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死にかたは、生きかた。選べるんなら選ぶ

誰にでも訪れるのに、ほぼ選べないのが「死」で「死にかた」だ。選ぶとしたら自死、安楽死、尊厳死、緩和的鎮静…。幡野広志さんの発信からこういった言葉が“実在するもの”として出てきたように思う。

「健康のためなら死んでもいい」

この言い回し、いつ生まれたのだろう。タイトルにした書籍もあるし、なんとも皮肉というかシニカルなジョークだ。ジョークとして使うのは、それが「本末転倒」だからだろう。

・健康は生きるために必要なことで、それで死ぬなんておかしい。
・健康になるためにがんばったことが、命取りになるなんて。

でも、健康ってなんだろう?健康な状態ってどんなこと?では生きているってどういうこと?死ぬのは敗北なの?

私は、ある時期から冗談ではなく「健康のためなら死んでもいい」と思うようになった。というより、「健康でなく生きているのは、死んでるのと同じ」という方が近いかもしれない。子どもの頃、大嫌いな言葉に「健全な肉体に健全な精神は宿る」というものがあって、スポーツの奨励とか服装や髪の色を正すのに使われていたけれど、あれは使い方を間違っていたんだろうな。健全な肉体=健康が保てなければ健全な精神活動ができず、それができないのなら死んだ方がマシ。というか、もう死んでいるんだと思うようになった。

よく考えると「死んでる」って他者から見た言葉だ。本人には「死んだ」という過ぎたことだけど、「死んでる」は継続した状態。

2つの病気を経験してからこういった考えになった。うつ病と乳がんだ。30歳くらいにうつ病になり、それを治そう、治りそうな光が見えたところで乳がんが見つかった。うつ病は回復しないまま、乳がんの標準治療5年間が始まった。たぶん30代の8年間ぐらいは肉体も精神も健康や健全とはほど遠かったと思う。その状態が長く続いて、抜けだす見込みもなく、なんなら「そうでない状態」をまったく想像できなくなった。とりあえず生きていて、低空飛行でいけばいい…他人に心配をかけないように、できるだけ迷惑をかけないように。ものすごく卑屈で受け身の人間になっていたけれど、気付けばそうなっていたし、そうするしかなかった。運良く生きている(生き延びちゃってる)のだから。

40歳になる頃、乳がんの治療が終わると劇的に健康になった。抗がん剤(飲み薬の、とても軽いものだけれど)やホルモン治療の副作用が無くなるだけで、こんなにも!?というぐらい、元気になった。そうするとガラリとものの考え方が変わった。子どもの頃から私を知っている友人に言わせると「元に戻っただけやん」とのことで、低空飛行頃の私を「どうかしてる、おかしくなった」と思っていたのだそうだ。私は私でなくなっていた。恐ろしい。

人がそのかたちを保ったまま、別のものになるのは恐ろしい。ゾンビが恐ろしい1つはそこにあるだろう。家族や親しい人が外見はそのまま(多少変わってるけど)、別のものになっているから。あるいは、人格が変わってしまうようなもの…認知症だとか、精神疾患なども同じようではないか。周りの者は恐ろしくなると思う。そして、わかりにくいかもしれないけれど本人も「私が私でなくなっていく」と恐ろしく感じていると思うし、苦しんでいるだろう(ゾンビは、もう感じないから苦しくないと思うけど)。その恐怖と苦しみから攻撃的になったりする部分もあると思う。さらに周りが「私」を「私」として扱わなくなっていくので、よけい増幅していくのではないか…。

病気や怪我などの苦痛にある時は、みな不機嫌になったり怒りっぽくなったり、マイナスに繊細になっていく。ある若い子宮がんの経験者は、若くして更年期障害の状態となっているのもあって「PMSの時って、すごく自分が嫌なやつになるでしょう。でも、今はその嫌なやつの状態がずっと続いているんです。わかっているのに、どうしようもない。嫌なやつになっちゃった」と言っていた。私もホルモン治療中はまさにそうだったけれど、終わりがあった。彼女には終わりがなく、もし体が慣れたり、年齢が追いついてきたとしてもまだ10年はかかるのだ。他にも、病気の前はまったく思いもしなかったことに深く落ち込むようになる人も少なくない。

私の場合は、肉体的な苦痛がものすごく精神にも影響するということがわかったので、肉体的な健康はとても重要なことになった。自分としては、そのためにいろいろするけれど(そうは見えないと思うけど…)、どうしようもない時も出てくる。これから先も必ずある。どうしようもなく、自分を保てなくなったら?それは、生きているといえるだろうか。私にとっては、それはノーだ。「健康のためなら死んでもいい」とは、「健康でいられなくなったら死んでいる」だ。そのためのカードは、ちゃんと持っておいて迷わず使えるようにしておきたい。

私は30代に2度、自殺未遂をしている。失敗したからこうやって生きているのだけれど、その2回を「失敗してよかった、生きててよかった」と思ったことはない。あの時、それぞれに考え抜いた選択だった。あのとき死んでいても、特に後悔はない(まあ、死んだら本人は後悔しようがないけど)。いまは生きていられるけれど、またその選択をする時がきたら…選ぶ。それは自殺ではなく、安楽死かもしれないし、鎮静死かもしれない。自分が思う「生きている」状態のために、寿命を縮める処置をするかもしれない。でもそれは生きるための、生きているための選択だと考えている。

そのためには、自分でどういう状態が「生きている」なのかをしっかり考えて把握しておかなければならない。カードを使うためには学んだり準備もしなければならない。まったく簡単でも安易なことでもないのだ。周りの人に理解してもらうことも必要かもしれないが、必須ではないと思う。独りでそこまで考え抜けるかだし、それを考えるためにも健康でいるのは大事なのだ。健全な肉体がなくて、健全な精神もなくなった状態では、肝心の「生きているとは」が考えられないし、学ぶことも準備することも難しいもの…というパラドックスみたいに見えるけれど、ちゃんとしていると自分では思っている。このへん、ヨガにおける肉体的な修行が「ちゃんと瞑想するための体づくり」という考え方が、私にはしっくりする。

誰だって死のその寸前まで、生きている。そのキワキワまで生きている。
死にかたは、生きかた。


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