見出し画像

「デス・カフェ&俳句」に参加してみた!

歌人の堀田季何さんが「デス・カフェ&俳句」を開催されるというお知らせが飛び込んできました。ちょうどデスカフェについては、「死を語り巡るカフェ デス・カフェ@東京」さんと知り合い、興味もあったので参加したい、その後は取材して記事にもしたいと考えていたところ。日程が合わずにモタモタしていたけれど、「デス・カフェ&俳句」の日は偶然にも空いていたので、参加することにしました。ただ語りあうだけではなく、俳句をつくるというのもおもしろそうだったし、堀田季何さんのお話も聞いてみたかったのです。

デスカフェとは

デスカフェは、誰もが迎える「死」について、語り合う場のこと。国内でも、世界中でもいろんな形式で開催されています。テーマを設定することもあるでしょうし、喪失の体験を語ることもあるでしょう。たとえば、最近話題になり始めた人生会議(ACP:アドバンス・ケア・プランニング)のように使うこともあるでしょうし、その準備としてデスカフェに臨むこともあるかもしれません。

厚生労働省の人生会議(ACP)普及・啓発リーフレット

今回の趣旨は以下の通り。

「死」というテーマについて、忌憚なく語り合う場です。
講義でもコーチングでも宗教でも会議せさえもなく、ただ単に、自由に談話する場です。議題も目標も設定されていません。お互いの発言を尊重しながら、時には話しづらい内容を分かち合います。参加者には守秘義務があります。人数によりますが、小さなグループに分かれて談話することを想定しています。
この「Death Café」は、スイスの社会学者Bernard Crettaz氏が提唱したcafés mortelsを基に、Jon Underwood氏が2010年に始めた非営利の市民活動です。ヨーロッパのカフェのような非公式の場で、「死」という誰もが逃れることができない一つのテーマにしぼって語り合う試みです。
現在、英国を中心にすでに65カ国で開催されています。
日本版では、総括などはせず、かわりに各自が最後に俳句を作って、談話で得られた気持ちや考えを自由に表現します。俳句の経験は一切不要です。短い言葉にするというところに意味があります。
世話人は、オリヴィエ・デルクロスが(フランス南極越冬隊元隊長)と堀田季何(俳人・歌人)の二人が務めています。

場所は、早稲田奉仕園のセミナーハウスで開催されました。私は早稲田界隈はあまり訪れることがなく、早稲田奉仕園も初めての場所。とても緑豊かで静かな場所でした。夏の真っ盛りでセミの声が響き、赤レンガ造りの礼拝堂・スコットホール(設計はヴォーリズ!)そばのベンチに座ると、パイプオルガンの調べが聞こえてくるという、なんとも落ち着く空間。早めに付いたので、のんびりと夏の昼下がりを味わっていました。

創作で死をあつかうのは、傲慢か

参加者は私を入れて9名。主催の堀田さんとそのご友人、呼びかけ人のオリヴィエ・デルクロスさんとその友人(通訳も)、堀田さんに俳句を学ぶ方たちが3名。そしてデスカフェをテーマに卒論を構想している大学生と、私という構成でした。デスカフェ経験者は大学生の1人だけですが、年齢も参加のモチベーションもばらばらの、自由な場となりました。興味深かったのは、それぞれの死にまつわる想いや経験だけでなく、死は俳句でよくもちいられるモチーフでもあり、その扱いについての話でした。小説家でもある参加者のTさんは、最近上梓した作品の中で末期がん患者を登場させたけれど、「泣ける便利なツール」にしてしまっていないか。自分にそういう傲慢さがないかという迷いがあると話していました。それを受けて俳人のNさんは、人の死を安易に題材にしていいのだろうか、創作において現実とフィクションの違いがあり、題材にする時にはうしろめたさを感じると話しました。

そこで堀田さんは、小説でも俳句・短歌でも、読んだ人に「どう思ってほしいのか」が大事になる。同意も不快さを与えることもあるだろうが、死というのもを意識し、思って、捉えてもらうきっかけになるのではないかと話されました。その点において、短歌は個人の体験を詠むことが多く、読者が自分に置き替えて感じることができるものだが、俳句は普遍的なものであり、傲慢ではなく積極的に取り上げて、考えてもらおうというスタンスであるべきだろうと。

「死ぬ当事者」を感じられるか

大学生のSさんは、大学で学ぶ中で子どもの貧困に関心があって学んできたが、実際に自分は貧しい思いをしたことがないので、当事者たちには距離があると感じていた、と話しました。でも、2年前に親を亡くしたことから死については、ある種の実感を持っている。そこから死生観やデスカフェに興味を持つようになったと話しました。当事者、あるいはそのすぐ近い存在となることで、意識も捉え方も変わるのだという実感です。

私自身はがんサバイバーですと自己紹介して、今は生きているけれども自分自身が死に触れる体験を持つ、というような話をしました。「死の当事者」であること…もちろん、死人はその場にはおれないけれども、その立場も考えたいというような話題を振ってみたりしました。「誰かの死」を経験したり、想定することはできるし、「死にたい気持ち」を持ったことがある人は少なくないだろうけど、本当に「死ぬと思った」は、なかなか難しい。おそらく生と死の比率が一般とは逆の比率になると思うのです。がん患者同士で話したりすると、死の比率が高い人生観でスイスイ話ができるので、楽なところが多いのですね。けれど、一般の健常な人と話の噛み合わなさは多く感じるところです。

ある意味で、この比率が逆転している状態をシミュレーションして死について話し合うことができれば、おもしろいデスカフェになるかもしれない。見送る立場、喪う立場だけでなく死にゆく側に立ってみると、見方も聞き方も変わるだろうなと。死生観の押しつけではなく、死を実感して忌避せず、必ず迎える避けられない事態だと飲み込むこと。自分自身が死にゆくという想定を持ってから、死に近い人や望む人、望まない人に接すると、エンパシーやコンパッションが生まれる、あるいは変わる可能性があるのではないかしら、と思いました。

いよいよ俳句を…(滝汗)

さて、後半ではいよいよ俳句をつくります。俳人の皆さんは、題のあるいつもの句会なのかもしれませんが、未経験者数名はオロオロ…。堀田さんが季語などは気にせず、できれば五七五、あるいは短い詩で、日本語でも英語でも言語も自由ですよと言って下さり、ちょっと緊張がほぐれました。五七五という短さに自分の言いたいことや感情を入れるには、なんと自分は語彙の少ないことか! と思いましたね~。

全員が2句作ってカードに記入し、そのカードを集めて「句会 清記用紙」に作者を伏せて書きうつして全員に配り、各自が良いと思ったものを選んでいくスタイルです。そして、選ばれた句を読みあげて、選者と作者がコメントしていくというもの。同じ句でも選んだ人の理由もそれぞれだし、作者の意図もさまざまなので、これはおもしろかったし、楽しかった。前半で出た死にまつわるいろんな話や考え、スタンスを1人ひとりが多様な解釈で落としこんでいる、という感じでした。トークの総括に俳句というのは、思考もぎゅっと集注するし、とてもよいと思いましたね。

私はあらかじめ1句はなんとなく用意して参加していたけれど、2句つくると思っていなかったので、うんうん唸りながらもう1句をひねり出しました。ひねり出した方がこちら。

あしうらの 砂を味わい 進め進め

これは、緩和ケア医の西智弘さんにインタビューした時に、私が話した言葉から。安楽死であれ鎮静であれ、自殺であれ病死であれ、私たちは死に向かって歩いているのであって、そのプロセスをしっかり知覚していきたいというようなことを話したのです。裸足で砂を踏みしめて歩く、その感触をしっかり感じていたい。浮足立って、歩いてるんだか走ってるんだか、どこに向かってるのかわからないで死に向かうのはイヤなんですよね、と。最初、「砂利の上を…」と言ってから、それじゃ痛いな、苦行になっちゃうと思って「砂の上」に言いなおしたのでした。西先生は、それはとてもいい表現ですね、仏教とかアジアらしい感覚ですよとおっしゃった。

不思議なもので、その後に曹洞宗のお坊さんに安楽死について取材したのだけれど(記事はまだ書いている最中…orz)、そこで釈迦の最期も裸足で歩いていたのだと聞いて、驚いたのでした。釈迦は、具合が悪くなって(食中毒だったらしい)いたけれども、寝込むのではなくて歩き続けることを選んだ。目的地が定まっているわけではないけれど、歩き続けたと。おこがましいのだけれど、裸足で地面を踏みしめる感触を味わいながら進むのは、同じ心境なのかなと思ったのでした。
足の裏で砂の感触を味わうのは、いま生きていることを実感することだし、進め進めの先にあるのは死。けれど、恐れず止まらず、進め進め。

あらかじめ用意していったもう1句は

告知には 勝負の赤い ブラジャーつけて

これは、乳がんの最初に告知を受けた時のことを思い出して、それぐらいすれば良かったなあという思いから。特に乳がんなのでブラジャーは今後、必要なくなるかもしれないし、勝負下着だってつける機会がなくなるかもしれない。実際にあるかないかだけでなく、自分は勝負下着など必要のない存在なのだ、勝負することなんてもうないのだと思ってしまう。いやいや、もし必要な場面になったとしても躊躇してしまうのですよ…経験上。性的なことだけでなく、なにごとかに臨む、覚悟をする時の勝負下着。ちょうどTwitterで、ある医師が勝負下着をつけるという発言を見て、そっか、告知する側がつけてもいいのかもねと思ったりもしました。

この句は誰も選ばなかったのだけれど、堀田さんはおもしろいと評して下さいました。何かしらの、勝負の分かれ目に勝負下着。

そして来週、私はとっておきの赤いブラジャーで2度目の告知になるかもしれない、検査結果に臨むのです…。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?