うまくいってない人同士の連帯が難しい社会(その2)

こんにちは、木月まことです。

この記事は前回の続きになってます。(リンクはこちら

さて、今日ほど困ってる人と別の困ってる人が連帯しにくい社会もないかもしれません。

では、前回のお約束どおり、そういう雰囲気のようなものがつくられた社会的な経緯についてみてみたいと思います。

これは全くの私見になりますが、困ってる人と困ってる人の連帯が滅多に見られなくなったのは、色々かんがえられるんですが、ひとつには会社などの組織にある(あった)労働組合の骨抜き化の完成です。

えっ? 労組?会社のはなし?

わたしらフリーランスだから全く関係ないわ、さようなら、という人もいるかもしれませんが、この労組の変化というのも、今日の大人たちの人生態度にかなりの変化を及ぼしてると思うので、もしよかったら、わたしの御託にもうちょと付き合ってくださったらさいわいです。

今日、組織にある組合はほとんど全部会社寄りのものです。

聞いたことがある人もいるかもしれませんが、昔の組合はそうではありませんでした。もっと会社組織に対して自発的に意見や要求を述べるものだったのです。会社にたいして下層労働者の抵抗のような立ち位置だったのです。
テレビにストライキをする労働者の姿が、私が子供のころは当たり前に映っていたのです。

こういった抵抗勢力としての労組は、知ってる人も多いかもしれませんが、主に警察行政の介入によって骨抜きされていきました。

えっ、政治のはなし?

左翼?右翼?

いや、最後まで読めば、特にどっちというわけでもないという結論になるでしよう。しかし多少は政治に関することだって市民のあり方には影響するでしょう。

つづけます。

もちろん、警察は政府の指示を実行していただけなのでしょうが。

僕より年長者のはなしでは、この警察行政の介入がすごく嫌だったと聞いたことがあります。何の面識もない警察職員が突然電話をかけてきて、組合活動の細かいことを聞き出そうとしたり、これは僕くらいの世代の人間でも(僕は40代後半です)「え~っ、ほんとにそんなことあったんですか」とびっくりするようなはなしも沢山耳にしています。

そんなこんなで、抵抗勢力としての組合は事実上なくなりました。
いま会社にある組合はほとんど全部会社寄りのものです。

この抵抗勢力としての組合がなくなったことは賛否両論かもしれません。

平和的で素晴らしいじゃんって言う人もいるでしょう。

組合というものに辟易していた人も沢山いたでしょう。

「連中は、銀シャリを食わせろ!だなんだ、自分の権利ばかり主張して、協調性がなく、会社をどうしたらよくするかなんて全然考えてない」というようなはなしで、組合が嫌で会社を離れた人というのもいたようです。

僕が通っていた高校も組合がふたつに分裂していて、組合がことなる教師同士は多少ぎくしゃくしていたようです。

今は会社寄りの労組が当たり前になってしまったために、労働者の側の意見を主張する機会はなく、それが当たり前になってかなり経つので、若い労働者はむしろそれが当たり前なのです。

こういった抵抗勢力としての組合が事実上滅んだ現在、組合をネガティブなものとして捉えていた人には都合のいい状況ができましたが、マイナスもあります。組織の従業員同士は不平や不満、悩みを軸に隣人と連帯することがなくなってしまったのです。

会社で、給料が少なくってやっていけないよ、とぼやくと「あなたの自己研鑽が足りないからでしょう?顧客や上司、会社のためを常に意識して行動する。TOEICを850点以上とれるよう勉強するとかいろいろあるでしょう」といった自己責任論になってしまいます。

もちろん自己責任論は正しいでしょうし、わたしもそれを否定しようというわけじゃありません。ただ、そういった自己責任論は今日、スーパーマンのようなできる個人でないと、平均レベルの個人や平均以下のレベルの個人には実際的でないこともあると思います。

自己責任論は、会社の従業員としては、だったら副業で稼ごうみたいなはなしがはやり、副業指導系のオンラインサロンは儲かっています。
また、従業員の悩みは隣人がその面倒をみるより、コールセンターや、政府の残業・セクハラ・パワハラ規制律法を当てにするしかない状況です。
つまり職場で給与が不足すれば、自己啓発的な努力か副業(うまくいけば、それらはむしろ好ましいことかもしれませんが)などを、そして、他の問題、過剰残業・パワハラ等は、お上の介入を当てにするしかなくなってしまったのです。
べつに副業がけしからんとか、オンラインサロンは詐欺だとかいってるわけではなく、ただ、ここで起こっているのは、困っている人と別の困っている人は結びつくのが難しくなっているというはなしです。

やや、現状批評っぽい論調になってしまったので、聞き苦しく思われた方もいるかもしれませんが、今日のはなしは、困ってる人と別の困ってる人との結びつきが難しくなった要因のひとつは、会社組織とかで労組みたいな、それも今日あるはじめから会社寄りのものではなく、抵抗組織としての労組がなくなったこともそのひとつではないかというはなしです。
何年か前に電通の女の子が自殺してしまいましたが、こういったことも、困っってる人と別の困ってる人とが結びつけない今日的会社(または社会)事情とも関係しているかもしれません。困っている人は突然すがたを消すしかない場合もあります。

そんな会社の労組のはなしなんて、フリーランスの私らにはまったく関係ないし、ピンとこないし肩透かし食らったという人もいるでしょう。

ただ、労組的なスト(ストライキ)みたいな団結が根絶やし状態になってしまった状況は、組織勤めの人だけではなく、それ以外の人々の市民生活のあり方にも多少は影響してるんじゃないでしょうか。
もちろん政治的なデモは昔よりむしろ盛んになっており、困っている人同士の連帯はそういう意味ではなくなってはいないのですが、政治デモは、仕事からは解放された高齢者と、まだ仕事を持ってない学生の割合が高く、仕事を持ってる働き盛りの参加は少なめでしょう。そうすると、社会で本来一番パワーを持ってる年代の人たちが、困っていることで隣人とはつながらず、まったく孤独に闘っているさまが浮かび上がります。先ほどの電通女子の自殺もそういった風土で起こったことでしょう。
テレビで働き盛りの人々のスト的な団結を見ることはなくなりました。
そうすると困っている人は隣人と結びつくことなく会社からあるいは甚だしくはその人生からひとりひっそり退いてしまうのです。
わたしはフリーランスだからそういうことは関係ないという人もいるでしょう。しかし昔とすっかり変わってしまった社会風土はフリーランスの人のあり方にも影響を及ぼすのではないでしょうか。

これはもう10年以上前のはなしだったと思いますが、入社3年経たずに辞める若者たちという風潮が取りざたされました。石の上にも三年というのに最近の若者はいくら何でも軟弱すぎるというようなはなしだったと思います。経済社会も円熟期を迎え保守に走る会社が増え、やり甲斐や魅力が感じられないみたいなこともあるかもしれませんが、ただ、会社の中に昔風の労組みたいな抵抗勢力がなくなってしまったおかげで、より上に立つ人は絶対であるみたいなムードが生じて、トップダウンが増え、下からの抵抗という風潮が会社の中から消えてしまったのかもしれません。下のほうで気を吐く人たちがいなくなってしまい、新しく入ってきた人たちには上の人の言うことは絶対と考えるか、辞めるかの2択になってしまったのかもしれません。

昔風の労組や労働争議が復活すればいいんだとは簡単に言えないでしょうが、会社から昔風の会社寄りではない労組が姿を消したのも、下の方で気を吐く抵抗勢力がなくなったことも今日的な様々な会社を巡る問題、若い社員たちの孤立、三年もたずに消えていく人や電通女子の自殺などと無関係ともいいにくいのではないでしょうか。

会社の労組のはなしなんかを唐突にしてしまったので、前回の記事を読んでの上で今回の記事を読んでる人は拍子抜けしてしまったかもしれません。
しかし、困っている人と困っている人とか結びつきにくい風潮にこういった流れも無関係ではないと思うのです。
若い人が会社に入る際の不安のひとつに、困ったことが生じたら誰を当てにすればいいんだろうみたいのがあるかもしれません。昔はいい意味でも悪い意味でも上層部に楯突く労組がありました。出世度外視で下の方で気を吐く人たちがいました。今、声を荒らげて主張する野蛮人(?)はいなくなりましたが、上の言うことは絶対っぽくなりました。何か問題を抱えたら自分が悪いんだと考えるしかありません。
隣人と結びつく術がありません。

これまでのはなしはまったく僕個人の仮説に過ぎませんが、しかし様々な角度から今日的問題について意見が交わされるべきかもしれません。


さてはなしはまだ続くのですが、長くなりそうなので、今回はここできって次回に譲りたいと思います。
次回は労組みたいなこととはまったく別のはなしですが、今回同様、困っている人と別の困っている人が結びつきにくくなった要因を今日までの社会の流れから検討します。

嫌でなかったら、また多少でも興味がありましたら次投稿もお付き合い下さい。(次投稿リンク⇒その③

御一読ありがとうございました。

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