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【雑感】精神病者と健常者の死生観の違い、自殺について、安楽死について

──前置き

タイトル通り。メモ。
大袈裟にいえば死生観のようなモノが、精神に瑕疵を抱える者とそうでない、いわゆる〈健常者〉とでは違うのでしょうということ。
当たり前だと思う。精神疾患を抱えている者の少なからずが、なんらかの形で死にかけた経験をもつことが多いのだから。
 
精神疾患において、「死にかけた」ということは、死にたいと強く願う状態(希死念慮ということばがある)を通過していることを意味するので、そこで〈健常者〉とは「生きること」に対する考え方、価値観が変わってしまう(この変化が良いのか悪いのかは筆者にもわからない)のは致し方ないことではないだろうか。

で、「お主、精神疾患は生き死にに対する価値観変わってまういうて、どこが変わんねん?」という問いに対して、私なり考えるというか、なんとなくポッと出たことばを書いてみる。

私なんかが思うのは、精神的な病による〈切迫した〉体験をした人間とそうでない人間とでは、価値観の前提が違う。数学のことばでいえば「公理系が異なる世界に生きている」ような感じ。

◆「生き延びることを良しとするか?」について(健康な人との前提の違い)

  1. 「お前誰のおかげで生きられてると思ってんねん!(≒ 生き長らえていることに感謝すべき)」という理屈(?)は「生きていることが正である」という前提のうえではじめて成り立つ。

  2. もちろん、前提の異なる人もいるが、少数派なので、世の中にはあまり理解されない。この少数派に含まれるのが、精神疾患を抱えた者。

  3. 私はかつて死のうとして死にかけたのだけれども、今は助かって生きている。それが幸せなことなのかは、まだわからん。生きること自体が苦痛の人にとっては、生き長らえることは苦痛を感じる時間の延長に他ならないからだ。

  4. 私が死なずに今、生き延びていることに対して「幸せなことなのか"わからん"(=どちらとも断定できない)」と言うのは、生きていることが幸せだなと思う瞬間と、苦痛で仕方ないと思う瞬間が交互に押し寄せてくるからである。(そもそも双極症とはそういう病気である)

  5. 情動のグラフが上にも下にも激しく触れる(+100~-100)のも、ほとんど真ん中あたりを動かない(+10~-10)のも平均値をとったら0付近で人生の時間が延長されることに対して知覚する幸/不幸感は変わらんが、精神科医や心理士はみな「0付近を目指せ」という。

  6. 情動の平均値が同じ0でも、ボラティリティが大きいよりも小さい方が、人間は全体として〈幸せ〉に感じるらしい。経済学の「*プロスペクト理論」なんかも関係しているように感じた。人は「5万円得たときの喜びよりも、5万円失ったときの悲しみの方が大きい」みたいなやつ。

  7. つまり、私のような双極症の人間は、感情が負に振れるのをできるだけ抑えることを優先させる(その引き換えとして正に感情が振れる幅が小さくなったとしても)のが肝要である。すなわち、感情が負に振れる原因となる躁状態を抑制することは合理的。(エネルギーの過放出は、後にエネルギーの枯渇による鬱をもたらすから)

──補足
*「プロスペクト理論」は行動経済学の理論(ダニエル・カーネマン氏らが提唱**)で、価値(幸福感)を縦軸、損得を横軸に取ったときに、描かれるカーブの傾きが、得をしたときよりも損をしたときの方が大きくなる、という理論である。つまり、投資家は収益よりも損失の方に敏感に反応する。
ボラティリティがデカいということは、プロスペクト理論のグラフでいうところの積分の定義域が広い、ということなので、正負両方向に同じだけ幅をもつ領域を積分すると、定義域が広いほど価値(幸福感)の総和は小さくなるのでは?という定性的な説明が成り立ちそうではある。


Prospect Theory: An Analysis of Decision under Risk Daniel Kahneman, Amos Tversky Econometrica, Vol. 47, No. 2 (Mar., 1979), p. 279, FIGURE 3.

**元論文リンク

https://www.jstor.org/stable/1914185

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私は双極症の人間なので、上に書いたとおり感情の変動の小さな人生を送った方が幸せそうだ。生きていることが苦しくて仕方がない、と思わざるを得ない期間を減らしていけば、「人生が延長されることは良いこと(正、ポジティブ)である」という〈健常者〉のもつ前提に近づくことができる。〈健常者〉と同じ公理系の世界で生きることが可能になる。

しかも、中途半端に一度ならず死にかけているので、そうでない世界観も身につけている。これは、モノを考えたり表現をする上で多少なりとも有利かもしれない。違う世界を知りながら今の世界を生きることができたらいいなと思って生きている。

新卒就活のときに「芸術家タイプ」と診断された私の真価を発揮するときがきたようだ。

ゴミみたいな人生を歩んできた者にしか書けない"Phrase"があるだろ。

以上。この話はおわり。

◆自殺について

言いたいこと、二言だけ。

1.逃げ道を塞いだら(塞がれたら)人間は簡単に自殺する。
仕事やめたくて仕方がないのに仕事やめられない状況であったり、特定の人間との関わりを断ちたいのに同じ所に居ざるを得ない状況であったり。

2.究極的には「死にたい」って感情が、生きてることの苦痛から逃避したいのに逃避先がこの世にないからあの世へ行く他ない、というモノであるわけだから。

以上。現実逃避(というか、緊急退避)というのはだいじですね、というお話。追い込まれている人に「現実と向き合え」とか「今が踏ん張りどころだ」というのは、人によっては正しい(=より良い結果を導く可能性がある)のだが、人間、そう強靭な人ばかりではない。逃げ道を作ってあげること、だいじ。おわり。

◆安楽死について

これもシンプル。言いたいのは3つ(ほぼ2つ)。

1.「もう死ぬしかない」って状態になったときに、できるだけ苦痛の少ない死に方が選べるようであった方がいいと思うが、一度死ぬ〈経路〉ができてしまったら、「そちらの途があるのになんで選びませんの…?」みたいなことを言うやつが絶対出てくるから、安楽死制度にすぐに賛成の手を挙げられない。

2.死ぬほど苦しいけど、脳病や環境等でそう思わされている人がいるのだ。
要は、「死にたい」というのが本人の意思のように見えて、実はそうではない、自分ではない〈なにか〉に操られてそう思わされている人がいるということを認識した上で安楽死という制度を導入した方がbetter.

3.制度の導入が価値観のアップデートより先行してしまうと、死ななくてよい人が死んでしまう可能性が(かなり)ある。

以上。特に2番の太字部分、
「死にたい」というのが本人の意思のように見えて、実はそうではない
というのが、あまり実感できていない健常者の方や実感していてもうまく言葉にできていない精神疾患の当事者をよく見る。

前者は、「死にたい」と宣う人を見たときに、「この人は、真に自分の意思でそう言っているのか/操り人形みたいにして病気やらなんやらにそう言わされてるのか」というのを頭の片隅に置いておくと(やること自体は病院に連れていくなど変わらないかもしれないが、病人の発する言葉に対する解釈や理解が変わってきたりと)悪いことはないと思う。

後者は、「いまの自分の状況は、真に自分の意思なのか/病気によって脳がハックされた結果なのか」というのを念頭に置いておくと、冷静に対処がしやすくなると思う。おわり。

──おわりに

精神疾患者と健常者のもつ生き死にに対する前提の違いから、自殺について、安楽死について思うことをポツリと書いてみた。
「死にたい…」などと漏らすと、「じゃあ死ね」という痛罵を浴びせられたことは私も少なくない。
特に、この文章の最初の◆「生き続けることを良しとするか」みたいな話をすると、「お前みたいなやつはさっさと死ね」と言われかねないし、そこまでいかなくとも少なからずそのように思われるだろうなということをイメージしながら書いた。
でも、本音というのは多少なりとも汚れたもので、それを隠していては体裁は整うが、他者がアタマの中でなにを考えているのかは延々と見えてはこない。
だから、精神疾患の当事者としては、こう思ってますよ、ということを少しだけ書いてみた。これでもまだ取り繕ってる部分がある。もう少し汚くならないとな…と思う。前回の記事では、そういう話を開けっ広げな文体でした笑。
言いたいこともないので、この辺で締める。では➰👋😃

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