noteが続く条件
さて、僕はnoteをやってそろそろ5年になりますが
そのあいだ危機的状況になったことは多々あります。
辞めたほうがいいんじゃないか
向いてないんじゃないか
合ってないんじゃないか
って思い悩んだことは多々あります。
そんなわたしではありますけど、noteが続く条件について考えてみました。
で、いきなり本題に入ります。
①そこそこ健康である。
心身に相当な問題を抱えていますと、そもそもエディタに向かえませんよね。
②物理的、心理的余裕がある。
これも、まぁ当然っていえば当然ですよね。
ここからが本題です。
③「誰に」か、または「何を」がハッキリしている。
「誰に」か「何を」かのいずれかがハッキリしていれば、PV数・フォロワー数の如何に関わらず、投稿は続くと思います。
逆にいえば、「誰に」と「何を」のいずれもを見失ってしまえば、投稿は困難になるでしょう。
そんなん当たりめぇだろ?
まぁ、そうかもしれません。
これ、noteに限らず、一般的な場所にも敷衍できて
たとえば、職場で、多少つまんない仕事でも、好きな人(異性の)がいるとかであれば、「誰に」は明確なんで、その職場は、他の問題が生じなければ、とりあえずは続くでしょう。
というか、はりきっていくかもしれません。
これは、「誰に」が明確だと「何を」は多少譲れるケースです。
ひとつも「いいね」や「スキ」がつかないのに延々投稿を続けてる人をたまにみかけます(僕も、多少はこのクチですが)
そういう人は、「誰に」はないけど「何を」は明確だというケースでしょう。
自分の中で、表現したいものが明確なため、リアクションにとぼしくても、投稿が続くのです。
このタイプは、多分、タフな人が多いでしょう。
はなしは、noteとかわりますが
大学とかで、「誰を」を見失い(友だち・恩師・仲間の不在)「何を」も見失う(学問の意味がわからなくなる)と、大学生活も危機に陥るかもしれません。
といった感じで、いろいろ言いましたが、「誰に」「何を」のいずれかがあれば、続くのでは?というのがわたしの見方です。
───(余談)───
今日は、環境(会社や地域社会等)の拘束力が低下しているので、「誰を」と「何を」を見失いやすいと思います。
若いときに「誰を」を見失うのであるあるなケースの代表格は失恋でしょう。
若いときは、男も女も、意中の人にははなしかけられず、眼中にない人ばかりこちらにくる(それすらないケースも多いでしょうが)ので、失恋から、何かを見失うことはあります。
また、若いときは「何を」がハッキリしてないでしょう(これは若い人に限りません、子供を除く全世代にあるあるでしょう)
これは個人的アドバイスですが
「何を」を見失ってるときは、ネットの中には見つかりにくいかもしれません。
「何を」を見失ってるときは、ネットよりは図書館とか、近所をカメラを持って散策するとかのほうがまだ、何かが見つかるかもしれません。
さて、あんまりいろいろ考えすぎると、また重くなっちゃうんで、この辺でまとめです。
♢noteが続く条件
「誰に」か、または「何を」をかのいずれかがある
どっちもなければ?
う~ん、
こちらから動きましょう!
noteみたいな空間(リアルの空間とかも含む)で「誰に」を見失わないためには、こちらから「スキ」を押す、コメントをしてみる、フォローをしてみる、つぶやいてみる、他者の記事を読んでみる等でしょう。
かく言う、僕も、昔に比べると、そのいずれもやらなくなっていますがw
対人空間がしんどければ
さっきも言ったけど
図書館に行ってみる(タダで本が読める)
カメラを持ってでかける
喫茶店に入ってみる。
休んでやる気になるのを待つ
喫茶店に入って、たとえば、対人恐怖にかられただけだったとしても、そうしたら、対人恐怖症の本を読んだり、HSPやパニック障害について調べたりとか、そこから広がっていくと思うんだよね(俺だけか?)
「誰に」「何を」……この、どっちかがあれば、PVやフォロワー数が少なくても続くんじゃない?
両方見失ったら、こちらから何かをしてみる!
って、とこで今日はおしまいです。
もし、ちょっとでも、「ふ~ん」とか「そうかも」と思えましたなら、是非スキ💛をしていただけると励みになります。
ここまで御一読ありがとうです!
※ヘッダーの写真は4年前江の島へ行った時のもので、腰越から鎌倉高校前駅(江ノ電)へ行くあたりの道です。
(当時これで「夏だから江の島」という記事をnoteに書きました)
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