風(水瓶座)の時代が来ると言われているけれど…
こんにちは、木月まことです。
わたくしは運勢学(占い、主に東洋系ですが、少し西洋のも)に興味があります。
タイトルを見て「ああっ、あれね」という人もいれば、「何のこっちゃ?」という人に別れると思います。
かいつまんで話すと、ちょっとオカルトチックなはなしで恐縮なのですが、西洋占星術学の界隈では今年だか来年だかに世界の潮流が大きく変わるみたいな話があるんです。それは250年とかぶりの大変革みたいなはなしなんです。
250年ですよ。
徳川政権なみの年数ですよね。
250年くらい前って因みに日本でどんなことがあったんでしょう。
教科書、教科書…(山川出版1994年版)
1767年 田沼意次、側用人になる
明和事件、山県大弐死刑、竹内式部流罪
1778年 ロシア船蝦夷地来航、通商要求
1782年 天明の飢饉、浅間山大噴火
1790年 寛政異学の禁発布
林子平「海国兵団」著す
平和な時代のイメージがある江戸時代ですが、結構ハード
日本が産業資本主義社会に呑まれていく前夜ですね。
西洋占星学の世界ではこのあたりから「地」の時代(五感で感じられる感覚的対象、モノやカネ、などを積み上げることによるヒエラルキーの世界)で、今年か来年あたりからは「風」の時代(情報などを中心とした、交流の時代)に移行するというはなしらしいんです。
実はいま、妹の部屋から持ち出したkeikoさんという占い師(占い師というより、占いもやってるビジネスマンという風に見えますが…)が監修した雑誌の占い特集があるのですが、それによるとそんなはなしらしいんです。
どの程度までホントのはなしなのかはよく分かりませんが、ある程度は当てはまりそうですよね。
積み上げに基礎を置いたヒエラルキー社会って確かに目詰まりを起こして限界が露呈しています。
社会のほうはもちろんヒエラルキーをつねに強調します。
藤井翔太や大谷翔平とか成功者に盛んにスポットを浴びせ、難関大学、一流企業を中心としたヒエラルキーを強調します。
そういったヒエラルキーがもたらす重みに対するガス抜きとして、FacebookやTwitterなどのSNSやブログ、YouTubeなど一般人にも可能な自己表現なメディアができ、そこで生じる交流やコミュニティーは前時代的な枠組みを(その一部にせよ)破り始めたのです。
こういった、積み上げ社会のガス抜きを促すアプローチっていうのは以前もありました。
若い人はあまり知らないかもしれませんが、80年代に流行った浅田彰の「逃走論」みたいなスキゾ(フレニー)礼賛による(分からない人は、ググって)積み上げ社会からの逃走もその試みでした。
かつての戦争による大々的破壊も積み上げ社会の目詰まりを解消するアプローチだったといえなくもありません。
またしても、積み上げに「異」を唱えるアプローチが登場してきました。
この文の主要テーマの西洋占星学界隈を中心とした「風」の時代論です。
どこまでホントなのかはわかりませんが、
仮に「風」の時代(情報を中心とした、人脈や交流の時代)がホントに来るのだとしたら、どんな感じかシュミレーションしたいと思います。
まず人々の生産的な次元ではこれは不毛な時代が到来するのではないかという気がします。
積み上げを否定するというのは、ある意味、コンプレックスを諦めるということです。
早くに分を悟って、分相応に落ち着こうとするんです。
個人逸話になってしまいますが
アラフィフの僕がまだ30歳くらいの頃、仕事の帰りに横浜駅の本屋に寄って、ヘーゲルの「精神の現象学」とかの本をハードケースから出してパラパラ眺めてたんですよ。
「やっぱ、こういうの読まなきゃな」って、
で、値段を見て、
「1万4千円?…ちょっとムリだな」
って思って、背表紙を少し擦ってもとの場所に戻した記憶があります。
まぁ、ヘーゲルの「精神の現象学」とかだと、noteみたいなところだと「そんなの大学生のときに読んじゃったけど」みたいな猛者がゴロゴロいそうで怖いんだけど、
それはともかく、若い頃はコンプレックスが沢山ありました。
思想家だとマルクス(経済学)とかフロイド(心理学)とかユング(心理学)とか
文学だと、ドストエフスキーとか太宰治、小林秀雄とか
洋楽ロックバンドのレッドツェッペリンの10枚のオリジナルアルバムとか
画家のゴッホや宗教家のキリスト、仏陀、道元、親鸞とか、
地球上には何てすごい人ばかりいるんだろうって思ってました。
積み上げの否定ってのはそういうコンプレックスを早々に諦めると思います。
またはコンプレックスがそもそもないんですね。
「だってバカバカしいじゃん?」って
もちろん積み上げワールドは、戦争やテロ以外にも
「ばかばかしいじゃん?」
のひと言による相対化にはフツー晒されるものなのかもしれません。
英語ペラペラみたいなコンプレックス(目標)が生じても一週間で諦めちゃう
「だって意味ないじゃん?」
確かに、終局的なはなし、英語はほとんど使わないで人生終える人のほうが多いですよね。
積み上げ的な努力とかで、ヘーゲルやマルクス、ドストエフスキーになれるのか?
そんなのは天文学的な確率でしか地球に現れないんじゃないか?といえば確かにその通りで、早くに分を悟るのはある意味ムダな努力をさせないということで、ある一面からは理に叶ってると言えます。
今日のコンプレックスは、SNSのインフルエンサーやマークザッカーバーグのような起業家ではないか?
でももし、人々が早くにコンプレックスを放り投げてしまうなら、生産的な意味で(私のはなしは、多少旧来的な生産を意味してますが)の生産は停滞するのではないか?
最近の世相は、1強とその他(鬼滅の刃、ユニクロ)みたいな構図をつくりがちですよね。
それなら、それ以外の人には、最初からムダな努力はさせない
そういう風に考えるなら、積み上げの否定もそれなりに無意味ではないかもしれません。
積み上げを否定し、フツーの人であることを受け入れたわたしたちには、どんな可能性が残されてるのか?
ちょっと悲観的ニュアンスかもしれませんが
今日までに築かれた(世界歴史)遺産の蕩尽とSNSを主媒介にした交流?
ぼくたちはもう、生産も積み上げもしないのか?
財の蕩尽と交流に明け暮れるフツーの人として暮らすのか?
いや、会社をクビになったとかシングルマザーになったとかのことをきっかけにフーツの人以下の生活に苦しむのか?
ちょっとオールオアナッシングな極端な悲観に走りすぎたようです。
ヘーゲルという遺産を蕩尽しても、それをわかりやすく他の人に伝えるという二次生産もあるのかもしれないし、接点を媒介にした交流もあるのかもしれない。
ピラミッドとか古墳みたいな遺産が今日できるわけないんだし、ノートルダム寺院みたいな建築物が今日できるわけないし、マルクスやフロイド、ドストエフスキーが今日現れるわけないんだし
ん~、そりゃあ君、昔日と同じものを望むのはムリだし意味ないよ、
今日には今日のすごい人があちこちにいるんじゃないのかな?
そんな声も聞こえてくる。
そうするとでも、昔日のような意味での巨大な生産はもうムリなのか?
戦略的な情報がすごい数右から左へまた左から右へながれていく中で、これといった生産をするわけでもなく、器用に泳ぎ切れる人が栄える時代になるのか(やっぱりまだ悲観してる)
さてでは仮にそうだったとして
ではどんな人が苦境に立たされるのか?
ん~、
まず旧来的な意味での積み上げが何らかの理由で上手くいかなくて、ネットを中心とした情報からも交流からも取り残されてしまう人でしょうか
こういった形になると苦しい展開に立たされると思います。
ネット社会の波には乗れない積み上げ型の人ですね。
でも、波に乗って気持ちよく生きるばかりが能じゃないとは個人的には思います。
僕がすごいと思った人の大半は、太宰治にしても、ゴッホにしてもキリストにしても、ドストエフスキーにしても苦しみの中に生を送った人ばかり
波に乗って気持ちのよいサーフィンのような人生を送った人はいない
こういうのは個人の価値観の範疇だからどっちがよい悪いでは無論ないんだろうけど
だから、そういうのが古いっていうんだよ
そういう時代は来年で終わるの!
という声もする。
というわけで、西洋占星学の界隈で噂されてる、今年だか来年だかから250年続くという「風」の時代というはなしについての個人的予想とそれに対する自己問答でした。
(あとがき)
どういう世界観もあるサングラスのようなものでしかないのかもしれません。
世界にはいろいろな見え方があって、それはどのサングラスをかけるかによって変わってくるのでしょう。
西洋占星学の「風」の時代のはなしもそのサングラスのひとつなのでしょう。
今日でも、ネットで上手くサーフィンができる人がかけてるサングラスと、スマホも持ってなくて、金も人脈も交流もなくて、デジタルチンプンカンプンっていう人の世界の見え方のそれは、同じ地球上で生存していてもまったく違ってみえるのでしょう。
万が一、自分がネットで気持ちよくサーフィンすることがあっても、それと対局の世界を生きてる存在もいるのだということを完全には忘れてしまいたくはないものです。
まぁ、自分はネットの世界では劣者としか思えないけど
御一読ありがとうございました。
(製作データー)
書き始め 2020年11月9日午前10時01分
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