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『オールド・クロック・カフェ』3杯め「カマキリの夢」<後編・祇園祭>


前編・カフェ編は、こちらから、どうぞ。

<あらすじ>
『不器用たちのやさしい風』で明るい脇役として登場した松尾晴樹。茨城県北部の日立市から夜通しバイクで駆けてきた晴樹は、『オールド・クロック・カフェ』にたどりつく。祇園祭の山鉾を模した30番の長刀鉾の柱時計に選ばれ、時のコーヒーを飲む。「時のコーヒー」が見せてくれたのは、恋人の由真との別れのシーンだった。由真は、「祇園祭のカマキリ」という謎の言葉を残して去って行く。晴樹は泰郎に背中を押され、由真に会いに蟷螂山町に向かう。

<登場人物>
茨城のライダー:松尾晴樹
晴樹の元恋人:由真 
     由真の子:大樹(ひろ)
   由真の父:孝蔵  
  由真の母:文子 
カフェの常連:泰郎
カフェの店主:桂子  
 晴樹の元同僚:森本達也


* * Again * *

 晴樹は泰郎が描いてくれた地図を頼りに、バイクを停めた清水の駐車場へ坂道をのぼる。「京都の夏の暑さはハンパじゃないよ」と由真から聞いてはいたけれど。陽ざしのキツさよりも、体にまとわりつく淀んだ熱気がたまらない。ねっとりとした液体の中を歩んでいるような心地がする。軒をつらねる店先をのぞきながら、由真と来た7年前を思い出していた。修学旅行生のように新選組の陣羽織を羽織ってはしゃいだ。遠ざかってしまった日を懐かしんでいると、隣の店から出てきた浴衣姿の女性とぶつかりそうになった。見あげると「きものレンタル 花結」と看板が出ている。ここで着せてもらうのか。隅田川の花火の夜、由真はじぶんでささっと着ていた。 

 清水坂の公営駐車場には、すでに駐車場へ入る車が列をなしていた。
 首筋の汗をぬぐって、ライダーズジャケットのジッパーをあげ、ヘルメットをかぶる。1300㏄の愛車「隼」にまたがりキーを回す。隼が目覚める音が振動となって伝わる。森本からもらった白い革のキーホルダーが小刻みに揺れだす。
 そうだ、LINEの返事、来てるんじゃね?

松尾、久しぶりだな。
もしかして、清水寺か? 俺は楽しくやってるよ。
復縁って、いいもんだな。
離れてたのが嘘みたいに、元どおりだよ。

 はぁ、うらやまし。復縁かぁ。俺の場合、玉砕でほぼ決まりだけどな。

 「バイク飛ばして茨城に帰ったらええだけやろ」泰郎の声が耳の奥でこだまする。クラッチレバーを握って、チェンジペダルを踏みこむ。ギアが入るゴトンという音がする。晴樹は覚悟を決めた。

 八坂神社の朱塗りの鳥居の前で左折して四条通りに入った。観光客が行き交う歩道が、視線の隅を流れていく。橋が見えた。鴨川か。ハザードを出して止まろうかと思ったけれど。やっと点火した決心までしぼんでしまいそうな気がして、こらえた。川からぬるい風がのそりとあがってくる。

 鴨川を越えると、さらに人が増えた。トラックの後ろを走っていたので見通しがきかないが、浴衣姿もちらほら見え、かなり混んでいるようすだ。
 コンコンチキチン、コンチキチン。コンコンチキチン‥‥。
 お囃子を模した放送が通りの両側からあふれている。

 トラックを追い越し、赤信号でひと息ついて、目を瞠った。
 反対車線の右奥に、突如、天に向かってそびえ建つ鉾が姿を現した。
 屋根の上にとんがり帽のような赤い円錐が乗っていて、その中心を藁の房飾りをつけた真木が貫きそそり立つ。はるか見あげる先端に長刀が天を仰いで刀身を光らせる。どこまでも高くのびる刃(やいば)。かなり低いアングルから見あげているのに、刃先が見えない。両側のビルで切り取られた空を突き、雲を刺し、青天を衝く。真木の両脇に横一文字に飾られている榊が、風にしなうように揺れていた。

 長刀鉾の傍らを駆け抜けると、すぐに南北に走る大通りに出た。ここが烏丸通りか。視界がひらけ、通りの向こうにいくつかの山鉾が威風を放っていた。弓のような三日月を頂く鉾が手前に見える。赤を基調とした絢爛な山鉾たちが、ビルに反射する夏の陽ざしを受け、足もとの喧噪をものともせず静かに鎮座している。雲がゆっくりと動く。透ける空がまぶしい。

「蟷螂山町は烏丸(からすま)より西、四条西洞院の北側なんやけどな」
「祭りの間は、西洞院通りは南向きの一方通行になるんや。せやから、四条通りからの右折がでけへん。烏丸で北に上がって、二筋めを左折して蛸薬師通りに入るとええわ。ややこしいけど、コの字型に迂回するんや」
 京都に不慣れな晴樹のために、泰郎は丁寧に説明する。

 泰郎が「目印にすると、ええ」と言っていた赤煉瓦と白い石造りの二階建ての洋館が見えた。屋上に青銅のドームがある。「ここはな、昔、銀行やったんや」高いビルに挟まれているけれど、風格があってひと目でわかった。その角で曲がって細い路地に入る。風景が一変した。
 黒く磨かれた格子が表を隠し、寸詰まりの低い二階に虫籠窓(むしこまど)をもつ京町家が、ビルのあいまに幾棟か歳月を背負って建っている。ゆっくりと隼を走らせる。祭の喧噪すら忘れそうだ。

 少し広い通りに出た。ここが、西洞院通りか。
 隼の鼓動と、晴樹の胸の高鳴りが共振する。ハンドルを握る手に力が入る。由真に会えるだろうか。むせるような熱気に包まれているのに、指先から腕へ、背中へとしだいに体が冷えていく。 

 南に下ると、遠目に山鉾を飾る提灯が見えた。手前にテントが張られている。それが視界を遮り、カマキリは見えない。露店もけっこう出ている。スピードを落として蟷螂山の横をすり抜け、すぐ先で脇に寄せてエンジンを切った。ヘルメットをとり、振り返る。
 赤、緑、黄の三色幕が囲う台座の上に御所車が乗っている。その屋根の上に巨大なカマキリがいた。堂々たる巨躯だ。金の目玉がにらみをきかせる。背を斜めにあげ、鎌は胸の前で閉じている。あれが、動くのか。

「お、にいちゃん、ええバイクに乗ってんな。隼か」
 正面から見ようと隼から降りたところで、白髪が目立つ初老の男が話しかけてきた。カマキリの紋の入ったポロシャツに腕章をつけている。関係者だろうか。

「隼はええなぁ。このボディがたまらんわ」
 前に回ったり、膝を折って後ろから覗きこんだり。いちいち感心の声をあげながら子細にチェックする。
「最高時速300キロ超えの、世界最速バイク。ライダーの憧れやもんなぁ。乗り心地はどうや」
「最高っす。夜通し茨城から走って来たんですけど、直線はぐいぐい行けるし、気持ち良かったですよ」
 男は足回りやエンジンを腰をかがめ、なめるように見て回る。憧れのオモチャに魅入る子どものようだ。その気持ちは、晴樹にもよくわかる。
「好きなんですか、バイク」
「ああ。若いじぶんは乗り回してた。膝を痛めてから、乗ってへんけどな」
「ちょっと、乗ってみます?」
「お、ええんか」
「人が多いから、またぐだけですけど」
 男の顔が少年の顔になる。晴樹もつられて、笑みがこぼれる。

「カマキリが動くって聞いたんですけど」
「ああ、動くで。動かすのは宵山の今日、日が落ちてからや」
 男は隼にまたがったまま、カマキリを見あげて答える。
「隼も最高やけど、蟷螂のからくりも、みものやで」

「じぃじー。おみくじ、引くぅ」
 幼稚園児くらいの男の子が、駆け寄ってきた。祖父が隼にまたがっているのを見つけて、ぱぁっと顔を輝かせる。
「すご! でっかぁ! かっちょえー!!」
 隼の周りをぐるぐる周る。先ほどの男の動きを見ているようだ。
「ママのバイクより、でっかいなぁ」
 男の子が隼をなでる。
「こら、ひろ。汚い手でさわったら、あかんで」
「じぃじ。新しいバイク、買(こ)うたん?」
「ちゃう、ちゃう。その人のや」
 祖父が晴樹を指さすと、「ひろ」と呼ばれた男の子が、晴樹の前でぴょんぴょん跳ねる。
「じぃじだけ乗って、ずるいなぁ」
 切れ長の目が、晴樹を下から見つめる。
「乗りたい?」
「うん!」
 大きく首を縦に振る。抱きあげてシートの前方に座らせ、腰をしっかりと支えてやる。
「ハンドルに手が届くか?」
「うん、もうちょっと‥。あ、とどいたぁ!!」
「ブルンブルン、ぶぉーん」
 アクセルを回す真似をする。

「ひろ君、帽子かぶって‥」
 男の子を呼ぶ母親の声に、晴樹もつられて振り返る。
「えっ、晴‥‥松尾さん」
 両手で口を押さえて、由真が固まっている。
 晴樹と言いかけて、松尾と言い直した。そら、そうか。元カレと知られたくないよな。ということは、この子が由真の子か。やっぱり結婚して子どもができてた。胸の奥がすーっと冷たくなる。喉が渇く。みぞおちが締めあげられる。これを落胆というのだろうか。合格発表で受験番号がなかったときの、あの感覚と同じだ。結局、俺はどこかで期待していたということか。
 カマキリのからくりを見たら、茨城に帰ろう。

「お、なんや、由真の知り合いか」
 この初老の男は由真の父親か。予想外の展開に晴樹はとまどう。
「東京時代の同僚で、松尾さん」
「父です」
 由真が父親に掌を向けて、紹介する。
「由‥、坂下さんのお父さんとは知らずに、失礼しました」
「お互い様や」
「由真、これが父さんの憧れの隼や。松尾さん、こいつもバイクに乗りますねん。俺が乗ってたヤマハのSR400を譲ってやって」
 もちろん晴樹は知っている。調子が悪くなっていたのを晴樹が整備して、それがきっかけで由真と付き合うことになったのだから。
「またがせてもろてたんや。ひろも、な」
 大人たちの足もとできょときょとしている孫に、相槌を求める。
「ママ、このバイク、めっちゃかっこええで! ぼくも、乗ってん」
 母親の手にぶらさがりながら、自慢する。
「由真、松尾さんの隼、うちの駐車場に停めてもらえ。ここは邪魔になるし傷つけられたらあかんやろ」
「そやね。じゃあ、そのまま祭を案内してくるわ。ひろは、どうする?」
「ぼくも行く」
「ひろ、おみくじは、ええんか」
 祖父が孫に訊く。
「おみくじって?」
 晴樹が由真に尋ねる。
「そこのテントに小さいカマキリがいるでしょ。あれがおみくじになってるの。子どもに人気で。ひろなんか、毎日、引いてる」

 赤い台の上に小さな緑のカマキリがいた。小さいといっても60センチぐらいはあるだろうか。鎌の上に黒い器をささげ持っている。奥に朱塗りのミニチュアの祠がある。
「あんな、これを回すねん」
 台の前に木のハンドルがついていた。ひろが得意げに解説する。
「俺も引こうかな」
 晴樹が、ひろの後ろに並ぶ。
 ひろがハンドルを回すと、カマキリが羽根をひろげて右に回転する。後ろにある祠の前に来ると、祠から白い玉が転がり出た。それを黒い器で受けると、また半回転して、正面を向き玉を木の箱にあける。玉に書かれた番号のおみくじを浴衣姿の女の子が渡してくれる。
「ママ、なんて書いてある?」
「小吉やね。ちょっと、ええことがあるかもね」
「よくできてるなぁ。カマキリの羽根も動くんだ」
「晴樹は、こんなんが好きやね」
「おっちゃん、何やった?」
「ひろ君と同じ小吉」
 いっしょかぁ。やったぁ。隼を押す晴樹の前を、ぴょんぴょんと後ろ向きで飛び跳ねる。
「危ないから、ちゃんと前を見て歩いて」
 由真はすっかり母親だ。俺はちっとも成長していないのに。5年の歳月が情けなかった。

 ひろが案内してくれた家の表札は、「坂下」だった。
 祭の間だけ実家に来ているのか、それとも婿養子をとったのだろうか。

「覚えてくれてたんだ」
 隼を預けて由真と並んで歩く。ひろが晴樹の手をぐいぐい引っ張っる。
「ごめん。今朝まで忘れてた」
 晴樹は立ち止まって、由真に頭を下げる。
「清水寺の近くに五重塔があるだろ」
「あ、八坂の塔ね」
「そこの近所のカフェで、『時のコーヒー』ていう不思議なコーヒーを飲んで。東京駅で別れたときの夢を見た。それで、お前が別れ際に『祇園祭のカマキリ』って言ってたのを思い出した」
「ごめんな、忘れてて」
「ええよ。でも、そんなコーヒーがあるんや。私も行ってみようかな」
 由真が足もとの小石を蹴りながら言う。

「ひろ君、待って。横断歩道は、ママと手をつないで」
 四条通りを南に渡る。黒い板塀の続く細い路地を抜けると、こちら側にも露店があちこちに立っていた。
「ママ―、綿菓子、食べたい」
「お昼ご飯食べれなくなるよ。いちご飴やったら買ってあげる」
「じゃあ、いちご飴」
 由真はりんご飴の屋台でいちご飴とラムネを2本買う。

「晴樹、お見合いしたの? 子どもは?」
 ラムネの1本を晴樹に渡しながら、由真が尋ねる。あいかわらず質問がストレートだ。
「実は‥‥もう一つ、謝らなきゃいけないことがある」
 晴樹はひと呼吸置いて、続けた。
「見合いは‥‥してないんだ」
 ラムネのビー玉を押し下げていた由真が、「えっ」と顔をあげる。炭酸水が噴き出る。あわてて、ひと口すする。
「茨城に帰って1年経っても、いっこうに見合いの話がないから。親父に会社の助けになる見合い話は?て、訊いた」
「そしたら‥。お前、そんなこと考えてたのかって、呆れられて。結婚はして欲しいし、孫も抱きたい。だが、それは会社のためじゃないって」
 あの日の親父の顔を思い出す。最初は呆れて、しだいに怒りを我慢しているのが目に見え、最後は泣きそうな顔になっていた。

「小さくても株式会社だ。会社は俺のものでもないし、ましてやお前のものでもない。後を継げるかどうかは、お前の実力しだい。会社の利益のために見合い結婚してもらおうなんて、考えてもない。そんな結婚は相手の女性にも失礼だろう」

「そう言われたよ」
 由真はこぼれた炭酸水でべとべとになった手を拭いながら、聞いている。
「俺のひとりよがりの思い込みに、由真を巻き込んでた。ごめん」
 晴樹が由真の方に向き直って、直角に頭を下げる。そのまま頭をあげない。行き交う人が、じろじろ見ながら通り過ぎる。カラン、コロン。下駄の音が響く。
「ちょっ、もうええから、早よ、頭あげて」
 由真が小声でささやく。
 アスファルトから湿った熱気が湧き、晴樹の顔にぬらりとまとわりつく。
「おっちゃん、何してるん?」
 ひろが駆け寄って来て、隣に並んで同じように頭をさげる。ちらっと、晴樹の方を下から覗きみて、くすくす笑う。晴樹もつられて笑みがこみあげ、下げていた頭をあげる。子どもには、かなわないな。

 ひろを抱きあげると、いちご飴の甘い香りがした。


* *  secret * *

「あとで、も一回、バイクに乗せてね」
 ひろが、晴樹の耳もとに口をつけて囁く。
 秘密を打ち明けるように告げると、晴樹の腕からすり抜け,駆けていく。いちご飴の甘い香りが耳もとに残った。

「それで、結婚はしたの?」
「いや。今、絶賛、婚活中だよ」
 晴樹はラムネを飲みながら、答える。干あがりそうだった喉の奥で炭酸が跳ねる。これで、ケリをつけられたかな。
「ふーん」
 由真は飲み終わったラムネの瓶を振る。ビー玉が鳴る。

「今夜はどこに泊まるの? 日帰りじゃないよね」
「ああ、さすがにもう40だから。茨城までの日帰り往復はキツイな。ビジネスホテルを探すよ。最悪、ネットカフェでもいいし」
「じゃ、ウチに泊まれば?」
 カラカラカラ。
 ビー玉を鳴らしながら由真が、さらっと言う。
「いや、それは、マズいだろ」
 晴樹はラムネを吹き出しそうになって、あわてて口を腕でぬぐう。
「どうして?」
「どうしてって。俺は元カレだぞ。お前のダンナにどんな顔して会えばいいんだよ」
 なんの罰ゲームだよ。そりゃ、そもそも、俺が悪かったんだけど。いやいや、それとこれとは関係ないか? 
 晴樹はひとり芝居さながら、ブツブツ、つぶやく。 

「ママ―、おっちゃーん。早くぅ」
 ひろが新町通りの角で手を振っている。

「あの子の名前ね、ひろきって、いうの」
 由真が、我が子に手を振り返しながら言う。
「大きな樹って書いて、ひろき。4歳よ」
 由真はときどき、話が飛ぶ。昔から変わらない。そして、そんなときは、たいてい突拍子もないことを言いだす前触れだったりする。
「へぇ。そうなんだ」
 晴樹は気のない返事をする。
 人懐っこい、ひろはかわいい。でも、見知らぬ男との間にできた子どもの名前なんて、晴樹にとってどうでもいいことだ。それよりも、今夜泊まるところをさっさと確保しよう。由真のダンナとの鉢合わせだけは、何としても避けなければ。スマホを開ける。

「あのね」
 宿泊サイトの検索に忙しい晴樹をちらりと見てから、由真は前を向く。
「ひろきの『樹』は、晴樹の『樹』から付けたの」
 ふーん、へぇ、そうなんだ。と、言いかけて、画面をスクロールさせていた指が止まった。

「えっ、今、なんて言った?」
「大樹の樹は、晴樹の樹からとったの」
「なんで、俺の名前から‥」
 晴樹はスマホを落としそうになる。
「ハ行つながりでも、あるんだよね。ひろきの『ひ』は、『は』の次でしょ」
 由真は、晴樹の疑問と動揺をスルーして続ける。
「ね、いい名前でしょ」
 由真の切れ長の目が、晴樹の目を射程にとらえる。

 いや、まさか、そんな。
 晴樹は脳裡に浮かびかけた考えを、全力で打ち消す。消しても、消しても、またすぐに都合のいい淡い夢が、しゃぼん玉のようにふくらんではじける。屋台の呼び込み、見物客のざわめき。通りに充満していた雑多なノイズが、勝手にミュートして聞こえない。新幹線がトンネルに入ったときのように、鼓膜の奥がきーんと緊張する。あるはずの風景がゆらぎ、白く無機質な空間に由真と対峙していた。しゃぼん玉が浮かんでは、はじけて消える。思考も動作もフリーズしたまま、動悸だけが高まる。

 どのくらい続いたのだろう。おそらく、ほんの1秒か2秒だった。
 突然、何かがどしんと晴樹の右脚に突進してきて、結界がはじけ飛んだ。風景が動き出し、音が耳にもどった。

「おっちゃん!」
 ぶつかってきたのは、大樹だった。両腕で晴樹の脚をつかまえている。
「あっちに、すっごい鉾があんねん」
 晴樹の手を引っ張る。
「ママも、ほら」
 右手に由真、左手に晴樹を引き連れ、大人ふたりを小さい体が引っ張る。波を散らす船の舳先のようだ。この小さな手が、もしかすると、俺の‥‥。
「由真‥‥この子は‥‥」
 胸にある考えを確かめるように、晴樹は隣の由真を見つめる。
 由真がうなずく。

 そうなのか? そうなのか、そうなのか!
 晴樹は叫び出したい衝動をおさえ、天を仰ぐ。太陽はすでに中天に高くぎらついている。直線の光が目にしみる。熱い滴がひと筋、まなじりから耳の後ろに流れた。はは‥。今日はやけに涙腺がゆるいな。無駄に明るくて軽い松尾晴樹は、どこにいった。

 角を曲がると、通りを遮るほどの大きな船の鉾が一艘、新町通りに停泊していた。金色(こんじき)の鳥が両翼を広げ、神々しい姿で船の舳先を守る。近づくほどに混みあう人が波をなす。足もとで大樹が、ぴょんぴょん跳ねている。人波にのまれ、よく見えないらしい。大樹の腰を背中からつかみ肩の上に持ちあげた。
「見えるか?」
「肩車や! やったぁ。じぃじの肩車より、よう見える」
「カマキリもかっこええけど、このお船もすごいやろ!」

 肩の上ではしゃぐ大樹を由真が見あげる。
「ひろ君、七夕飾りに、パパができますようにって書いてたよね」 
 おいおい、何を言いだす気だ。晴樹があわてる。目で制しようとしたが、大樹が頭に手を置いているものだから、顔を動かすこともできない。
「うん! 書いたよ」
「おっちゃんが‥‥パパだったら、どう?」
 止める間もなく、由真がストレートの剛速球を投げる。心の準備とか、子どもの気持ちへの配慮とか。そんなものには、おかまいなしだ。

「えっ! おっちゃん、ひろのパパになってくれるん?」
「ほんまに?」
 頭の上から晴樹を覗く。目の前に、だらーんと逆さになった大樹の顔が降ってきた。晴樹の髪をわしづかみにして、真剣なまなざしを向ける。危なっかしい体勢に冷や冷やして、晴樹が思わず「ああ」とうなずくと、頭を起こして「やったぁ!」とはしゃぐ。このままでは危ない。晴樹は大樹を降ろした。

 地面に降り立つと、大樹はすぐさま晴樹に飛びつく。
「ほんまに? ほんまに、ひろのパパになってくれるん?」
「俺で、いいの?」
 大樹を抱きあげる。大樹と由真の間を壊れたメトロノームのように、晴樹の視線が往復する。由真は微笑みながらうなずく。
「あ、おっちゃん、何で泣いてるん? ひろのパパになるの、いややの?」
「違うよ。うれしすぎて、涙も喜んでる」
「よかったぁ」
 大樹がいちご飴でベタベタの手で、涙を拭いてくれた。

「ばぁばが、お昼ができたから、帰っておいでって」
 由真がスマホを見ながら告げる。
「俺はこのへんで適当に食っとくわ」
「何言ってんの。父さんなんか、隼の話が聞きたくて、待ってるよ」
 えっ、いや。ちょっ、待て。晴樹は、このたった1時間ほどの間に起こった急展開に、頭を整理できていない。混乱するまま由真と大樹に連行され、四条通りを渡った。


「ただいまぁ」
 大樹は靴を脱ぎ捨てると、廊下をバタバタと大きな足音を立てて走り、リビングの扉を開ける。
「じぃじ、ばぁば。ひろにも、パパができたぁ」
 大樹が大声で報告しているのが聞こえる。「あ、しまった」と由真が晴樹を見る。口止めするの忘れてたわ。うっかりなのか、わざとなのか。由真が確信犯すぎる気がするけど。覚悟を決めるしかない。

「すみません」
 リビングの扉の前で、晴樹が直角に体を折る。だが、後の言葉が続かない。まず、何から謝れば、いいんだ。結婚の許しを請うことか? 知らなかったとはいえ、今日まで由真と大樹を放っておいたことか? それとも、5年前に結婚してやれなかったことか?

 じぃじも、ばぁばも、孫の爆弾発言に面食らった。じぃじ、つまり由真の父親の孝蔵は、鼻先に引っかけていた老眼鏡を落としそうになった。ばぁばの文子は、鱧寿司に添えるお吸い物をこぼしそうになった。 

「あのね。大樹の父親は、松尾晴樹さんなの」
 由真が、頭を下げたまま不動の晴樹の横に並んで説明する。
 あの気さくな孝蔵が、テーブルの向こうで腕を組んで黙している。
「すみません」
 晴樹は、直角不動のまま声を絞りだす。
「ぜんぶ俺のせいです。俺が悪いんです。俺が‥、俺のバカみたいな‥ひとりよがりの思い込みに‥‥由真さんを巻き込みました」
 そのままリビングの床に土下座する。
 まあ、まあ、まぁ。文子が椀をテーブルに置いて駆け寄り、晴樹の斜め前で膝をつく。「パパ、どうしたん?」大樹が晴樹の背にしなだれかかる。

「俺、養子なんです。母は、小1のときに亡くなりました。‥‥‥」
 晴樹は泰郎に語ったのと同じ話を、ぽつぽつと繰り返した。
 話しているうちに『オールド・クロック・カフェ』に居るような、不思議な感覚になっていく。長刀鉾の柱時計が耳の奥で鳴る。泰郎と桂子が穏やかに微笑んでいる。
「‥‥‥‥、だから、結婚は会社のために見合いでするんだと、思い込んでました」
 幻のような残像に励まされ、晴樹は語り終えた。

「わかった。あんたの事情はようわかった。けどな」
「なんで5年も、由真とひろを放ったらかしにしとったんや」
「それは‥‥」
 晴樹が絶句する。
「私が隠してたからよ」
 隣に立っている由真が答える。
「晴樹は、ついさっきまで大樹の存在も知らんかったし。私が他の誰かと結婚して、大樹が生まれたと思ってた」
 由真は父親に焦点を定めて説明する。

 ふ――――っ。孝蔵はうつむいて、ひとつ、長いため息を吐くと、椅子から立ちあがった。
「ふたりとも、ちょっと来い。文子、ひろを頼むで」
 リビングに続く和室の襖を開けながら、孝蔵はふたりをうながす。「ひろ君、ジュース飲むか?」文子が大樹を抱きあげ、キッチンに連れて行く。

 和室のまん中にどかっと陣取って、孝蔵は胡坐をかく。その前に晴樹と由真が正座する。
「お前らがお互いのことを想うあまり、ややこしいことになったいうのは、わかった。せやけどな。ひろは、どないや。アホな親の身勝手な理屈のせいで、さみしい思いをしたのは、あの子やで」
 晴樹は膝に置いた拳に力をこめ、両腕をつっかえ棒のように張る。由真は父親を凝視してゆるがない。
「松尾さん。あんた、実の父親を知らん、言うとったな。せやったら、あの子のさみしさもわかるやろ」
 晴樹は口を一文字に結んでうなずく。両の目は決壊寸前だ。拳でぐいぐいと膝を押す。
「由真、お前もや。何べん訊いても、ひろの父親が誰か言わんかった。言えんかった事情はわかった。お前が、松尾さんの立場を思いやったのもな。そのうえで、望みを叶えることを考えた。けどな。生まれてくる子のことは考えたんか? じぶんの想いだけで突っ走ったんとちゃうか?」
「今日、松尾さんが来てくれはらへんかったら、この先、どうするつもりやったんや。ひろにも、松尾さんにも、母さんにも、俺にも。誰にも言わんと、お前の胸のうちに秘めとくつもりやったんか?」
 由真は父から視線をそらさない。
「大樹が中学生くらいになったら、話すつもりやった。でも‥。七夕飾りにパパができますようにって書いてるのをみて、胸がちぎれそうになった」
「だから‥。今日、晴樹を見つけたときは、息が止まりそうやった。祇園の神様(かみさん)が願いを聞いてくれはったんやと思った」
 まっすぐに目を据えて話す娘は、頬をつたう涙を拭おうともしない。孝蔵は腕組みをしてふたりの不器用な愚か者を見やり、「しゃあないな」とつぶやきながら立ちあがった。俺が憎まれ者になるか。

「ふたりとも、立て。このまま赦したら、松尾さんも立つ瀬がないやろ。せやからやで」
 孝蔵の右手が、晴樹と由真の左頬に飛んだ。
 バシッ。
 バシッ。
「ひろを悲しませた痛みやと思え。これで、チャラや」
「松尾さん、由真と大樹をよろしゅう‥‥」
 と孝蔵が言いかけたところで、大音量の泣き声が響きわたった。大樹が和室の襖につかまって泣きじゃくっている。
「はは。ひろに嫌われてもたな」
 孝蔵が寂しげに笑う。

「さぁさ。早よ、お寿司食べて。お吸い物が冷めるぇ。ひろ君、ほら、泣かんでも。じぃじも、怒ったんちゃうで」
「じぃじ、パパとママを叩いたぁぁあ」
 うわーん、と大樹がまた、しゃくりあげる。
「あらあら。殴られたパパもママも泣いてへんのに。おかしいなぁ。そんな泣き虫さんやったら、バイクには乗せてもらわれへんな」
 晴樹に抱っこされていた大樹は、最後のひと言にぴたっと泣きやんだ。ごしごし目をこする。


* *  dream come true * *

「‥‥、パパ‥パパ、パパ、起きて」
 耳慣れない単語が、頭の上の方から降ってくる。ハイキーのリフレインが鼓膜の奥を揺り起こす。どこか遠くで、小さな声が誰かを呼んでいる。

 ザザ、サ―――、ザザ――。ぴちょん。ザザ―――。ぴちょん。
 さざ波のようにスラーでつながる小刻みな音が、途切れることなく続く。水分をたっぷりと含んだ土と、湿り気をおびた青い草の匂いが、風に流されて鼻孔をくすぐる。
 このまどろみを、あともう少し。と思った瞬間、何かがどしんと胸に突進してきて、息が止まりそうになった。
 ごほっ、げほっ。激しくむせびながら涙目をあけると、胸の上に黒髪の小さな頭があった。砲弾は、これか。

「パパ、起きて!」
 大樹がにらむ。さっきから耳の奥で響いていたのは、この声だ。
「あ、やっと起きた。この浴衣、兄のだけど。たぶん背格好が同じやから、いけると思う」
 白っぽい浴衣と墨色の縞の角帯を手に、由真が襖の傍らに立っていた。
 木目のくっきりした杉板の天井が真上にある。視線を泳がせると、床の間には祇園祭の軸が掛けられ、カマキリの置物が置かれている。そうだ。ここは由真の家の和室だ。大樹に昼寝をさせていて、俺のほうが寝入ってしまったのか。むくりと起き上がって、頭をひとふりする。藍の甚平に着替えた大樹が、晴樹の背を「よいしょ、よいしょ」と起こす。

「夕立ちがあがったら、宵山に出かけるよ。蟷螂のからくりを見たいんでしょ。雨で人が四条の繫華街に流れてるから、雨あがりは空いてて狙いめなの。日が落ちたら、カマキリも動くよ」
「先にシャワーで汗流してきたら? 浴衣はその後で着付けてあげる」
 由真は一見おっとりしているようで、てきぱきしている。だが、俺の知っていた由真とは明らかに物事をさばくテンポが違う。母になって、磨きがかかったということか。


 雨が駆け抜けた通りは、いくぶん昼間の熱気を冷ましていた。アスファルトから水蒸気がゆらゆらと立ちあがる。軒先に残った雨粒がはじける。由真の言葉どおり、ごった返していた人出がまばらだ。通り雨が人も浚っていったのだろう。雨が洗った空を、夕陽が鴇色(ときいろ)に染めている。昼と夜が交錯する時の間(あわい)に、建物も人も輪郭を残してかすんでいた。
 大樹が水溜まりを狙って歩く。跳ねた水しぶきがクロックスのすき間から侵入する。それが気持ちいいみたいだ。そういえば、泰郎も作務衣にクロックスだった。  

 蟷螂山はビニールの屋根をもつ高い木組みの囲いの下に鎮座している。これを「埒(らち)」というそうだ。「『らちがあかん』の語源よ」由真が教えてくれた。どうして周りを囲っているのかと思ったけれど、雨除けらしい。「宵山は必ずといっていいほど、いっぺんは雨がざーっと降るからね」雨がカマキリの体にかかるとシミになっちゃうの。そうなんだ。 

 あたりに夕闇のヴェールがかかるころ、カマキリが目覚めた。
 御所車の黒い漆塗りの車輪がくるくる回る。巨大なカマキリが鎌を片方ずつ、カクン、カクンと振りあげ、頭をゆっくりと左右に動かす。金の目玉がにらみをきかす。背中の緑の羽が斜め上に開くと、下から薄く透ける羽が扇形に広がり、どよめきが起こる。
 蟷螂が見えぬ何かを威嚇していた。

「お義父さんとか町内の人が動かしてるのか?」
「違うよ。さすがに素人では無理。毎年、名古屋からプロのからくり師さんが来はる。3人で動かしてるんよ」
「へぇ、そんな人たちがいるんだ。羽なんか、どうやって動かしてんだ?」
 肩に乗せた大樹よりも、晴樹の方が目を輝かせる。カマキリの一挙手一投足を瞬きもせず魅入っていた。

「大樹がお腹にいるって、いつ、わかった?」
 肩にかかる体重を感じながら、晴樹が尋ねる。
 空色に白い朝顔が乱れ咲く浴衣姿の由真は、首筋からほのかな色気が匂い立つ。低い位置でまとめた髪の後れ毛が、汗で襟足にはりついている。
「別れ話をした日の前日、私、会社を休んだでしょ。あれね、悪阻でしんどかったの」
「妊娠がわかってしばらくしたら、悪阻がはじまって。はじめは胸がむかむかする程度やった。でも、だんだん、ひどなってきて。あの日は、起きあがれんかった。ああ、もう限界やな。隠されへんなって思った」
「それで、別れを‥」
「うん。産みたかったから。どうしても」
 肩の上の大樹を見あげる。
「シングルマザーで育った晴樹を傷つけることも、わかってた」
「ごめんね」
 晴樹を見つめる。
「俺こそ、ごめんな。辛い決心をさせて」
「ありがとう。産んでくれて」
 もう、せっかく堪(こら)えてたのに。由真の目から大粒の涙が後から後からこぼれる。化粧がくずれたやん。由真が泣き笑いをする。

「あのさ。これからのことだけど」
 スーパーボールすくいをする大樹の頭越しに、反対側にしゃがんでいる由真に話しかける。
「俺は、一日でも早く3人で暮らしたい」
「茨城で?」
 パパ、また、すくえたぁ。大樹が得意げに顔をあげる。お、すごいな。晴樹がほめると、うれしそうに笑う。
「茨城か、京都か。最終的にどっちにするかは置いといて。とりあえず、夏休みを茨城で一緒に過ごさないか?」
「うん、それは、ええよ。ひろも喜ぶと思う」
「え、何?」
 名前を呼ばれたと思ったのだろう。大樹が顔をあげる。
「パパはね、茨城っていう遠ーいところに住んでるんやけど。夏休みになったら、パパのいる茨城に行ってみる?」
「うん! 行く!」
 と、立ち上がったはずみで、ポイが派手に破けた。大樹も晴樹も由真も、「あ!」と小さな声をあげた。大樹の顔がゆがむ。泣くかなと思ったが、ぎゅっと口を結んでいる。どうやら、ばぁばの「泣いてたらバイクに乗せてもらわれへんぇ」が相当効いているようだ。
「お、ひろ。3つも取ったのか。すごいな。俺が取ったのは2つだから、ひろのほうが、多いな」
 こくん、とうなずく。「パパに勝ったぁ」もう、笑っていた。

 たこ焼きを食べたり、射的をしたり、ヨーヨー釣りを楽しんだり。
 「パパ、次、あれ!」「お、パチンコか」晴樹のほうが、大樹よりはしゃいでいた。子どもがふたりいるみたい。由真があきれる。
 街灯に群がる羽虫のごとく、露店の灯りに引き寄せられるようにして歩き回ったからだろう。遊び疲れた大樹は、晴樹に負ぶわれて寝息を立てる。我が子の体温が背にはりつき、じっとりと汗ばむ。背中で受けとめる重みと熱が、夢ではなく確かに現実なのだと、晴樹に教えてくれた。 

 
 翌朝、階下に降りていくと、孝蔵が和室で白い着物の上に、明るい薄茶の裃を付けているところだった。文子が手伝っている。
「おはようございます。なんか、すごいっすね」
「おはようさん。祭は神事やさかいな。もう、帰るんか?」
 孝蔵は裃の先を整えながら訊く。
「すみません。出かける前の忙しい時間に。帰る前に挨拶だけしときたくて」
「親に報告したら喜んでました。詳しい話を聞きたいから、とにかく早く帰って来いと言われたんで、蟷螂山の出発を見送ったら帰ります。明日、仕事もあるんで。週末に両親を連れて、改めて挨拶に来ます」
「そうか。気ぃ付けて帰りや。隼で走ってどのくらいかかる?」
「休憩をはさみながらなんで、8時間ぐらいですかね」
「隼も見納めか」
「次は親を連れて来るから新幹線ですけど。また、隼で来ますよ」
 晴樹は孝蔵の足もとに正座して、いったん姿勢を正してから、畳に額がこすれるほど頭をつける。
「5年も、由真さんと大樹を放ったらかしにしていた俺を‥‥認めてくださって、ありがとうございました」
 孝蔵が袴を払いながら座る。文子も並ぶ。
「ちょっと強情な娘やけどな、よろしゅう頼むわ」
 両膝に拳をついて、孝蔵が頭をさげる。
「ほんでな、俺も隼に乗せてな」
 顔をあげた晴樹に、にかっと笑みを返す。


 蟷螂山の前には、裃を着けた町衆たちが集まっていた。裃なんて時代劇の衣装だと思っていたので、違和感もなく風景になじんでいることに驚く。さすが京都だな。晴樹は妙な感心をした。孝蔵は数人の男たちと談笑していた。晴樹たちに気づいたのだろう。振り返って晴樹を指さすと、周囲にいた男たちもこっちに目を走らせる。とりあえず、晴樹はその男たちにぺこりと頭を下げた。
 昨夜まで三色幕が掛かっていた台座には、みごとな友禅が飾られていた。正面には鶴が、台座の右の胴には孔雀が、左には鴛鴦(おしどり)が描かれている。羽のひと筋ひと筋まで流れるように優美だ。友禅のことは何もわからないが、まさに宝だと思った。何よりも目を奪うのは、背面の一幅だ。御所車の屋根からだらりと垂れ下がった長くて立派な友禅には、天翔ける孔雀が描かれている。幻想的な松や竹の吉祥柄が彩る天上の苑(その)に、美しい羽根を優雅になびかせ舞い降りる孔雀。これを掲げて都大路を練り歩く、蟷螂山町の人たちの誇りがまぶしい。

 裃姿の男たちが蟷螂山の前に整列すると、法被姿の若者が山の周りの定位置につく。いよいよ出発だ。町内のあちこちから拍手が湧きおこり、「いってらっしゃぁい」の声が追いかける。山は西洞院通りを粛々と進み、四条通りに出ると東に折れる。拍手が鳴り止まない。
「鉾の辻に行こ」由真が耳打ちする。
「鉾の辻?」
「四条室町の交差点が『鉾の辻』って呼ばれてて、いろんな鉾が見れるの。室町通りから菊水鉾と鶏鉾が出てくるし、函谷鉾(かんこぼこ)と月鉾は目の前やし。長刀鉾も四条烏丸に待機してる。出発の順番待ちで山鉾が集まって来るから、けっこう壮観よ」
 由真はすいすいと人垣を縫う。晴樹は慌てて大樹を抱きあげ後を追う。

 四条通りに入った蟷螂山に向かって、幼稚園児たちが「カマキリさぁん」と手を振る。声援に応えるように、カマキリが鎌を振りあげ、羽を広げる。子どもたちの歓声が空に吸い込まれる。
 コンコンチキチン、コンチキチン。シャン、シャン、シャン。
 あちこちの辻や通りの奥から、お囃子がこだまする。
 東の空で威勢を放つ太陽は、四条通りをまっすぐに射ていた。今朝も早くから陽射しがきつい。蟷螂山の曳手たちは、黒い陣笠を被っている。
「あれが月鉾。真木の先に三日月がついてるでしょ」
「あっちが、函谷鉾」
 晴天に届けとばかりに、それぞれの鉾の長い真木が空をまっすぐに衝く。豪華な山鉾たちが、長刀鉾を先頭に四条通りに集まる。そのみごとさ。絢爛たる都の誇りが、あたりを睥睨(へいげい)して居並んでいた。
 コンコンチキチン、チキチン、コンチキチン。シャン、シャン。ぴーひゃらひゃら。コンチキチン。
 それぞれの鉾が奏でるお囃子が和音となって重奏の調べを響かせる。
 掛け声とともに、長刀鉾が四条烏丸を出発した。蟷螂山も鎌を振りあげながら近づいて来る。俺もいつか「蟷螂の斧」になれるかな。傍らの大樹と由真に視線を走らせながら、晴樹は目の前を通り過ぎるカマキリの雄姿を見あげる。真夏の太陽に向かって透ける羽を広げていた。


「パパ、どこ行くん? ひろのパパになってくれたんと、ちゃうん?」
 昨夜、一応、説明したつもりだったのだが。やっぱり、わかってなかったか。大樹はすでに半泣き状態だ。抱きあげて切れ長の目に視点を合わせながら、話す。
「パパは仕事があるから茨城に帰るけど、土曜日にまた来る。今度は茨城のじぃじとばぁばも一緒に、ひろに会いに来るから」
「茨城のじぃじとばぁば?」
「ゆみちゃんにも、たっ君にも、じぃじとばぁばが、二人いてはるやろ。なんで、ひろのじぃじとばぁばは、一人やの?って、言うてたやん」
 由真が助け舟を出す。
「あ、そっかぁ。ひろのじぃじとばぁばも、二人になるん?」
「そうさ。それに、夏休みになったら、ひろが茨城に来てくれる約束したの、忘れたか?」
「忘れてへん!」
「じゃ、ゆびきりな」
 小さな指に、節の目立つ指をからませる。
 いけ垣の隅でカマキリが一匹、鎌を振りあげていた。

 隼のエンジンをかける。
 ドドッ、ドドドドドドドッ。
 隼が目覚める重低音に、「かっちょえー!!」と大樹が目を輝かせる。大樹を抱きあげて、じぶんの前に座らせ、小さな手にグローブの手を添えてハンドルをつかませる。
「どうだ?」
「ひろも、大きなったら隼に乗る!」
「じゃあ、土曜日な。泣かないでお利口にしてるんだぞ」
「うん!」
 大樹の腰をつかんで、由真に渡す。ヘルメットのシールドを下ろす。
 大樹、由真、文子が手を振る。バックミラー越しに、大樹がいつまでも大きく手を振っているのが見えた。あそこに俺の家族がいる。胸の高鳴りが隼の鼓動と連動する。

 片側3車線の広い堀川通りを白い躯体が駆け抜ける。風が隼の速度で併走する。疾風のようだった昨日が脳裡を駆け巡る。 
 そうだ。『オールド・クロック・カフェ』に寄ろう。
 「時のコーヒー」が奇跡のはじまりだった。きっと今なら泰郎が、カウンターで新聞を広げながらコーヒーを飲んでいるはずだ。


(3杯め Good Taste End)

さわきゆりさんの『不器用たちのやさしい風』との
コラボレーションに心より感謝申し上げます。


「またのお越しをお待ちしております」 店主 敬白


本作の主人公、松尾晴樹が脇役として登場する、さわきゆりさんの『不器用たちのやさしい風』も、あわせてお愉しみください。


1杯めは、こちらから、どうぞ。

2杯めは、こちらから、どうぞ。


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