PUNISHMENT「罰」としての言霊(日本人の言霊考)
「言霊ってあるよね?」……
日本人から、そこそこ聞くセリフの類いだ。
「日本は言霊さき這う国である」と、誰が言ったのか知らないけど、そんなことも聞いたことがある。
日本人(の何割か)は言霊を信仰していると言ってもよさそうだ。
言霊はあるのか?
個人的には、そうだとも言えるし、そうだとも言えないような気がする。
もし、すべてが自分の言った通りになるのなら、人生こんなラクなことはない。
政治にマニュフェストというのが一時期流行ったが
これは、宣言することによって(排水の陣)を敷こうとすることだろう。
しかし、繰り返すが、口から何かを放っただけでその通りになるなら、人生こんなラクなことはない。
一時期流行った政治家のマニュフェストも、おそらくは半分くらいは有言不実行に終わってるのではないかと思われる。
いわゆる、女子のダイエット宣言も半分くらいは失敗に終わってると思われる。
僕は、あんまり(排水の陣)は敷かないようにしている。
「年内に○○をやります!(成し遂げます)」とか「近日中に○○します」と公言してしまうと、これは経験論でしかないのだが、むしろ達成が困難になり、半分くらいは有言不実行に終わってしまう。
いや、半分どころじゃないかもしれない。
宣言したほうが叶いやすい人もいるのかもしれないが、僕の場合は、むしろ宣言すると達成のハードルが上がってしまうのだ。
「20キロ体重を落とします!」
こう宣言して、あとはどんな惰眠を貪ろうが、勝手に身体のほうが動いてくれるとかだったらこんなラクなことはないが、そんなことは滅多にない。
つまり、自分の思いや願いを叶えるのに言葉でそれを言うのは、どちらかといえば賢くないのかもしれない。
自分の思いや願いなどは、七夕の日とか、表現する機会は昔は限られていた。
もちろん、他者の協力や協賛が是非とも必要で、これを広く募りたい場合は別である。
そういう場合は、黙っていては協力者が現れないので、言葉で表現するしかない。
では、自分の思いや願いを叶えるのにそんなに有力な味方では(ことば)がないのだとしたら
いったい、日本人の(一部にせよ)言霊信仰とは何なのか?
それは、PUNISHMENT(罰)という意味での言霊ではないか?
「噓から出た実(まこと)」とか
「瓢箪から駒」とかいった言葉がある。
これは全部、冗談のつもりで言ったことが現実化するみたいなニュアンスである。
しかも、それも、美人女優と結婚することになったとか、まさかの展開で大金持ちになってしまったみたいな嬉しいはなしであることは少ない。
つまり、それは、むしろネガティブな経験として体験されてるようなのだ。
そこから見えてくることもある。
日本人は、個人差はあると思うが、おそらくだが軽口をたたきやすいパーソナリティーの人が多いのだ。
軽口をたたいてひどい目に遭ったことから「言霊信仰」や「噓から出た実」とか「瓢箪から駒」といったものが生まれたのではないか?
つまり、日本人の言う「言霊」は、僕の考えだが、軽口の失敗という痛い個人経験から生まれた世間知ではないかということで、軽口に対するPUNISHMENT「罰」の経験を土台にしているのではないかと考えている。
「言葉」は自分の願望を叶えるツールではなく、ただ軽口に対するシッペが伝承されてきた。
軽口をたたくことの是非は何とも言えない。
たとえば、日本は社会が息苦しくなったとき、フランスみたいにバスチーユの襲獄みたいなやり方で庶民が社会に風穴を開けた経験がほとんどなく
おまけに、やはり島国だったから、自分の国(日本)に息苦しさを感じても、外国へ行くには船に乗らなければならず、陸続きの大陸に住んでる人とは事情が違うという歴史的事情があった。
すれば、庶民には、軽口をたたくくらいしか憂さを晴らす手段がない場合もある。
また、キリストや孔子、釈迦やソクラテスクラスの人が真実の言葉を放つのは社会的に意味があるだろうが
すべての人が一切の軽口をたたかず、真実の言葉しか放たない社会空間を想像されたい。
どうであろうか?
しかし、実際は、2010年あたりから本格化したSNS社会のおかげもあって、庶民にすぎない層も、非常に軽口をたたきにくい状況が強化されている。
SNSという表現メディアが庶民に与えられるという革新が進んだこの10年くらいだったと思うが、初期のTwitterなどを除けば、結局そこは軽口をたたきにくい空間だった(になっていく)
直接、顔を合わせることもなく、文字だけを頼りにしなければならないので、誤解や摩擦もその分起こりやすい。
誤解や摩擦は表現されたものだけではなく、表現されなかったものからも生ずる。
たとえば、LINEの返信がまる二日なく、中々既読にすらならない事情については、憶測しか手がなく、別にどっちでもいい人を除けば心配だけが募る。
いや、はなしがそれました。
今回の文はSNS社会論ではありませんでした。
日本人のよくいう「言霊」とはつまるところ、軽口に対する戒めの意を含んだ、ややPUNISHMENT「罰」の意味ではないかというのが今回の文の主旨です。
作家の太宰治は「神の救いではなく罰だけを信じていた」というような言葉を『人間失格』かなんかで語っていたと思いますが(正確な出典は思い出せないのですが)
この手の言葉は、それは日本の社会風土についても何かを物語っているのかもしれません。
だって、成就のためのツールとして機能することは滅多になく、ただPUNISHMENTだけがあるのがもし「言葉」の特徴でしたら、太宰のこのような嘆息もまったく分からないものでもないですよね。
「成就」がなく「罰」だけが積みあがっていくのはおそろしいことですよね。
「好きです、あなたのこと」
人の気持ち移ろいやすく
言葉って儚いですよね。
別に人の言うことなんて信じられないとか主張したいわけではないのですが
いろいろ考えると、僕には日本人のいう「言霊」というヤツは、ただPUNISHMENTとしての意味しかもってなかったんじゃないかと思うことすらあるくらいです。
PUNISHMENTに直面する痛い展開に見舞われたときに人は「言霊」という言葉を発明したのだ、そんな気さへするくらいです。
道化師とオオカミ少年は矯正されなければならなかった。
そんな、人間社会の事情すら見えてくる気もします。
以上、わたしの「言霊観」でした(今日現在のですが)
御一読ありがとうございました。
サポートされたお金は主に書籍代等に使う予定です。 記事に対するお気持ちの表明等も歓迎しています。