『オールド・クロック・カフェ』6杯め「はじまりの時計」(3)
第1話は、こちらから、どうぞ。
前話(第2話)は、こちらから、どうぞ。
桂子が盆にグラスを二つのせカウンターを出ると「それ、貸し」と祖父が盆をうばう。
「店番代わったるさかい、お母さんと話をしたらええ」
「でも……」
桂子がためらうのを気にもとめず、祖父は片手で盆を運ぶ。
母はツリーの後ろの中央テーブル席に腰かけるところだった。
祖父が母の前にグラスを置く。
ぼーん、ぼーん、ぼーん。
テーブルのすぐ後ろにある置床式の古時計が重低音を揺らした。
祖父のなめらかな給仕に心をうばわれていた桂子は、はっと我に返り
「おじいちゃん、どの時計が鳴った?」と興奮ぎみに駆け寄る。
「こいつや、一番の古時計」
祖父が時計の肩に手を置く。
「お母さん、飲むよね、時のコーヒー」
桂子が声を震わせる。
「飲まんよ、あんなけったいなコーヒー」
ふんと横を向く。
「……なんで」
言いかけて桂子はその先の言葉を呑んだ。
母は昔からどういうわけか店を嫌っていた。
桂子は奥歯を噛みしめる。母は桂子と祖父から視線を背けたままだ。
(母との感情のもつれを時のコーヒーがほぐしてくれるかも)
とっさに抱いた甘い期待が砂糖のごとく溶けて消える。
「桂子も座らんかいな」
言葉を失って固まっている孫娘の背に祖父が手をそえる。
桂子が祖父にすがるような目を向けながら、母の前の席に浅く腰かけた、そのとき。
ぼーん、ぼーん、ぼーん。
一番の古時計がまた鳴った。
えっ? 桂子は驚き、うつむきかけた顔をあげる。
「あたしに鳴ったん? それともお母さんにまた?」
「わからん。二度も続けて鳴ったんは初めてや」
祖父は軽く首を振りながらグラスをテーブルに置く。
「環さんに時計が鳴ったときなんやけど。瑠璃ちゃんが、どっちに鳴ったかわからんから自分も時のコーヒーを飲むって言い張って二杯作ったん。せやけど、眠りに落ちたのは環さんだけやった。飲んでみたらわかるかな」
「試してみるか」
祖父は鼻に皺を寄せ、母に視線を向ける。
「万季も、試してみいひんか?」
否定の言葉がこぼれるよりも早く続ける。
「桂子との仲をどないかしたいんやろ」
母が開きかけた口を力なくつぐみ、うなずくようにうつむく。
「この時計が鳴ったことに意味があるんとちゃうやろか」
祖父が古時計の肩をたたく。店中の時計たちを統べる奥の壁の中央に鎮座する古時計を祖父はことのほか愛してきた。
「こいつは、はじまりの時計やさかい」
「はじまり?」
母が訊き返す。
「『大きな古時計』の歌みたいに、わしと久乃の出会いからずっと家族と店を見守ってきた、何でも知ってる古時計なんや」
丁寧に抽出したコーヒーにも似た深く濃くなめらかなボディを祖父が愛おしそうに撫でる。
「大学生のじぶんに寺町の骨董屋で見つけた。当時の大卒初任給の倍ほどの値がしてなあ。学生では手が出えへん。ほんでも諦めきれんで通い詰めた。久乃はその店で手伝いをしとった。今でいうアルバイトや。まだ女学生でな。話をするようになってつきあいはじめた。縁結びの時計やから結婚の記念に買うたんや。万季、おまえが生れたときも桂子が生れたときも、この時計は家族のはじまりから全部知っとるんやで」
母は祖父、桂子、古時計と順に視線をすべらす。
「信じたわけやあらへん。でも、桂ちゃんとの仲がなんでこないになってしもたんか。わかるんやったら……飲んでみてもええよ」
尻すぼみに告げると、またぷいと横を向く。
そうか、と祖父は桂子と目を合わせにやりとする。
「では一番の時のコーヒーを二杯、ご用意いたしましょう」
芝居じみた所作で辞儀をし祖父はカウンターに戻っていった。
母と二人きりになると、とたんに緊張が喉にせりあがり桂子は上唇で下唇をぎゅっと巻きこむ。瞳はテーブルの木目を数えていた。
母も無言でテーブルに置いたサングラスをもてあそんでいる。
祖父が豆を挽く音が大きく聞こえるほど沈黙が呼吸を圧迫する。
(ここにお父さんがいてくれたら)と、桂子はうつむく。
父の公介は口数は少ないけれど細い目を糸にしていつも微笑んでいる。目尻のさがった丸顔に丸っこい体形はえべっさんのようで、居るだけで空気がなごむ、そんな人だ。
公介とはじめて会ったのは六歳のクリスマスだった。
「ぼくとお友だちになりませんか」
シュタイフのテディベアを顔の前にかざしたおじさんが桂子の前に膝をつく。小太りの体をせいいっぱいすぼめ、クマのぬいぐるみになりきろうと壊れたピアニカみたいな声でにこにこしている。桂子もつられてくすくす笑む。人見知りがちな桂子が初対面で心をほどいたのは、瑠璃と公介だけだ。
小学校入学をひかえた三月に母は結婚し、公介は「お父さん」になった。実の父を知らない桂子にとってお父さんは公介しかいない。結婚を機に母は看護師の仕事を辞め、カフェの二階から岡崎に越し親子三人で暮らすようになった。
あの頃、と桂子は時をなぞる。
学校から帰れば母が家にいるのがうれしかった。母もそれまでの時間を取り戻すように桂子にかまった。朝起きると服が用意され、ランドセルには時間割どおりに教科書が入れられていた。ピアノ、英会話、スイミング、塾。毎日習いごとがあり母は熱心につきそった。どこに行くにも一緒で近所でも仲の良い母娘と評判だった。
いつから母を息苦しく思うようになったのだろう。
「待たせたな。一番の時のコーヒーや」
祖父はカップを二客テーブルに置く。湯気が白く艶めかしくゆれている。漆黒の液体から立ち昇っているのに湯気はなぜ白いのだろう。母もカップを手に取ったのを確かめると、桂子は時のコーヒーを舌の上でころがし味蕾にゆだねた。
一番の古時計に目をやると、ひとつをふたつに分かつように縦に開いて、十二時三十分を指していた。
(to be continued)
第4話に続く。
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