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バスにひとひらの、春。

貴士は路線バスの運転手になって5年だが、樹々が少しづつ芽吹きはじめる、この季節がいちばん好きだ。まだ、時には肌寒い日もあるが、ゆるやかなカーブを折りたたみながら林と海とを交互に眺め、岬へとむかう坂道の路線を走ると、ひそやかな春の訪れが日ごとに感じられるのだ。

今日は4月下旬の陽気になると、天気予報のお姉さんが言っていたが、ほんとうに3月の半ばとは思えないほどにあたたかい。運転席の少しあけた窓から、ほんのりと潮と緑の匂いのまじった風が、後ろへと流れていく。こんな日は、つい歌を口ずさんでしまいそうになる。なんの根拠もないけれど、何かいいことがありそうな、そんな気分にさせてくれる陽気だ。


その客が乗りこんで来たのは、「洞ノ下」のバス停だった。
ミラーでバス停の乗客が皆、乗りこんだことを確認し、ドアを閉めようとしたその時だ。閉まりかけたドアの上部から、直線を引くようにすっと何かが滑り込んだ。一瞬のできごとだった。

「ツバメだ」
「ツバメよ」
客が口々に驚きの声をあげる。
好奇心からか、それとも何かに追い駆けられていたのか。ツバメが一羽、閉まりかけたバスの後部ドアから滑りこんで来た。それは間一髪のあざやかなスライディングだった。

思いがけない珍客の迷い込みに、どっと、驚きと喜びの声が巻きあがる。
貴士はどうすればいいのか咄嗟に判断できなかったが、とにかくエンジンを切って運転席から立ち上がった。
両サイドからあがる歓声のなか、レッドカーペットを歩くスターのごとく、ツバメは燕尾服に似た黒い翼を広げ、バスの中央通路の天井すれすれを優雅に滑空し、バックミラーの上にランディングした。そのあまりのみごとさに、貴士は職務も忘れて見惚れた。

ツバメはミラーの上で器用に方向転換する。
呆然と立ち尽くしている貴士に、ちらりと視線を寄こすと、何かをぽとりと運賃箱に落として、またたく間に、すーっと前のドアから林間へと飛び去って行った。

わずか20秒ほどのできごとだった。
まるで春風がさっと通りすぎたかのような。今、目にしたことは幻だったのだろうか。貴士は頭を振る。運賃箱に目をやると、巣作りのために摘んできた若葉が一枚、入っていた。
ただ通り過ぎただけなのに、ちゃんと乗車賃を払っていくなんて。なんて律儀なんだろう。口もとが思わずゆるむ。
貴士はその葉を摘まみあげ、大切に胸ポケットにしまった。

乗客たちが、口々に、たった今目にした光景を興奮ぎみに語り合っている。そう、まるですばらしい映画を観たあとのように。
「ツバメがバスに乗るなんて」
「はじめてみたよ」
「春が通りすぎたみたいだったね」
「しあわせな気分になりましたよ」
「いやぁ、長生きできそうですな」
「巣作り中でしょうかね」
「きょうは、すてきな一日になりそうだ」
互いに横を向いたり、後ろを向いたりしながら、会話はとぎれる気配がない。たった一瞬で、バスは春色につつまれた。

貴士はエンジンをかけ、ドアを閉める。
ひとひらの春をまねいて去って行った一羽のツバメの余韻と、しあわせな気分を乗せたまま、バスを発車させる。


(了)


この作品は、旅野そよかぜ@旅と歴史と東南アジア小説さんの以下の企画に参加しています。
旅野さん、毎月、楽しくて想像力を刺激される企画をありがとうございます。

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