相談をするかしないか
ほうれん草(報告、連絡、相談の3つ)を徹底せよ、というのは多くの組織人の大事な教えのひとつだろう。
この3つのどれかが欠けてしまっても、集団組織もそこに所属する個人もその存続に支障をきたすことが多いという前提に基づいていて、書店でも、ビジネス本のコーナーにいくと必ずこれについて説いてる本が2,3は見つかる。
確かに仕組みに関することのいくつかは、この報告、連絡、相談によって劇的に改善することもある(もちろん、問題がより複雑、重篤になるケースもある)
あなたが組織人であれば、この3つのことを習慣づけることは重要かもしれない(ただし、だれにとってもマイナスにしかならない報告や連絡はなるべくしない能力も要求されるだろう)
代議士や行政関係者であれば、「なんでも相談してください」という姿勢を強調している主体も多いだろう。
でも、これがまったく個人的な問題になると多くの人は自分一人で抱え持ってしまう。
それは庶民の、それも下層にいくほど多い印象を受ける。
上層に属している人だって無論深刻な悩みがあるかもしれないが、見晴らしの良い高層マンションや、高価な背広や靴、お酒といったものが多少それを和らげてくれることもあるだろう(そうでない場合もあるだろう)
しかし、人がすべての悩みや問題を直接まわりの人に話せるなら、おおよそ文学だの芸術だの、あるいは宗教だのはいらないだろう。
もちろんそういうものとてきっと万能ではなく、そういうものがいくら豊富に存在したところで、人は個人的な悩みや問題にしばし人に見えないところで頭を垂れる。
人はしばし、そんなに簡単に相談できない悩みや問題を抱えてしまう。
もちろん思い切って相談したら、あっという間に解決の目途が立つこともあれば、相談しなかったばかりに、自殺や病死に至ることもあるだろう。
そうすると、相談するしないそれ自体に善悪があるというより、多少は結果オーライな側面があるのだろう。
相談することそれ自体の善悪論はさておき、
人はしばしそんなに簡単には相談できない悩みや問題を抱え込む。
そこから悲劇がうまれることもあればパワーがうまれることもある。
そしてそれは人生模様なのだ、そんな気がしてきた。
相談することしないこと、その良し悪しのジャッジは社会がすること。
それとは別に、相談なんかそんなに簡単にできない悩みや問題を抱え込む、そこに人間らしいある人生模様が見えてくる。
(おまけ)製作データ 書き始め5月2日10時28分 文字数1024字
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