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憎悪とは何か?②(ある挫折した理想の象徴としての憎悪)

こんにちは、木月まことです。

これを読んでるみなさまは「憎悪」と呼んでもいいような感情に悩まされたことはないでしょうか。

豚や虎が憎悪に苛まれているというようなはなしはあまり聞きませんよね。

そうすると「憎悪」とは人間独特の感情なのかもしれません。

今日はそのあたりについて少し考えてみたいと思います。

実は、2018年7月28日の投稿(「憎悪とは何か?(そのメカニズムに対する考察)」)で「憎悪」というテーマについては一度記事を書いているのですが、最近、「憎悪」といってもいいような感情にまた悩まされ、再び「憎悪」についてあれこれ考えざるを得なくなり、前回の結論からさらにまた考えたのでそれを書きたいと思います。

前回の記事では「憎悪」を、ある個人のジレンマが急騰したことと関係していると書きました。
それだけでは物足りなくなってしまったので、さらに考えを進めました。

では、「憎悪」という厄介な感情について見ていきましょう。

そこでいきなり結論っぽくなりますが、「憎悪」とは、ある個人の挫折感情の象徴、または投影ともいえると思います。

それは個人の何らかの挫折と関係していると…

しかし、単なる挫折では「怒り」やウツ的な「落ち込み」という反応もありえます。

もし、ある挫折に「怒り」で発散するという解決策がとられれば「憎悪」というような内向をすることは少ないでしょう。
とくに「怒り」をぶつけた対象が、それで委縮してたり、しょげたり、あるいは反省したりしていれば「怒り」はそれきり治まるかもしれません。

そうすると「憎悪」の対象は、まず直接「怒り」をぶつけるのは何らかの理由で難しい対象が選ばれるのかもしれません。
「憎悪」は内向した「怒り」の蓄積かもしれません。
また「怒り」を直接ぶつけることが適わないということは、その人の「怒り」に対する直接の責任は、もしかするとないか、またはほとんどないということも考えられます(ある場合ももちろんあるでしょう)

では、どうしてわたしたちは「憎悪」というようなはしたない感情を誰かに(複数の場合もありえますし、特定の国家(自国の場合もあります)や世間や社会、あるいは甚だしくは人類全体の場合も絶対ないとはいえません)向けてしまうのでしょう。

ひとつには、わたしたちは、その人生で、日々大小様々な挫折をするからでしょう。
その挫折は、わたしたちが欲を(食欲、性欲など基本的なものから、社会的欲求など高次なものまで)または理想を持っているからでしょう。
つまり「憎悪」とは、ある人の叶わぬ理想や挫折した欲の象徴的な外的投影と考えることもできるでしょう。

では「憎悪」を向けられやすい対象というのはあるのでしょうか?

わたしたちは、自分の理想を叶えてくれる、または自分の理想を完璧に体現してるように見える対象にはあまり憎悪を向けないでしょう。

たとえば、すごく素敵なだんな様とか、ピカソやゴッホであるとか、あるいは星野源であるとか、自分の期待をほとんど裏切ったことがないような人には崇拝の感情を向け、憎悪の感情を向けることはそれが決定的に裏切られない限りあまりないでしょう(崇拝の感情は、ピカソだとか夏目漱石だとか既に故人でなおかつ評価がある程度定まっている人へ向けられたもののほうが安定感があるでしょう)

では、どういう対象が選ばれやすいのでしょう。

わたしの考えでは、まず自分からみて欠けているものがあり(しかも決定的に欠けているものがあり)なおかつ目障りだったり恒常的に障害になっていて、それがデフォルトだとはあまり考えられない対象です。

目障りだったり障害になっていても、通りすがりに等しかったり、通常目立たない対象であればそうなりにくいでしょう。
つまり、ある程度以上の頻度で(あるいは恒常的に)自分の目の前に現れる、あるいは考えてしまう対象だと思います。
それは、与党の閣僚の場合もあれば、芸能人や著名人だったり、会社のボスだったり、SNSの人気者だったり、権力者だったり、あるいは相模原で障がい者の施設が襲われましたが、その場合は障がい者だったのでしょう。
恒常的に目の前に現れ、不愉快、目障りでかつそれが「そういうもんなんだ」と、つまりデフォルトとしては自分が受け入れられない対象が選ばれるのだと思います。

その対象は、声を上げたりして、直接的に対峙しなければいけない対象であることももちろんあるかもしれません。

しかしまた、ある個人のまったく個人的な挫折感情の外的投影である場合も多いでしょう。

わたしたちは、もちろん日々沢山挫折してるでしょう。
バスが5分遅れたおかげでいつもの特急電車に間に合わなかったとかいった些細なものから、夢が叶わないとか、収入が満足いく額に達しないとか、彼女・彼氏ができない、結婚できない(最近はこういうのは、特にクリエイターみたいな人種の間では気にならない人も多いようです)職場でしょっ中怒られるとか、SNS投稿に思ったほどのリアクションがないとかです。

しかし、「憎悪」がもしかすると、ある個人の挫折感情のサインであるなら、その人の欲や夢、理想を追求している日々の生活になんらかのムリが生じているのかもしれません。

江戸時代までのような、農民の子に生まれれば自動的にその村落の農民というような封建社会は終わってしまったので、わたしたちは、自分の状況や内面に見合った形にその欲や理想を調節して自分の人生を形作らないといけない場合が多いでしょう。
もちろん初志貫徹という方向もありえますが、それは、行動や才能、体力がともなっていたり、目標がひとつかせいぜいふたつに絞られてる必要があるでしょう。
自分にピッタリのものがうまく見つからなかったりすれば、あるいは欲望が多岐に渡っていれば、あれこれ手を出して虻蜂取らずのストレスに苛まれていることもあるでしょうし、プロ野球選手の夢とかは、年齢的にムリという状況が訪れることもあったりするでしょう。
そうすると、余程うまくいってる人以外は、こまめに適宜調整したり、自分のレベルや肉体状況にあったものに変更される必要もでてくるでしょう。
たとえば僕も、昔は、「プロミュージシャンを目指す」という方針が正しかったんです(ある時期までは)、でも今は、情けないはなしかもしれませんが、気晴らしや趣味で楽器を触ることはあっても「プロミュージシャンは目指さない」がむしろ正解になっているんです。
noteも2018年からやってて、他のnoterさんたちとの直接交流に夢が膨らんだ時期もあったんですが、自分はまず、コメントのやりとりが余程相性のいい人を除くと基本苦手で、ネットから誰かと仲良くなるのは難しいタイプだと気付きました(5段階評価で1だと思ってます)やっぱり、生活の必然や仕事の必然から否応なしに日常的にかかわる人の外に、お付き合いとかでやたらに直接交流的な人脈を広げていくのは少なくとも今の自分の状況には適ってないと思いました。
そこで、ネット経由の直接交流的な人脈拡大や社交やお付き合いは、どうしてもというのを除いてこれをセーブするかあきらめて(いつかご縁があればということにして)いまは、投稿自体、記事の作成自体に集中しようと考えなおしました。
はじめの目標をどこまでも貫くのも重要なことかもしれませんが、いくつかのことは、状況に応じて見直し調整がなされるべきかもしれません。
こういったことは、農民の子は自動的に農民という社会は基本終わってしまったのだから、事故や病気で四肢が不自由とか、刑務所からもうまず出てこれないような特殊な境遇にある人を除けば適宜なされるべきかもしれません。
とくに、頻繁に「憎悪」としかいいようのない感情に苛まれているんであれば、それは、何かがないがしろにされてる挫折のサインかもしれないから、そうすると、その人のデフォルトが再調整の要ありということだと思います。再調整も暫定解にすぎないのかもしれませんし、翌日になれば間違いだったと結論されることもあるでしょう。
もし、「憎悪」みたいなサインが頻繁にあるのに、まったく再調整がなされなければ、テロに近い破壊的な目標をデフォルトにしてしまう可能性もゼロとはいえないでしょう。
誰かの人生方針の暫定的な正解なんてのは僕には分かりませんから、そういった個人的相談にのる能力は多分僕にはありませんが、「憎悪」というサインがでているんであれば、その人の挫折の象徴的な外的投影にすぎない可能性もあるから、いまいちど、自分の日常や人生の方針や目標の是非や優先順位などが見直される必要ありということなのかもしれません。
もちろん初志貫徹で、目標をやたらに変えたりしないことが重要な場合もあり、また、その人個人の個人的調整には限界があり、今日の経済社会や格差社会がおかしいのだから、改められるべきはむしろ環境のほうだという見方もあります。
しかし「憎悪」というサインが頻繁にでているんであれば、なにか見直しが必要な場合もあるでしょう。
それは、その人の理想や欲求の挫折(寸前)のサインを表している場合もあり、その外的投影にすぎない場合もあるからです。

(あとがき)前回の「憎悪とは何か?」(2018年7月28日投稿)をさらに発展させました。
極端に単純化すると、前回は、憎悪とはある個人のジレンマが急騰したことを示しているという結論に、今回は、憎悪とは、ある理想なり欲の追求の挫折のサイン、または挫折の外的投影の場合もあるというのがその結論です。
前半は心理学っぽい内容、後半は、ではどうすればという自己啓発っぽい内容になりました。
最近の自分は「憎悪」に苛まれてるというのはちと大袈裟で、それなりに色々力を入れてる(つもりでしかないかもしれませんが)わりには思ったような結果が出ないことに、ちょっと疲れがたまってしまっただけなのかもしれません。とは言え、それを敢えて「憎悪」とエンファサイズして、その心理メカニズムについて思いを巡らせました。
仕事が休みだと、ついこんなことをやってしまいます。
稚拙ではあっても自分なりに色々考えていこうと思っています。

御一読ありがとうございました。

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