小説『オールド・クロック・カフェ』 ほっと謎とき篇(2)
* * * Solve the Time Mystery * * *
「正孝君がメニューの謎を解いたんや」
泰郎の声が耳膜の裏側でこだまする。
それを桂子の脳はうまく咀嚼できずにいた。
桂子がカフェを継いだのは、一年半前の正月明けのことだった。
明日で松の内が明けるというその日、年末に退院したばかりの祖父とふたりで引継ぎの最終点検をしていた。
「これで、まあ、たいがいは大丈夫やろ。ほかになんぞ訊いときたいことはあるか?」
祖父はケトルを火にかけ、棚から大きさの異なるネルを一枚ずつとって、一枚はドリップサーバーに、もう一枚はサイフォンにセットする。その無駄のない流れるような所作に桂子はみとれていた。
「あ、じゃあ、黒板メニューの時刻には、どんな意味があるん?」
ずっと気になっていたことを尋ねる。
「サイフォンとネルドリップとを飲み比べてみるか」と二杯ともカウンターに腰かけた桂子の前に置きながら祖父は
「ああ、あれな。おもろいやろ」
いたずらを仕掛けた少年のように、にっと笑うだけだった。
気になるんやったら解いてみろと、挑戦状を突きつけられたような気がした。だから、自分が解くのだと桂子は思い込んでいた、なんの根拠もなく。
思い返せば謎解きに集中していたわけではなかった。
客のいないときに考えてみるのだが、言い訳になるけれど、客がいないとあんがいすることが多い。格子戸の桟を拭いたり、時計の埃を払ったり、庭の手入れやグラス磨きなどの些事をこなし、それがすむと読みかけの文庫本を開き(あ、これがあかんのやった)、そうこうしているうちにまた、からからと格子戸が音をたてて客を迎える。
それでも一年半、折をみては考えていたというのに。
通いだしてからまだ三月ほどの正孝が、いともあっさりと解いたという。桂子はまじまじと正孝を見つめる。
眼鏡の奥の表情はいつもながらに平坦でわからない。
からからから。
朝の早い時間なのに、また、格子戸のすべる音がした。
さぁあっと、朝露のにおいをまとった風もすべりこむ。
「おはようさん」
祖父がにこにこしながら戸口に立っていた。
「えっ、おじいちゃん、なんで?」
土曜の朝に祖父が訪れたことなどなかったから、桂子は小さく驚く。
「正孝君からLINEに、メニューの時刻の謎が解けたいうメッセージもろたからな」
片頬をあげて、にっと笑う。
正孝とはLINEでもつながっていたのか。いつのまに?
「師匠、おはようございます。わざわざのご足労いたみいります」
正孝が祖父に歩みより、丁寧に体を直角に折ってあいさつする。
「あいかわらず堅苦しいやっちゃ」
泰郎が正孝のかたわらで腕を組んで苦笑している。
「桂子、コーヒーを四つ、テーブルに持ってきてんか」
「えっ、三つやなくて、四つ?」
桂子が首をかしげる。
「おまえも答えを知りたいやろ」
祖父は桂子の心のゆれなどお見とおしとでもいうように、口角をきゅっとあげる。あわてんでもええで、と言いながら16番の古時計の前のテーブルに腰かけた。
桂子がネルドリップで丁寧に淹れたコーヒーをテーブルに並べ、祖父の隣の席につくと、正孝はメニューを広げ、鞄からノートを一冊取り出した。
「まず、6時25分ですが」
と、ノートに数式を書き始めた。
「これが最も簡単で、6×2×5=60になります。たぶんこれがヒントなんやと思います」
「次の7時36分は……」
と言いながら、次々に数式を書いていく。
ノートには几帳面な数字が並んだ。
「おお、ぜんぶ60になるんやな」
正孝の書きだす数式を検分していた泰郎が、感嘆の声をあげる。
「時間は60進法なんで。師匠、これで合ってますか」
正孝が向かいの祖父を見つめながらおずおずと尋ねると。
ぼーん、ぼーん、ぼーん。
くるっぽー、くるっぽー。
キーン、コーン、カーン。
店中の柱時計がいっせいに鳴りだした。
「おみごと、大正解や。時計もほめとる」
祖父が正孝の目の前で親指をつきたてサムアップのしぐさをする。
ようやく正孝の頬がゆるんだ。
「それにしても、ようわかったな。正解を見せられたら、なぁんやと思うけど。なんかの数になるんちゃうか思っても、はじめは見当もつかんやろ」
泰郎がノートを手にして感心する。
「時刻に関係してるんやったら、60か12か24かなと当たりをつけました。それに仕事柄、数字は毎日見てるんで」
ああ、そうか。正孝は宇治市役所市民税課の職員だった。
それでも。桂子は胸にちくっと棘のような感情がささる。
「いやあ、それにしても、この謎。解いた正孝君もたいしたもんやけど。マスター、ようこんなん考えたな」
「俺はもう、マスターちゃうで」
という祖父を無視して泰郎は続ける。
「これ、謎をつくるほうが難しいんとちゃうか」
「そう、そうなんですよ!」
正孝が我が意を得たりと、興奮する。
「60になるようにしようと思いついても、単純に因数分解しただけやったら、あっという間に詰んでしまうんです。五個も考えられへん」
「それに、どの時刻もコーヒーや紅茶やそれぞれのメニューを飲みたいなあと思える時間になってる。すごいと思います」
正孝の声がしだいに大きくなり、どんどん前のめりになっていく。
桂子はメニューブックを片付けて、そっと正孝の前のカップをテーブルの中央に動かした。
「ああ、それな。考えたのは久乃や」
「えっ、おばあちゃんが?」
久乃とは十年前に亡くなった祖母のことだ。
「そや。カフェを始めるときにな、普通のメニューじゃおもしろくないね、言いだして」
ほんだら、どんなメニューがええんや、と尋ねた。
おっとりした性格の久乃は「そやねぇ」と言ったきり、まだ木目も新しい欅の一枚板のカウンターに肘をついて、しばらくぼぉっと考えこんでいた。心ここにあらずはいつものことだ。ケトルに湯を沸かし、豆を挽く。ネルをサーバーにセットして丁寧にハンドドリップでコーヒーを淹れた。
白磁のカップに注いだ一杯を置くと、ようやく我に返ったようで。
「ねえ、オールド・クロック・カフェなんやから、メニューにも時刻がついてるとええんとちゃう? ほら、7時15分のコーヒーみたいな」
「お、それ、ええな」
「でしょ。でね、その時刻がクイズみたいに謎なぞになってて」
「ゆっくりコーヒーを飲みながら謎解きを楽しむこともできるの」
「おもろいけど、どんな謎にするんや」
「ちょっと考えてみる」
「言うてな、ほんまに考えよったんや」
祖父が遠い目をしてやわらかく笑う。
「久乃さんらしいな」
泰郎は納得したようにうなずく。
ちりん、ちりん。
そうでしょ、とでもいうように祖母が気に入っていたガラスの風鈴が風と笑いあう。
からからから。
また、格子戸が音をたてた。
客が来たのかと、桂子はあわてて立ちあがる。
「桂ちゃん、おはよう。招待状の刷りあがり持ってきたよ」
瑠璃が小ぶりな段ボール箱を抱えて来た。
「皆さんお揃いで何してんの」
瑠璃は男たちに視線を走らせる。
「正孝さんが黒板メニューの時刻の謎を解かはったんよ」
「マジで?」
桂子がうなずく。
ははぁん、と瑠璃は何かふくむように桂子を見あげる。
小柄な瑠璃に比して、桂子はすらりと背が高い。
「桂ちゃん、悔しいんとちゃう?」
また、瑠璃ちゃんに気持ちを言い当てられた。
桂子は「うん」と小さく微苦笑する。
「正孝君、六月十日は仕事帰りに寄れるか」
「七時前ぐらいになりますけど」
「ああ、それでかまへん」
「六月十日いうたら、時の記念日ですね」
「そや、ほんでな。その日は、桂子の誕生日で、瑠璃ちゃんの結婚一周年記念日やさかい、ささやかなパーティをするんや」
「ぼくもお招きいただけるんですか」
「もちろんや」
「そういうことやから」
と言いながら瑠璃は、抱えてきた段ボール箱を開けて、正孝に
「はい、これ」と白地にブルーの文字と時計が描かれたカードをわたす。
「七時スタートやから。時計が好きなんやったら、時間守ってや」
(Have a coffee break. The End)
「またのお越しをお待ちしております」 店主 敬白
シリーズのその他の話は、こちらから、どうぞ。
#シリーズ小説 #連載小説 #短編小説 #創作 #みんなの文藝春秋
サポートをいただけたら、勇気と元気がわいて、 これほどウレシイことはありません♡