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高学歴なメンバーが作り出したバンド、QUEEN【1】

これは、1995年に提出した卒業論文をもとに書いています。基本的にそのままですが、表記などを少し変更しました。95年当時にあった資料等からのものなので、現在はもっといろんなことがわかっているとは思いますし、拙いところも多くありますが、ご容赦ください。
(卒論の提出日は1月17日でした。もう書きあげていて、久しぶりに友人たちに会うのを楽しみにしていた早朝、阪神大震災が発生。神戸にある大学は大きな被害を受け、提出はずいぶん延びたのでした)

1970年代に“Bohemian Rhapsody”という曲で一世を風靡したQUEENというイギリスのロックバンドがある。このバンドは1970年に結成され、1991年にヴォーカリストのフレディ・マーキュリーがエイズで他界するまでの約20年間、メンバーを変えることもなく活動し続け、いまだに世界中に根強いファンを持ち続けている数少ないバンドである。その人気の大きな理由としては、現在の多くのロックバンドに影響を与えた個性的な音楽性と、デビュー当時のメンバーたちの派手なファッションとリックスの良さにより、アイドル的な存在として他のロックバンドより幅広いファン層を得ていたことなどが挙げられる。

しかし、国外ではこのような印象を与えていたQUEENも、1973年のイギリス国内のデビュー当時は「グラム・ロックの残りカス」「オリジナリティに欠ける、他バンドの真似事」などと音楽雑誌に酷評されていた。なぜなら、1970年代のイギリスの音楽業界はBEATLES、THE ROLLING STONESに始まるロックバンドが次々と出現し、彼らの模倣バンドなどで飽和状態だったからである。しかし、QUEENは雑誌になんと言われようと、彼らを支持する多くのファンをデビュー前から得ていた。そのファンたちというのはQUEENのメンバーたちと似たような環境にいる、彼らにとって身近な人々であった。彼らは年齢も近く、同じようなファッションに身を包み、音楽の好みも似ていて、たいていは近所に住んでおり、他とは一線を画する一種の若者集団を形成していた。彼らは自分たちの集団のシンボル的存在としてQUEENを支持していたのである。

1960年代から70年代にかけて、イギリスの若者たちは上記のQUEENのファンたちのように様々な自分たちの集団を形成し、服装やアイドルとするロックバンドによってその集団の特徴を表していた。例えば、BEATLESはテディ・ボーイといわれる不良少年の集団から生まれ、同じテディから生まれつつも、THE ROLLING STONESはTHE WHOなどと共にモッズ族のアイドルであった。T-REXやデヴィッド・ボウイのきらびやかで中性的な外見は、グラム・ロックという名の集団を生みだした。そして、パンクはTHE SEX PISTOLSの出現によって世の中に認知された。このように、ロックバンドと若者集団との間には密接な関係があり、ロックバンドは自分の属する、あるいは自分をアイドルとする若者集団の特徴を象徴していたといえる。それらの音楽やファッションによる表現手段が若者独自の文化となり、この若者文化はイギリスにとどまらず、世界中の若者に影響を与え、今日でもリヴァイヴァル・ブームを起こすほどの影響力を持っている。

その中でもQUEENは派手なファッションを身に付け、化粧まですることのあったグラム・ロックに属しながら、他のバンドとは際立って違う特徴を持っていた。それは、メンバー全員が学位保持者であるということだ。

そもそも、イギリスにおける大学などの高等教育機関への進路は、現代の日本の大学進学事情とは異なり、高等教育機関の数、入学資格獲得などの条件から非常に困難である。たとえば、1967年の時点では18歳人口のうちで高等教育機関に進学したのはわずかに全体の14.3%であり、その中で大学に進んだ者は6.3%とさらに少なく、イギリスの大学とはまさに選び抜かれたエリートの集まる場所という印象が強い。それに対して、一般に「ロック」といえば、貧乏な労働者階級の若者がちょっとしたツキと歌の才能で若者のアイドルになって億万長者になるというエルビス・プレスリー的なアメリカン・ドリームととらえられがちだ。ところが、QUEENのメンバーたちは大卒という、いわばエリートコースにありながら、大衆文化の一つであるロックを自分の意志で選んだのである。これは特殊なケースなのだろうか。

先にも述べたようにロックバンドは自分の属する若者集団の特徴を象徴している。QUEENの場合は、彼らを支持するファンたちとの間に大学という場が深く関係していた、つまり学位保持者のバンドであるQUEENの背後には、大学に属する若者たちがいたと思われる。 そして、大学生が作り出したロック、大学が生み出した若者文化というものが、QUEENが象徴する特徴であったと言えるだろう。

本論では高水準の高等教育を誇るイギリスが、なぜ同じ年齢集団によって高等教育とはかけ離れた大衆文化を生み出したのかという疑問をQUEENというバンドを例として見、その大衆文化、すなわち若者文化がどのように生まれ発展したのか、そしてそれは社会の中でどのような役割を果たしたのかを考える。このイギリスの若者文化が世界中の若者のライフスタイルや文化に与えた影響の大きさを考えると、その形成過程を見ることによって我が国を含めた全ての若者文化の発生から形成、そしてその存在意義をみることができるであろうと思われる。

第1章では、大学出のエリートとロックはどこで結びつくのか、イギリスの高等教育制度と若者文化の関わりについて考える。
また、イギリスの高等教育の中でもアートスクールの存在が若者文化に与えた影響は大きい。イギリスの社会学者であるサイモン・フリスや、ポピュラーミュージックの研究者であるドイツのピーター・ヴィッケも指摘しているように、イギリスのロックはアートスクールから生まれたといってもよいほど、多くのミュージシャンたちがここを通過している。QUEENのフレディ・マーキュリーもアートスクールの出身である。同じ学校からすでに何人かのロックスターが出ており、彼自身もそのアートスクールに在学する中で、平凡な学生から、流行の服を着てバンドに出入りする学生に変わっていったという。アートスクールとは教育機関としてはどのような存在であり、なぜ、ミュージシャンたちは他の高等教育機関よりも、特にアートスクールを目指したのか。アートスクールとは若者にとってどのような文化を育む場であったのか。このことにはイギリスの高等教育制度の変化が大きく関わってくる。本論第2章において、イギリスの高等教育制度の中でも特に若者文化の形成に大きな役割を果たしたアートスクールについて検討する。

第3章では、若者文化とそれを生み出した時代との関連について考える。イギリスの若者たちは、新しい服装や音楽などといったスタイルを、1950年代後半から1970年代半ばまでの約20年間という短期間に次々と生み出した。これらの複数のスタイル、しかも世界中に影響を与えうる独自のスタイルを若者文化として作り出したのはイギリスのこの時代だけである。このことは若者文化と当時の社会の関係を実にはっきりと示しているといえよう。

当時のイギリスは、折からの慢性不況で物価と失業率だけが上昇を始めた時代であった。しかし、若者たちは金を持っていて、服を誂え、レコードを買ったりロック・コンサートに行ったりする余裕があった。なぜ、彼らがそんな金を持っていたのかという疑問が浮かぶ。詳細は第3章において分析するが、その経済力は余裕、余暇を当時の若者に与えることになった。その余裕を自分たちのスタイルで表すこと――すなわち、ファッションに費やすという状況は、19世紀末のフーリガンの出現と似ている。なぜ、彼らは手に入れた余裕をスタイルの表現に費やした、いや費やさなければならなかったのか。

新しい大衆文化が生まれるときには経済や教育、社会状況などにおける一定の条件が必要になってくると考えられる。その条件は歴史的に振り返り、対比することで検討することができる。ここでは1960、70年代の若者文化の出現と19世紀末フーリガンの出現を比較し、社会が若者文化を生み出す条件の共通点と、そのスタイルにおける相違を考えていく。


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