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追い詰められた人が行くことになってしまいやすい5つの部屋(場所)

15投稿目になります。

とりあえず30投稿を目標にしていたのでようやく半分というところです。

noteを始めてから2か月半くらい経ちました。

毎日投稿している人も多いのでスローペースですが、まあ、こんなもんでしょう。

さっそくですが本題に入りたいと思います。

私達のまわりにはストレッサーが沢山ある(いや全然ないよ!という方は申し訳ありません、この文章は生涯その人の益にならない可能性が高く、この文章の想定している読者の範囲外だと思われます。全体ビューの数字が下がってしまうのは口惜しいですが、ここで読むのを止めてしまって差し支えないと思われます)
ではストレッサーが沢山あるということに同意していただけた方、もしくは同意はしないけど興味を持っていただけた方につづきをお話しします。
ストレッサーというのはもちろん私達各々がそれをストレスだと感じなければストレッサーにはなりません。
だからストレッサーという不動の確たる客観的存在が厳としてあるというよりは、それをストレスと感じる私たちそれぞれの感じ方の方にも1/3くらいは因がある場合もあるでしょう。
もちろん10人中9人が不愉快に感じることというのも沢山あります。
しかし、ここではストレッサーについて論じたいのではなく、日々の生活の中で数々のストレッサーに打ちのめされた私達は、結局どんなところへ行きつくのかについて考察したいと思います。

私たち生物は元来、多分働き者なんかではない。それは野生動物とかを見ればわかる。ライオンやチーターなどの動物(他の動物も含む)を観察すると、仲間とじゃれあう幼少期を別にすれば、餌を探している、あるいは追い求めているとき以外は寝そべっていることが多い。たまに歩くこともあるが、本気を出せば文明国の私鉄と同じくらいのスピードが出せるのかもしれないライオンやチーターはしかし散歩をしている人間のお爺さんと大して変わらないスピードで歩いている。
魚は少なくとも覚醒時には常に泳いでいるが、これは水中では止まっているのが難しいためだろう。
鳥も空を飛んでいることが多いが、二本足なので寝そべってしまうと起き上がるのが大変で、また二本足でただ立ったままだと足に負担がかかるのだろう(電線の上はそんなに足に負担がかからないようだ)飛んでいる方がラクで快適なのかもしれない。
人間はしかし、特に文明国の人間は個人差は大きいようだがよく働くようだ。だが人間も本来的には動物と一緒で労働なんかはできればやりたくないのがフツーなのかもしれない。
文明国に生を受ければ、誰に働けとせっ突かれなくても、就労可能な年齢域であまりに長く何もやらないで享受一辺倒だと、まわりは労働に勤しんでる人が多いので後ろめたくなってきたり、そこまでいかなくともビミョーに落ち着かなくなってくるだろう。
こういった傾向は文明先進国ほど強いだろう。
ブッシュマン並みのシンプルな文明であれば余計なことはあまりやらず、地球環境に対してもエコな暮らしをしているだろう。
文明先進国の人間は、引退するような年齢でなければ比較的ひっきりなしに何かをやるよう急き立てられているものなのかもしれない。
ひっきりなしに何かをやるのがある程度自分の意に沿っていることならばそれは良循環しているといえるだろう。
しかし意に添わぬことに従事している時間が長すぎて、しかもそのことをプラスに考えるのが難しかったり、やりたいことはそれなりにあるのだが淡白で執着心に乏しくまた行動力や決断力に欠ける場合は、たとえば有閑身分に近い境遇で時間だけは沢山あっても、叶わぬ欲求や願望ばかりが増えて人生のストレス値は上がっていくかもしれない。
そんなこんなで少なくとも一日八時間働くのが当たり前どころか残業も当たり前という文明先進国では、人生の各々の選択を誤ってそれの修正にも無頓着だと、相当なストレス(や疲労)をその日常で抱え持ってしまうことも多いだろう。
そういった基本状態がすでにストレスまみれであることが多い文明先進国の人々の行く手にストレッサーがいくつもその日常で立ち塞がると人々はどんな心理状態へいきつくのだろう。
ここではその典型についていくつか類型化を試みました。
それを5つの部屋(場所)に分けました。
では見てみましょう。


①(ポジティブシンキングの部屋)…ポジティブに立ち返る。

これは比較的分かりやすいでしょう。ある個人がストレッサーに追い立てられたときポジティブな解決策を見いだすことである。
たとえば英語力の高い人が優遇される企業でTOEIC800点以上を目指そうとか、腹立たしい人ばかりの環境下で「アンガーマネジメント」の本を読んで理解し実践してみようとかいった具合であります。
noteの読者にも、こういった解決策をすんなり採用する人が、あるいは、こういう解決策を欲する人が多いかもしれない。



②(直接交渉の部屋)…直接抗議を試みる。政治闘争、対人闘争、交渉、クレーム、文句等。

これも分かりやすいだろう。
ストレッサーに対して自分の権利を主張したり、ストレッサーを規制するべく直接働きかけるのである。


③(自分の気持ち・感情発散の部屋)…怒り・憎悪などを暴力、破壊、犯罪、またはそこまでいかなくとも怒鳴りつける、愚痴る等の形で発散させる。

これは②とも部分的に重なるが②は言葉による交渉と合意を主眼としていたのに対し、こちらは自己の感情の吐露、表明、威圧、屈服、自他の破壊などが目的となっている。泣きわめくなどもこれに入るだろう。また直接的な復讐の類いもここに入るだろう。
これを採用する人はどうしてもまわりから多少なりとも、また大なり小なり迷惑がられるだろう。
ただ愚痴や怒りが他の誰かのそれを代弁するような形になっている場合は、その場合は一部の人からであるにせよ共感、共鳴される可能性もなくはない。


④(悩み、逃避、世捨て、自壊の部屋)…世捨て・自殺願望。どう生きたらいいのか分からなくなる。自分の中だけで空回りする。一人で落ち込む、沈む。相談できる人もいない。

これはストレッサーにやられて自分の人生を放棄したくなったり、生きる意欲が減退して現世的な欲がなくなってしまったり絶望したりすることである。引きこもりや対人現実に心を閉ざすとかもこれにあたる。ニヒリズムに陥ったり、太宰治のように「三度飯を食べなければ死ぬ。そのために働かなければならぬというのは自分には理解できませんでした」といった壊れ方もこれに入る。
これは①のように生産的でポジティブな解決策には希望を見いだせず、また②のように対人折衝・抗議、自己の権利を主張することもできず、また③のような自己爆発もできないという人が自分の中で内出血のように膿んでしまい現世的な場から後退してしまうことだ。

⑤(体や心の疾患の部屋)…病気・入院。

これもストレッサーにやられた人が行き着く場所のひとつである
ただそれは、ほとんどの場合無意識的であることが多いだろう。
労働を含めた日常生活の諸々から一旦にせよ何にせよ身を引きたかったのかもしれない。
うつ病などの神経・精神疾患、またアル中・薬中・不摂生などもまたこの中に入るだろう。
しばしそれは無意識下の選択、または願望の反映だろう。

ではこれらの5つの部屋をもう一度ここで整理してみよう。
ひとつ目が(ポジティブシンキングの部屋)
ふたつ目が(直接交渉の部屋)
みっつ目が(自分の気持ち・感情発散の部屋)
よっつ目が(悩み、逃避、世捨て、自壊の部屋)
いつつ目が(体や心の疾患の部屋)


「ああっ、ストレスばっかだ。なんてこった!」と沢山のストレスに人が追い立てられたとき、ほぼこの5つの部屋のどれか、または複数の部屋に入っていく、あるいは入れられるだろうというのが現在までの私の考えです。追い詰められた人が行くことになる…云々と見出しタイトルに書いたので、もっと銃乱射とか毒物散布とか過激なことを想像された方は、ひょっとしたら肩透かし食ったように感じたかもしれません。しかし、それもこの分類③(自分の気持ち・感情の発散の部屋)の程度が重くなったものと考えることができます。

じゃあ、ストレスに追い立てられたとき、ボクササイズをやろう、あるいは瞑想して気持ちを落ち着かせようと決意した場合はどうでしょう?
ボクササイズはまずひとつ目のポジティブシンキングでもあり、部分的にはみっつ目の気持ち・感情の発散でもあります。また瞑想はやはりひとつ目のポジティブシンキングであり、また現世からこころを引き離すのですからよっつ目の部屋にも該当します。
このように複数混じってることもあります。

ストレスに追い立てられたとき9割以上ひとつ目のポジティブシンキングの部屋に入っていくような人であれば何の問題もないかもしれません。
まあ、でもそれはまだ若くてエネルギーのある将来有望な人が多いかもしれません。
また逆のベクトルで、これは純文学表現などにたまにみられるのですが、ストレスに追い立てられたときポジティブで合理的な解決策を退け、不合理で自虐的ともいえる選択を敢えて採用することもあるでしょう。ドストエフスキーの文学にはしばしそういった人が描かれていますし、太宰治などは生き方がどこか自虐的です。
ひとのこころというのは下様に難しいものですが、ごく一般的なケースでストレスに追い立てられている個人が自分はどんなところへ入れられようとしてるのだろうかと自問するのはマイナスではないでしょう。
もしこれを読んでるあなたが本当はどこか目指すべき場所があったなら、次々に行く手に立ちふさがるストレスにすっかり自分が本来どこへ行こうとして、またいまどこにいるんだか見失ってしまったなら自分のいる場所を再認識するのもあなたの一助になるでしょう。
再認識したところで自分が本来目指していた場所へこれからたどり着けるかどうかは分からなくなってしまっているかもしれません。
ただストレッサーにメロメロになってしまい何が何だか分からなくなっている人がもしいれば今日の立ち位置をちゃんと把握することは無駄ではないでしょう。
そこでストレッサーに追い立てられた個人がよくそこへ入れられると思われる私が考えた5つの部屋というのをご紹介してみました。
これは私ごときが考えたものにすぎませんからこの5分類がすべてだなんていうつもりはありません。
ただなんか気の滅入るストレスばかりの毎日にすっかり何が何だか分からなくなっているひとがいれば、自分の立ち位置を再認識するのも大切かもしれません。もちろん四六時中自分の立ち位置を正確にしっかり把握している人などはまずいないでしょう。ただ世の中も短期間のうちにあまりに目まぐるしく変化するため、あんまり漫然と日々を送っていると自分で自分が分からなくなってしまうことも多いでしょう。そういった個人が知らず知らずのうちに様々なストレスに追いたてられたとき、自分はどの部屋に入ってるのだろうか、あるいは自分がいる場所はどういったところなのかを考えてみることは意味のないことではないかもしれません。
また、こういったポジティブシンキング的な考えで無理に前を向こうとするより、休息をとってのんびりしてみたり、ウエストがちょっと太くなることを覚悟でチョコレートパフェでも食べてみたり、旅行や気晴らしをしてみるのも有効かもしれません。それはケースにもよるでしょう。

今回のはなしは前回の投稿「憎悪とは何か。そのメカニズムについての考察」とも多少リンクしています。前回の投稿を書いているときに今回の投稿の構想が漠然とですがありました。興味がありましたら前回の投稿も参照してみてください。
次回の投稿が今回の、また前回との続きになるかは今現在未定ですが、次回にやらなかったとしてもいずれもっとこの辺りを掘り下げてみたいと考えています。

もしストレスにやられ放しというんであれば、この分類を参考にしてみて下さい。いずれにせよ自分の立ち位置をたまにでも振り返ってみることは大切なことでしょう。また可能であればペースをゆるめて自分に少し甘くすることで逆に現世に対して再び意欲が湧いてくることもあるかもしれません。

長い文章を最後まで読んでいただきありがとうございました。

では、また。

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