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優しく易しい医療情報は、どうやってつくる?届ける?① SNS発信の医師4人集結のトークイベントから

2019年9月29日、東京・渋谷で「SNS発信の医師4人集結のトークイベント 知って、届けて、思い合う~やさしい医療がひらく未来~」が開催された。

SNS時代に危機感を募らせる専門家たち

インターネットで手軽に情報検索・入手ができ、SNSで発信できる今、私たちが手にするのは「正しい情報」だろうか? それは医療に限らずあらゆる分野でじわじわと沁み出している問題だ。医療クラスタは「まず病院で受診を」と願い、法律クラスタは「まず弁護士に相談を」と願い、歴史クラスタは「まず義務教育レベルの認識から」と願う。クラスタという言葉はとてもSNS的だが、基本的にその分野の専門家たちと考えよう。専門家たちは研究者であれ実務家であれ、特別なコスト――経済的にも時間的にも、感情の部分でも――をかけて、知識と技術を持つ人々である。彼らはどの分野でも一目置かれる、尊敬の対象だった。特に医療と法律においては命に関わる。しかし、今その専門家たちがSNS時代の情報によって危機感を募らせている。

4半世紀、ウェブの海を泳いできたんだけど…

私は1993年頃、パソコン通信からネットの世界に入った「インターネット老人」にあたる。パソコンがウン10万円もして、通信するのに電話回線をつなぎ、その費用に四苦八苦しながら直接会えない人たちと交流してきた。あれよあれよと言う間にパソコンの値は下がり、通信手段が増えて安くなり、気が付いたらスマホの時代になった。その間に社会学や教育社会学を大学院で学び、個人でホームページを作ったり、作家の個人事務所でウェブ担当やメールマガジン発行をしたりした。2010年を超えるとNPO法人や企業のSNS運営もやった。

四半世紀の間に劇的に変わったのは、情報の収集と発信の量と質だ。もの書きとしては、資料が紙からウェブになったし、発信の場として紙媒体への意識は格段に下がった。情報収集のコストは下がったけれど、発信で稼ぐことは難しくなった。単価が下がることもあるけれど、無料が当たり前の時代に有料記事は、目に留まることも難しい。せいぜいタイトルだけ――つまり、タイトルの付け方次第になる。あるいは、中身は読まれずにタイトルだけで評価される。

がん患者になって、ウェブ情報に鈍かった私

情報収集する側としては、自分だってタイトルで判断することが多い。私は2006年に乳がんに罹患した。当時は精神的に疲弊していてネットを徘徊することもしんどかったのと、古いパソコンを使い続けていた(windows MEだった…)こともあって、あまりネットでの情報収集をしていなかった。たぶん、幸いにも。治療中にだんだん検索を重ねるようになったが、2010年頃までは医療機関の情報も「お決まり」程度だったし、個人の闘病ブログくらいしかなかった。あとはmixiの乳がんコミュニティと2ちゃんの乳がんスレ。私は若年がんだったので、どれもあまり参考にならなかったのも幸いだったかもしれない。患者会の存在もわからず、問い合わせても世代が違うので「そういうのは存在しないんだ」と思って、孤独ではあったけれど溢れる情報に苦しめられることはなかった。

がんの標準治療が終わる頃、ふつうのアラフォーとして健康情報を見るようになる。体調不良やがん情報を探すようになって唖然とした。多い。玉石混合過ぎる。いちおう研究を齧ったはしくれ、発信元や情報のソース(出典)などは確認するけれど、耳触り…じゃないな、目触りのいいタイトルにはつい惹かれてしまう。薬に関する情報を探すだけでも、大量のブログやSNSや宣伝サイトが触れてくる。アラフィフを迎えると周囲にがんに罹患する人、介護する人がぐんと増えてきて、私ががんサバイバーと知る人も知らない人も、がんや病気の話題が主になってくる…中年ならではだ。そして、唖然とすることがいくつも起こってくるのだ。どうしよう…これはまずい、と思っていた。怪しい、あるいは間違った情報に振り回されない人たちも、圧倒的ボリュームで存在する情報とそれを疑問なく受け取る人たちによって大きなプレッシャーを受けている。

メディアの変遷が情報戦を変える。歴史の通りに

医療情報は、とりわけ生死に関わる。残念なことに、これまで信頼を置かれてきた紙媒体でも、怪しい情報が出るようになった。紙媒体は、基本的に有料だから、本当に求める人がお金を出して得る情報(のはず)である。話題になるには広告(新聞や電車の吊り広告)や書評、テレビへの露出があってのことで、実際の情報は紙に書いてある(ことが多い)。しかし、現在では雑誌や書籍のタイトル・紹介文・一部がネットに出回る。おもに宣伝のためだが、ネットのみで情報収集をしているとそれが全てになってしまい、情報として成立し、広まるのではなくて拡散していく。

また、週刊誌がつねに訴訟を抱えてきたように、センセーショナルな記事や書籍は、リスクと隣り合わせの大勝負のところがあった。しかし、紙媒体が衰退する現在、どんなに大勝負しても見合った儲けは出なくなっている。そうなると、リスクは「できるだけ取らない」だけでなく、「できるだけ考えない」ようにして、そこそこのものをそこそこ売れるように作っていく構造だ。

よくわからない出版社から、医師の「○○するだけで■■が治る!」という本が出てネットで話題になり、「簡単なのでやってみました!」「親戚はこれで助かりました!」という発信が目につくようになって。テレビの情報番組で紹介され、さらにSNSで話題になっていく。回復の足しになるものならいいかもしれないが、受けるべき治療から遠ざけていないか。苦痛を増すことになっていないか。何よりも命を奪うことになったらどうするか。その最悪の事態が起こったとしても、死人に口なしで当事者が「あれはよくなかった」と声を上げることは難しい。なによりも自分で選んだことだから、患者も家族など関係者も「間違っていた」とは認めたくないからだ。

死人側として、医療情報をなんとかしたい

私はまだ口のある死人側として、インチキ医療情報に震えあがる。そして、なんとかならないかと、もどかしく思っていた。医療界が情報発信の重要性を認識し、ていねいな情報を増やせば増やすほど、情報の総量が増していく。病を得た人だけでなく、健康な人もその情報の渦に巻き込まれていく。これは、誰がどうしたらいいのか。難解な専門用語を散りばめた情報ソースか、イージーに配信するメディアか、受け取り側のリテラシーか。
正しい情報が、簡単にに伝わるように。それは、発信-媒介-受信それぞれの課題だ。

このイベントは、そんな情報が渦巻く時代に「情報に命を奪われる」危機を意識して積極的にSNSを活用し、医療情報を発信する4人の医師が登壇した。ヤンデル先生(市原真氏 札幌厚生病院病理診断科)、けいゆう先生(山本健人氏 京都大学大学院医学研究科博士課程、消化管外科)・ほむほむ先生(堀向健太氏 東京慈恵会医科大学葛飾医療センター小児科)、大須賀覚先生(エモリー大学ウィンシップ癌研究所)である。
メディアからはWELQ問題を追及した『健康を食い物にするメディアたち』の著者である朽木誠一郎氏(朝日新聞)、朝日新聞の医療サイトアピタル記者、水野梓氏。そしてTwitterで16万フォロワーを誇る某大手出版社の編集者、たられば氏が登壇した。

第1部で4人の医師による「私たちの情報発信」が紹介され、第2部では「情報発信 これからの課題」として2つのグループセッションが行われた。
①ヤンデル×けいゆう×朽木 <よい伝え方、よくない伝え方って?>
②たられば×ほむほむ×大須賀×水野 <医師とメディア、高め合うには?>
最後に第3部としてTwitterでの質問に4人の医師が答えた。

イベントの概要については、Twitterのハッシュタグ#やさしい医療情報で追えるし、ヤンデル先生がまとめて下さっている。


noteではヤンデル先生の連載「アレクサ、看取って」があり、他にもイベントのレポートから意見まで、多数の記事が投稿されている。マガジン「やさしい医療情報」にまとめているので、ごらんいただきたい。

私も長時間のイベントにどっぷり浸り、疲労困憊して帰宅してから取り急ぎTwitterに感じたことを投稿した。そのことをもう一度記録しておきたい。
(続きます)

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