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小説『虹の振り子』06

第1話(01)から読む。
前話(05)から読む。

<登場人物>
 翔子:主人公
     芳賀啓志けいし:翔子の父     
     芳賀登美子:啓志の母、翔子の祖母
      芳賀仁志:啓志の父、翔子の祖父
        ジャン:翔子の夫(イギリス人)

* * * * *

第2章:父ーグラウンド 02

 春の海のような人だと思った。
 はじめて朋子に会ったのは嵐山の料亭だった。淡いはなだ色の訪問着がよく似合っていた。庭の桜が風に舞って二、三片うすい水色のきものの肩に乗ったのが、水面に舞い散る花びらのようにみえた。その光景を、50年経った今でも、色つきで覚えている。桜吹雪のなか、はしゃぐでもなく、照れてうつむくでもなく、ずっと以前からそうであったかのごとく啓志の傍らでしぜんと笑みをこぼす朋子に、「ああ、この人となら」と思った。

 啓志が大学院の博士課程を卒業すると、母の登美子は、待っていましたとばかりに、次から次へと縁談を持ち込んだ。30歳になっていたとはいえ、まだ、研究者としての一歩を踏み出したばかりだ。「僕には、まだ、そんな甲斐性はありません」と言っても、「あら、あなたの甲斐性なんて関係ないのよ。これは芳賀家の問題なのですから」と取り合わない。
 学会の準備があるからとか。論文の執筆で忙しいからとか。母が縁談を持ち込むたびに、のらりくらりとかわしていた。同僚からは、「見合いぐらい気軽にすればいいじゃないか、嫌なら断ればいいだけだろ」と言われた。だが、母のことだ、啓志の気持ちなど無視して勝手に話を進めることは容易に想像できた。だから、あれこれ理由をこじつけてかわしてきていたのだが、抵抗するのも五月蠅うるさくなって、33歳の年にはじめて見合いをした。
 その相手が、朋子だった。朋子は10歳下の23歳だった。

 はじめての見合いの相手が朋子だったことを、啓志は今でも神に感謝している。
 といっても、啓志は信心深いわけではない。学者として、民俗学的あるいは社会学的観点から神の存在に関心はあるが、疑いもなく心から神を信じるには、啓志は理が勝ちすぎていた。
 まだ大学生のころに、退役軍人のアメリカ人パイロットと話す機会があった。研究室の教授の受賞記念パーティの席だったと記憶している。飛行機という文明の最先端の乗り物を操縦していた元戦闘機パイロットが、キリストの復活を「真実」として心から信じていることに啓志は驚いた。「この世界は神が創った」と真剣なまなざしで言う。啓志が宇宙はビッグバンによって始まったと宇宙物理学の理論を持ち出すと、「それこそ、物理学者の空想でしかない」と声を荒げた。啓志も若かったから、最新の知見を披歴し、理路整然と反論したのがいけなかった。冷静に理論を語るほどに、相手は激昂していく。やがて二人の周りに人だかりができた。そこではじめて、啓志はまずいと思った。だが、まだ大学生の啓志には、その場をおさめる器量も力もなかった。激していく相手を前に、なす術もなく立ちつくしていると、その日の主役の教授がにこにこしながら、啓志と元パイロットの間に割って入った。
「やあ、ボブ」
「お取込み中のところ悪いんだけど、『マタイによる福音書』でわからない箇所があるんだ。向こうでゆっくり、これで一杯やりながら教えてくれないか」
 教授はジャック・ダニエルのブラックボトルを掲げ、がっしりとしたボブの肩を軽くたたきながら、啓志に目配せして、人の輪をかきわけボブを連れ去った。「すまないねぇ。あれは、うちの研究室の学生でね‥‥」教授の声が遠ざかっていくと、人波も潮のように引いていった。
 あれは良い経験だった、と苦笑が漏れる。
 正論ほど危ないものはないのだと、あの日、啓志は悟った。それがきっかけだった。聖書はもとよりキリスト教についての書物を片っ端から読みあさった。最先端のテクノロジーを扱う人間が、盲目的に信じるのはなぜなのか。それを知りたいと思った。結局、いくら書物を読んでも、当時の啓志には、神という存在を信じる機微はとうとう理解できなかった。
 その心理が多少なりともわかるようになったのは、朋子と結婚し、翔子を授かってからだ。守るべきもの、大切なものができてはじめて、人知を超えた神にただ祈る気持ちがわかった。


「ジャンがね、私たちの出会いは運命だった、て言うの」
 翔子はそう言って、結婚相手のイギリス人青年を紹介してくれた。

 運命。そうだ、それが最もしっくりする。気乗りしないまま、はじめて臨んだ見合いの席で、まっすぐな瞳を向けて座っていたのが朋子だった。ひと目で恋に堕ちるというのとはちがう。欠けていたピースが見つかったような感覚だった。劇的なものは何もなかったが、私と朋子の出会いも運命だったのだと啓志は思う。
 翔子とジャンは、互いをハニー、スイーッハートと呼び合っている。イギリスではそれがふつうらしい。日本男子の常として、細君を「おい」とか「おまえ」としか呼ばないことには、女性をひとりの人として敬していないと反発する気持ちが啓志にはあった。だから、妻のことは、はじめから「朋子」と名前で呼んだ。それでも、翔子たちのように、甘ったるい呼称で呼びあったこともなければ、愛を語ったこともない。

 結婚当初から変わらぬ形がある。
 居間のソファに腰かけ、紅茶を飲みながら啓志は本を開く。その隣で朋子は編み物や刺繍をする。時折、啓志はケルト神話からはじまって中谷宇吉郎の映画『霜の華』のことや果ては古生物のアノマロカリスまで、ふとした瞬間に去来するあれこれを語りだす。啓志の話がはじまると、朋子は編み物を傍らに置き、少し首をかしげながら顔を向ける。啓志の話に、「まぁ」と驚いたり、「それで?」と促すだけでなく、時に本質を突く鋭い質問をする。それが啓志の思考を刺激する。朋子はなかなかの聞き上手だった。こんな時間を持てるならば、もっと早くに結婚すれば良かったと思えるほどに。
 翔子が生まれるまで、ふたりで知識の海をのたりのたりとただよう時間を重ねた。

 はじめて会ったとき、朋子は23歳だった。啓志がボブと口論になったのと同じ歳だ。あの場にいたのが自分ではなく朋子だったら。上手にボブの気持ちをなだめたのではないだろうか。東の書棚から聖書を手に取り、啓志は考える。いや、そもそも朋子ならば、あんな知識だけを披歴するような議論はしなかったはずだ。
 陽が昇ってきたのだろう。オークの木目が美しい机に笹がシルエットを描き、光が揺れる。
 おそらく本人に自覚はないのだろうけれど、朋子はすべてをあるがままに受け入れ、受けとめる。
 静かにたゆたう春の海のように。


(to be continued)

(07)に続く→

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