当時の知識人である政治家・詩人・職人たちが集まる場所に向かい、彼らを論駁していくことで、「ソフィストたちは、『知らないことを知っていると思っている』。私は、『知らないことを知らないと思っている』。この一点において、私は彼らよりもモノを知っている」というところから生まれたとされる言葉である。そして、このことがきっかけで、ソクラテスの真似をして若者たちが次から次へと、ソフィストたちを論駁し始めたそうだ。こうして、街の風紀を乱したという罪で、ソクラテスは裁判にかけられて死罪になってしまう。ざっくり言えば、そんな話。余談だが、そもそもソクラテスは「自分がソフィストたちより賢いことを証明しに神託所に乗り込んだ」のではない。ソクラテスの弟子のカイレフォンが、アポロンの神託所に出向いて、巫女に「ソクラテス以上の賢者はあるか」と尋ねたところ、「ソクラテス以上の賢者はない」と答えたらしい。このことを耳にしたソクラテスは、自身が賢明なる者だとは思っていなかったため、上述の神託の反証を試みる。そこで、彼は世間で評判の賢者(ソフィスト)たちに会って、問答を行うことで、彼らが自分より賢明なことを明らかにして、要は「自分は賢明ではない」ことを証明しようとしたというのが、事の発端だった。

という話は置いておいて、冒頭に出てきた方のように、「無知の知」という言葉は、現在巷で使われているような「知らないことを知っている」という意味ではないんだよという話をしたい。これは、西洋古代哲学者の納富信留さん訳の『ソクラテスの弁明』(光文社古典新訳文庫)を読めばわかる。以下、本書より引用。

人間はすべて「大切なことについて、知らない」という不知の状態にある。ソクラテスは「知らないことを知らないと思う」という点で、他の人々とは異なり、「人間的な知恵」をもつとされるが、それさえも「不知」の一種であり、神の知恵との対比では無に過ぎない。

ー『ソクラテスの弁明』プラトン著 納富信留訳 p.36

ソクラテスがあえて自分が持っていると認めるのは、「人間的な知恵」(アントローピネー・ソフィアー)と彼が呼ぶものであった。「人間的な」という形容詞は「神」との対比で用いられており、「人間並の」とか「人間に相応しい」といった謙虚な意味である。ソクラテスも実は他のすべての人間とまったく同じに、「知らない」という「不知」の状態にある。本来の知恵は、「善、正義、立派(美)」といった大切な事柄に関わるものであり、それを持っているのは、おそらくは神のみである(二三A)。では、「知恵」という点で人間に可能なことは何か?それは、ソクラテスのように、「知らないので、ちょうどそのとおり、知らないと思っている」という自覚であろう(二一D、二二E)。これが、「人間的な知恵」という名で呼ばれる。

ー『ソクラテスの弁明』プラトン著 納富信留訳 p.126

 この「無知」(アマティアー)、つまり「知らないこと」(不知、アグノイア)を自覚していない状態こそが、最悪の恥ずべきあり方であった(プラトンは、「知らない」ことをめぐる状態を、「不知/無知」という語で基本的に分けている。この区別をきちんとつけないと、混乱や誤りに陥るので、注意)。そういった「無知」のあり方が、「思い込み」(ドクサ)と呼ばれていた。ソクラテスは図らずも、自己の知恵をめぐる吟味の遍歴において、こういった多くのニセ知者を暴いてしまったのである。
 くり返すが、ここで大切なのは、ソクラテスが「知らないと思っている」という慎重な言い方をしていて、日本で流布する「無知の知」(無知を知っている)といった表現は用いていない点である(二一B、二三Bへの注を参照)。ソクラテスはそんな特別な知者として、人類の「教師」などと崇められる人物ではなくー彼は自分が「教師」であることをくりかえし否定しているーあくまで人間が知恵という点でどのように謙虚であるべきか、を代表して示している。そこで初めて、哲学が始まるからである。[「無知の知」という標語がどのような意味で誤りであり、それがどうして日本で流布したかは、納富信留『哲学者の誕生ーソクラテスをめぐる人々』(ちくま新書、二〇〇五年)第六章が、文献的、哲学的、歴史的に論じている。]

ー『ソクラテスの弁明』プラトン著 納富信留訳 p.129-p.130

『ソクラテスの弁明』の訳者である納富信留先生は、「無知の知」ではなく、「不知の自覚」という言葉を使っておられる。つまり、ソクラテスとしては、「人間としての知はあるが、それは善・正義・立派(美)に関する本来的な意味の知ではなく、それらについて自分は知り得ないという点において、神と対比して自らの知など取るに足らないと、私は思っている」と述べているのであって、決して「何も知らないことを知っている」(しかも、ソクラテスの弟子であり、『ソクラテスの弁明』を書いたプラトンは「知っている」というワードは用いず、「思っている(思う)」というワードを用いている)という意味ではない。それこそ、SNSで自分の周りの「アホ」な人たちに「お前らは『無知の知』すら理解できていないアホだ」というのは、ソクラテスの「無知の知」についての無知を自覚していないという意味で、この方の言う「無知の無知」に当てはまってしまうのではないか?と思った次第である。(もちろん、ここで言う「無知の知」は、『ソクラテスの弁明』に記載された本来的な意味での「無知の知」ではないが……)

◆言葉を知らん無知な人間を批判しておいて、基本的なタームの誤用はマズいでしょう……

2点目の指摘。基本的なタームの誤用と思われる箇所があった。基本的には言語を正確に用いられる方で、文章も上手だし、頭は悪くないと私は思うのだが、ここで指摘する間違いは「他人のことを『アホ』呼ばわりする」には、ちょっと頂けないな……と思った。

具体的には『理論的』と『論理的』の取り違えである。ここで、『理論』と『論理』の定義を確認してみよう。

【理論(theory)】実験や科学的な検証によって、明らかにされた、「実証性」、「再現性」、「客観性」をもつ一般法則

【論理(logic)】物事を説明するときに前提と結論を繋げる手段。主張(ある命題が成り立つこと)の根拠を示して、主張を行うこと。推論。Aという前提があるから、Bが成り立ち、Bが成り立つから、Cという結論が成り立つというように。

以上が、私の中の認識。改めて、Wikipediaで定義を確認してみる。

理論(りろん、英: theory, 仏: théorie, 独: Theorie)とは、「個々の現象を法則的、統一的に説明できるように筋道を立てて組み立てられた知識の体系」[1]。自然科学、人文科学、社会科学などの科学または学問において用いられている。

引用元:Wikipedia『理論』

論理学(ろんりがく、英: logic)とは、「論理」を成り立たせる論証の構成やその体系を研究する学問である。
(中略)
ここでいう論理とは、思考の形式及び法則である。これに加えて、思考のつながり、推理の仕方や論証のつながりを指す。よく言われる「論理的に話す、書く」という言葉は、つながりを明確にし、論証を過不足なく行うということである。

引用元:Wikipedia『論理学』

件の方は、「筋道立てて物事を説明できず、情緒でしか会話できないヤツはバカだ」みたいなニュアンスで話をされていたから、本来であれば、「論理的(logical)」と表現すべきところを「理論的(theoretical)」と表現してしまっていた。これは「言葉を知らない人間のことを『アホ』と評する」人がやったらマズいミスだろう。説得力が激減する。誤字脱字や難解な専門用語の誤用とかならまだしも(私もよくやる笑)、基本的なタームの誤用はアカンでしょ!

◆「本を読まないヤツはアホ」は本当に正しいのか?

そして、3点目。「本を読まないヤツはアホだ」という意見について。これについては、思うところがたくさんあるので少々長くなる。

私は、つい先日、以下の記事を読ませていただいた。

このnoteの著者は、みゆなさんというプロのライターさんで、非常に綺麗な文章を書かれる。特に実作者として工夫していることがまとめられた「『読みやすいね』と言ってもらえる文章を書くコツ」のシリーズが秀逸である。「わかりやすい文章が書きたい!」と思っておられる方は、参考にできるところが多々あると思う。

で、この記事の内容をザクッと説明すると、最近SNSが普及してきて、色んな人が発信する情報に簡単に触れられるようになったけれど、情報に触れて「なるほどなあ」と思うだけで満足してしまうことが増えているように思う。"頭に汗をかいて"考えることを意識的に増やしていかなければいけないね……みたいな内容である。(内容が気になる人はリンクを踏んで原文を読んでいただきたい)

この記事に対して私は以下のようなコメントをした。

〈1〉みゆなさん
良い記事でした。
私も気をつけなければな……と自戒する機会をいただきました。

このお話、本を読む際にも当てはまるように思います。よく巷には「本を読めば頭がよくなる/本を読まないヤツは頭が悪い」という言説が普及していますが、私はこれは当たっている部分と外れている部分があると考えています。

というのも、同じ「本を読む」という行為をするにも、何も考えずに、情報だけ接取して終わるのと、きっちり読書メモ等を取って自分なりに思考を働かせて読むのとでは、みゆなさんのおっしゃる「頭に汗をかいている度合い」がまったく異なると思うからです。大事なのは「読むこと」そのものよりも「読んで何を考えたか」だと思っています。その思考の蓄積が人間の脳を成長させるのです。

あと、考える時間を取るためには、どうやったって、入ってくる情報を取捨選択しなければなりません。要らない情報は捨てる。そうしないと考える時間を確保できません。ただ、これが結構難しくて、知識のない分野でこれをやってしまうと、誤って必要な情報も切り捨ててしまうことが度々発生してしまうからです。私もよくやります……笑。

〈2〉「本は読むだけじゃなく、考えないと賢くならない」とは言いましたが、実はそんなに高尚な話でもなく、基本的に「本を読むこと(知識を仕入れること)」は、娯楽だと思っています。娯楽だから、長く楽しく続けられるのですし、読書問わず、「何かを知り、考えること」を人間にだけ許された娯楽だと思ってしまえば、知ることや考えることが楽しくなります。

偉そうなことを散々述べましたが、私自身は現在は病気の影響で本がほとんど読めず、デジタル媒体の短文テキストばかり読んでいます笑。病気をする前も小難しい技術書や学術書、論文の類いしかほとんど読んだことがありません笑。なので、大した読書はしたことがないのですが、読んできた本の性質上、どうしても考えることを要求されるモノだったので、そうせざるを得なくて、「考えさせられていた」という感じです。論文を読んでレポートを書いたりとかです。だから、必要に迫られる環境に身を置くとかもいいかもしれませんね!簡単なことではないですが……笑。

おもしろい記事でした!
ありがとうございました!

というコメントをした(長いね……笑)。ここで言いたいのは、

「本は読むだけでは賢くならず、読んだことについて、思索をめぐらせないとあまり思考力の向上には寄与しない」

ということである。実は、私のコメントの〈1〉の冒頭の記述も論理的に言えば、間違っているのだが……笑。(後で述べる)

頭の中に簡単なベン図を描いてみてほしい。「本を読む人(A)」の集合と「考える人(B)」の集合が「重なる領域(A∧B)」の中に、「賢い人(C)」の集合が存在するというイメージだ。

で、先ほどの私のコメントでの誤りにも触れる話だが、件のお方に限らず、「本を読めば賢くなれる」という主張と「本を読まないヤツはアホ」という主張は、似ているようで包含関係としてはまったく逆のことを言っている。
前者は、「本を読むこと」が「賢くあること」の十分条件として語られており、後者は、「本を読むこと」が「賢くあること」の必要条件として語られているのだから。そういうわけで「本を読んだら賢くなれる」という主張と「本を読まないとアホになる」という主張はまったくもって別の主張であり、同時に主張するのは、ちゃんちゃらおかしいという話である。世間にはこういう人がたくさんいるわけだが。

そして、「本を読まないヤツはアホ」は些か雑すぎる主張で、先述のように「賢い人(C)」というのは、「本を読む人(A)」かつ「読んだことについて考える人(B)」の集合(A∧B)の中に存在する領域(C⊂A∧B)と考えている。つまり「本を読む」かつ「読んだ本について考える」ことが、「賢くある」ための必要条件であると私は思っている。こうすると、「本を読まないヤツはバカ」という主張は正しいように思われる。(∴「本を読むこと」は「賢くある」ための必要条件である)

しかし、現代において、情報の収集源はたくさんある(これらから、語彙の獲得も可能)。書籍(本)のみではない。Webサイトやニュースサイトおよびアプリ、YouTubeやTwitterなどのSNS(玉石混淆で、情報の信頼度としては低いが……)、あとはWebから論文や統計を閲覧できる環境にいる人もいるだろう。したがって、上記で示した「本を読む(A)」という集合は、現代においては正しくは、「情報を得る(A')」という集合へと変化する。
したがって、「本を読まないヤツはアホ(not A⇒not C)」という主張は正しいようで、現代においては成り立たない。(現代においては、not A'⇒not Cが成り立ち、A⊂A'の関係があり、not Aでもnot A'にならない場合が存在する)

◆知能や知恵は遺伝や環境の要因が大きいよという話(私の経験から)

あと、理屈ではなく、私の経験から話をすると、本を読まなくても賢いヤツは結構いた。高校や大学、大学院や会社に。知能というのは、結構な割合で遺伝の要素が強い。(エビデンスは探せばたくさん出てくると思う。今回はやらない笑)

あとは、環境要因周りに賢いヤツが多いと、彼らに揉まれて自然と賢くなることが多いように思う。習慣が変わるからだ。周りのヤツがめちゃくちゃデキる進学校とそうでもない普通の学校だと、どちらの方が勉強する習慣が付きそうか?そして、普段の会話に付いていくのに、頭を使いそうか?おそらく、前者であろう。よって、環境も知能を決定する大きな要因であると私は推定する。

このような遺伝や環境というのは、子供自身の努力だけでは、どうにもならないことが多い。学力(学習機会)の地域間格差などはよく話題に上るが、学校の数、図書館の規模、学習塾の数や質、書店の数と規模、都会と田舎での親の教育への意識の違い(都会ほど、学力の競争が激しいので、親の教育意識は高い傾向にある)などが実在するのは、認めざるを得ない。

最近では、「田舎出身の方が、教育の地域間格差を嘆いたブログ記事」が話題を読んでいた。

遺伝と環境は、「親から貰ったギフト」のようなモノだと私は考えている。私はたまたま、親の家系に賢い人がいて、それがたまたま遺伝して、そして、親が私の教育に安くないお金を惜しみなく投資してくれたおかげで、そこそこの学歴と職歴が得られたのだと思っている。
件の「本を読まないヤツはアホ」とおっしゃられる方は、自分がそういった「親からのギフト」に恵まれているという自己認識はあるのだろうか?まさか、「俺は自分の努力だけでここまで賢くなった」とか思ってはいないだろうか?

あと、思うのが「本を読まないヤツはアホ」といえるくらい、その人にとって「アホ」な人が目につくということは、その人の周りにたまたま「アホ」な人が多いだけではないのか?普通賢いヤツの周りには、賢いヤツが集まってくるので、「アホが目立つ」という考えに至らないと思うのだが。

周りが「アホ」ばっかりということは、その人自身も大してレベルの高い環境に身を置いていないという可能性が高いと私は思う。つまり、「自分は賢くて、周りは(本を読まない)アホ」というのは、自分の思い込みである可能性が高いと思う。

あるいは、ごくわずかな可能性で、件の方が、ずば抜けた秀才あるいは天才であるため、周りが「アホ」ばっかりに見えてしまうという可能性も考えられるが、そんなことはおそらくないだろう。

件のお方は、決して頭の悪い人ではないだろう。色んな哲学者の言葉を引用したり、読んだ本について語ったり、ある程度上手な文章が書ける。

ただ1つ思うのは、

「賢いあなたでも間違うことはあるし、あなたの賢さは『親から貰ったギフト』なんだと思ってもう少し謙虚になられてはどうか?」

ということだ。賢い人が何らかの原因で、人生のメインストリームから外れて、自分の望まない階層(こういう言い方は極めて失礼だが)に属する人たちと一緒に仕事をしたり、暮らしていかなければならないパターンというのは、わりとよく存在する。この人もそういうパターンなのかもしれない。だから、周りの人間が「アホ」に見えてしょうがないのかもしれない。

かくいう私も中学生くらいの頃は、傲岸不遜で周りの人間のことを、教師含めて全員「バカ」だと思っていた人間だ。ここで告白する。

でも、高校、大学、大学院、社会人と階層を上がっていくにつれて、

自分より賢い人など、世間にはごまんといるのだな

ということを肌身で感じ、当時の自分のバカさ加減を恥じたモノだ。件の方は、読書家なのだから、世の中にとんでもなく賢いヤツがいることは、読書から十分学んでいるだろうと思うのだが、それでも自分の半径数メートル内にいる人間が「アホ」ばかりだと、「本を読まないヤツはアホで周りはアホばっかり」というような考えが抑えきれないのだろうか?彼の周囲の環境はわからないが、哲学を学ぶくらい向学心があるのだから、学んだ哲学の眼差しを自分にも向けてほしい。

◆インプットの知能とアウトプットの知能

まだ言っておきたいことがあった。話の纏まりは悪くなるが、ご容赦いただきたい。知能についての私の認識。

知能というのは、インプットの知能とアウトプットの知能がある。

モノを雄弁に語るアウトプットの知能が高い人でも、モノを聞いて理解できないというインプットの知能が低いということが往々にしてある。

IQ検査でも、言語でアウトプットする能力を問われる語彙、計算の検査と言語で情報をインプットする能力を問われる数唱などがあったり、視覚から入ってくる情報をアウトプットする能力を求められる記号の書き写しの検査、無造作に並べられたパズルを組み立てる検査、行列推理などがあったりする。逆に視覚情報をインプットする能力を求められる検査もあった記憶がある。(目で見たモノを記憶し、それを再現する検査など)

これは、厳密に言うと、全ての検査でインプットおよびアウトプットの両方の能力が測られているのだが、どちらにウェイトを置いているかという話である。

そんなわけで世の中にはインプットは得意だけれど、アウトプットは苦手な人、逆にアウトプットは得意だけれど、インプットは苦手な人などいろいろいる。

件の方が言う「本を読まないアホ」な人たちは、インプットが苦手なのかもしれない。私も今、持病の影響で本がほとんど読めていない。文書によるインプットが極めて苦手だ。それでも、人様からはちゃんと筋の通った文章が書けていると評価していただけている。(幸いなことに)

だから、人に何か言葉を投げかけて、相手がそれを理解しようとしない(あるいはできない)という場面に遭遇したとき、即座に「コイツはアホ」と断じるのではなくて、「ひょっとしたら、この人はインプットは苦手だけれど、アウトプットならできるんじゃないか?」とか、相手の得意なことを探して、そこにチューニングしてやれば良い。

それをやるのは、頭の良い人の役目だ。頭の良い人が頭の悪い人にチューニングすることはできても、逆はできない。知識も経験も頭の良い人の方が持っているからだ。もし仮に「周りのヤツがアホで、自分はそうではない」という立場に立ったら、相手にチューニングしてあげよう。

◆「頭の良いヤツが頭の悪いヤツにいじめられる」というのは、組織内でのパワーバランスによっては本当

本稿最後のお話。その方は、「頭の良いヤツは頭の悪いヤツにいじめられる」とおっしゃっていたけど、これは私にも経験があって、同意できる部分がある。

私が中学生だったころだ。中学生時分なんかは思春期真っ只中で、常に「周りから自分はどう見られているか」を気にする生き物である。そんな中で自分を律して、勉強できるヤツなんて、基本的にはいない。いたとして、稀有な存在だ。私の通っていた公立中学は、当時地元でも有名な不良の巣窟であり、「勉強するヤツ=ガリ勉」といってバカにしたり、いじめたりする風潮が明らかにあった。

私もよく言われたし、いじめられた。

「勉強なんてできて、社会に出て、なんの役にたつねん!?何も役立たんやろ?」

否、私は結果として、勉強が役に立つというか、勉強することそのものが仕事であるというような職に就いてしまった(それも約1年と8ヶ月でやめてしまったが……)。

この話は良いとして、当時私が通っていた公立中学校でヒエラルキーを決定していたのは、学力ではなく、紛れもなく腕力であった。その当時はたくさん殴られたり、いじめられたりして、つらかったという話はまた今度する。だから、「頭の良いヤツと頭の悪いヤツがいたら、頭の良いヤツがいじめられる」というのは、正しい。

むろん、それはそのコミュニティの中で「頭の悪いヤツが多数派」だからだ。逆に「頭の良いヤツが多数派」の環境に行くと、今度は「頭の悪いヤツ」がいじめられる。組織内でのパワーバランスの偏りみたいなモノだ。

◆最後に

長くなった。要するに「本を読まないヤツはアホ」「周りのヤツはアホばっかりで呆れる」と主張する人に対して思うところを述べた。以上である。ちょっと(いや、かなり?)感じの悪い記事になってしまった感が否めないが、仕方ない。今回はこれにて終了。皆さま、また次回の記事も読んでもらえると非常にうれしい。

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