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うまくいってない人同士の連帯が難しい社会(その3)

こんにちは、木月まことです。

前回、前々回と、困っている人と別の困ってる人が結びつくのが難しくなっている今日的社会事情について考えています。

前回の記事では、会社などにある労働組合が、昔あったような抵抗勢力としてのそれから、会社寄りのものに変わってしまった結果も、困っている人と別の困っている人とが結びつくのを難しくしているのではないかという論旨でした。困ってる人と別の困ってる人が結びつきにくくなってる社会背景について考えてみました(これでは何のことか分からない方は前回の記事を読んでみて下さい。リンクはこちら⇒ その①その② 

今回は前回のつづきです。

困ってる人と別の困ってる人が結びつきにくくなったのには、前回述べた、抵抗勢力としての労組が滅び去ったこと以外に、これは、全くの私見ですが、バブル経済の崩壊とその後の不況で中流社会が崩れ、2000年を超えたあたりからでしょうか、格差みたいのが顕著になりはじめ、その一端として、流行語に「勝ち組・負け組」というのがあったのを記憶している人は、今日30歳を超える人だと多いかもしれません。
この「勝ち組・負け組」という言葉の流行は、どちらかというと不快を示した人の方が多かった印象があります。
これは一般論になってしまいますが、日本人はやっぱり全体的には格差が露骨に露呈するのを嫌う、やや同質指向とでもいうべき性質なのかもしれません。それは、江戸時代まで、約150年前まで、人口の8割が農民だったということとも関係してると思いますが、いずれにせよ、2000年以降、格差みたいなものが、確かにでてきたのかもしれません。

別に、「勝ち組・負け組」みたいな、多くの人が不快を示した流行語を考えた人をつるし上げようというわけではありません。

ただ、こういった流行語も人々の意識に大きな影響を与えたのかもしれません。

わかりやすく言えば、困ってる人と別の困ってる人の連帯は、こういう意識下のもとでは「負け連帯」とでもいうものになってしまいかねません。
わたしたちの意識には、まだ「オール中流」だったころの意識が棲みついていて、「勝ち組」ではなかったとしても「負け組」ではないと思いたい、SNSとかで自分は負け組だと自嘲することはあっても本気で認めたわけじゃない、せめて「中流」でありたいみたいな気持ちがどこかにあるのかもしれません。
そうすると「負け」が際立ってしまうような連帯は避けたいのです。
どうしても「勝ってる人」と手づるをつけたいし、そこまでいかなくとも勝ってる人を手本にしたいんです。
そうすると、人と人との関係は、横の同列より、上下のタテの関係に収斂されやすいかもしれません。
師匠と生徒、有力者と庶民のような関係です。
尊敬の念を介した上下に収まればしかしまだ救いがあります。
「勝ち」と「負け」みたいな構図がより際立つと、「負け組」にとって「勝ち組」はストレンジャー(異邦人)でしかなくなります。
そうすると、困ってる人にとって「勝ち組」はストレンジャーなのでこれを避けるしかなく、しかも困ってる人同士でも結びつくのが難しいという二重のジレンマが起こり得るんです。

そんなに人は「勝ち」だとか「負け」だとかを気にしているわけじゃない、という人もいるでしょうし、そうかもしれません。
しかし、たとえば、noteやTwitterなどのSNS的空間で、どのみち9割の人が収入なんかに結びつかない空間でさえ、フォロワー数やいいね数みたいなもので、日々勝ち負けみたいな感情に動揺してないでしょうか。

本来的には、「勝ち組・負け組」という流行語がはやった時点で社会は軌道修正がかけられるべきだったのかもしれません。

しかし、実際には無策に近いままで、その構図はかえって強化・固定化されたのかもしれません。

それはともかく、困ってる人は負けが際立つような連帯を避けたがり、しかも勝ってる人とも結びつけないというジレンマがあるのかもしれません。

一方、勝ってる人はどうでしょう。

これは、WIN-WINという言葉に象徴されるとおり、勝ってる人同士の結びつきはむしろ花盛りという印象です(何をもって「勝ち」でWINなのかもよく分からないときもありますし、商業的な効果をねらった一時的なコラボである場合もおおいのでしょうが)

僕はべつに、WIN-WINの結びつきにこれを自粛しろと迫りたいわけではないのですが、ただ、最近ではこのWIN-WINもカルテルとかトラストみたいのと同義と受け取られることが多いようで、やや印象が悪いようです。
しかし、僕は、人と人の結びつきは極端に悲惨な目的のために結びついているのじゃなければ、それ自体を否定をはしたくないため、WIN-WINの花盛りも、そもそも人と人が結びつかないよりマシと考えています。

今回は、「勝ち組・負け組」という流行語が、困ってる人と別の困ってる人との結びつきを鈍化・消極化させるのに一役買ったのではないかというはなしでした。
純粋に損得勘定に近い観点から、「勝ち組」の人と手づるをつけたい、「負け組」の人はなるべく遠ざけるか切り離したいという気持ちが生じることも人間であればゼロではないかもしれません。

3回に続けて書いてきましたが、この文の主旨は、困っている人と別の困っている人同士が関係を持ちにくい社会傾向についの私論的試みです。
1回目が、困っている人と別の困ってる人はテロとか自殺とか極端な共通目標がないと結びつきにくくなっているんじゃないかというはなし。
2回目は、そういう社会的雰囲気を醸成してしまった要因について、会社の労組(会社寄りでない抵抗組織としての労組)が骨抜きされてしまったことと関係しているんじゃないかというはなし。
今回が、一億総中流みたいな社会が崩れ、「勝ち組・負け組」という流行語も、困ってる人同士の結びつきを難しくしてしまったのではないかというはなしでした。
これらはいずれも私見であります。
私論でしかありませんので、間違っていることを言っている、あるいはとんでもないことを言っている可能性もありますが、自分なりに考えてみました。

このテーマ(うまくいってない人同士の連帯が難しい社会)については、まだまだ考えられそうな気がするのですが、今回は一旦ここで区切ってこれ以上の考察は別の機会に譲りたいと思います。

御一読ありがとうございました。



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