見出し画像

『オールド・クロック・カフェ』3杯め「カマキリの夢」<前編・カフェ>

ようこそ、オールド・クロック・カフェへ。
「3杯め」は、さわきゆりさんの『不器用たちのやさしい風』
明るい脇役として登場する松尾君の物語です。
スピンオフのようなコラボ作品に仕立てました。
『不器用たちのやさしい風』とのブレンドが
美味しい一杯となりますように。
                            店主 敬白

<登場人物>
茨城のライダー:松尾晴樹
晴樹の元恋人:由真 
カフェの常連:泰郎   
カフェの店主:桂子  
 晴樹の元同僚:森本達也


* * Welcome Again * *

 その店は、東大路から八坂の塔へと続く坂道の途中を右に折れた細い路地にある。古い民家を必要最低限だけ改装したような店で、入り口の格子戸はいつも開いていた。両脇の板塀の足元は竹矢来で覆われていて、格子戸の向こうには猫の額ほどの前庭があり、朝顔が軒下でほほ笑む。格子戸の前に木製の椅子が置かれ、メニューをいくつか書いた緑の黒板が立て掛けられていなければ、そこをカフェと気づく人はいないだろう。

 そのメニューが変わっていて、黒板には、こんなふうに書かれている。

Old Clock Cafe

6時25分のコーヒー       ‥‥500円
7時36分のカフェオレ      ‥‥550円
10時17分の紅茶         ‥‥500円
14時48分のココア        ‥‥550円
15時33分の自家製クロックムッシュ‥‥350円

 なぜメニューに時刻がついているのかはわからない。そこにどんな秘密があって、何を意味しているのかも。ときどき、この風変わりな黒板メニューに目を止めて、開け放たれた格子戸から中を訝し気に覗きこむ人がいる。

 いらっしゃいませ。ようこそ、オールド・クロック・カフェへ。
 あなたが、今日のお客様です。


* * Sun Rise * *

 清水寺の石段前でエンジンを切った。ヘルメットをとり、頭をひとふりする。背後の峰が白く透けはじめていた。黒く鎮まる山並みから、光が闇を薙ぎはらうようにせりあがってくる。張り出した清水の舞台と、それを支え高くそびえる木組みの桁との明暗がしだいに輪郭を露わにする。まだ姿を現さない光源から伸びる一条の光が、舞台を照らしだした。
 晴樹は愛車にまたがったまま、息をするのも忘れていた。ツーリングで朝を迎えたことは、何度もある。だが、こんな全身が震えるような感覚は初めてだった。光の矢は、1300㏄の中古バイク「隼(はやぶさ)」の白い駆体も射程距離に入れまっすぐに貫いた。

 7月の京の朝は、冷め切らなかった熱気にぬるく淀んでいる。
 石段の下にバイクを停め、仁王門まで上がってみたが、さすがに朝の5時では開門していない。茨城県北部の日立市から夜通しバイクで駆けてきて、尻と内腿が強張っている。まだそこにバイクのボディを挟んでいるような感覚があり、内股が閉じない。姿勢を正そうと大きく伸びをし、後ろを振り返った。
 清水坂がゆるく右へ左へと蛇行している。軒をつらねる店の庇が、ポジフィルムのように薄明の光に輪郭だけを浮かびあがらせていた。人の気配は、まだない。都一番の観光地は、朝のまどろみのなかにあった。

 あと数時間もすれば喧噪に巻き込まれる町。
 今は俺がひとり占めしている。
 そう思うと、胸のうちに明るい高揚感がみなぎる。
 婚活の失敗で沈みこみそうになる気分を吹き飛ばしたくて、バイクにまたがった。それが、どうだろう。今はウソのように晴れている。考えてみれば、俺も40だ。今さら失恋ぐらいで落ち込むこともないか。いや、そもそも、まだ恋にもなっていなかった。婚活パーティでノリが合って、2回デートした。それだけだ。

 晴樹は左右の肩を回すと、また大きな伸びをした。
 ジーンズの尻に刺したスマホを抜き取る。その弾みで一緒に入れていたバイクのキーが落ちた。痛む尻をかばいながら、四角い革のキーホルダーを拾いあげる。隼のボディと同じホワイトの革に、黒字で「Haruki Matsuo」と刻まれている。森本から贈られたものだ。「俺は引っ越すけど、東京に来ることがあったら連絡しろよ」そう言って、最終出勤日に手渡された。
 あれ、そういえば、あいつ。俺のフルネームが「松尾晴樹」って何で知ってたんだろう。ま、いいか。

 森本が仕事を辞めて、1ヶ月か。仕事でもプライベートでも長く付き合っていけそうな気がしてたのにな。別れた恋人とやり直すために東京に戻るって、言うんだもんな。しょうがないか。ちくしょう、うまいことやりやがって。

 去年の夏、晴樹と森本達也は大手食品会社の下請け会社に中途採用で入社した。わかりやすく明るい性格の晴樹とちがって、森本はどちらかというと寡黙だった。だが、その日のラインでどんな仕事になろうとも、文句ひとつ言わずに黙々と作業をこなし、さり気ない気遣いもある。直感にすぎないけれど、こいつは人の痛みがわかるやつだ、と思った。

 晴樹は白い革のキーホルダーを日にかざして目を細める。落とさないようにメッシュのライダーズジャケットの内ポケットにしまいこんだ。そうして、スマホを手に清水坂を上から見下ろして撮り、そのまま振り返って、舞台を下から見上げて写真におさめた。よし、これを森本に送ってやろう。LINEを開いて写真を添付しメッセージを入力した。

  おひさ~。元気か。
  さて、俺は、今、どこにいるでしょうか?
            あなたの松尾晴樹💛

 ま、こんなもんで、いいか。送信マークをクリックした。


「もし、もぅし。大丈夫ですか」
 ぽんぽんと肩を叩かれて、晴樹は我に返った。目の前には、作務衣を着た剃髪の男が立っていた。手には竹箒を持っている。
 茨城から8時間ちょっと。途中で仮眠を取ったとはいえ、走りづくめだったから相当疲れていたのだろう。森本にLINEを送ったあと、仁王門の柱にもたれて居眠りしていたらしい。首を左右に振って、コリをほぐす。

「あ、もう入れますか?」
 ジーンズの膝に手をついて、のそりと起き上がる。まだ、尻が痛い。
「へえ、どうぞ。ようこそお参りやす」

 清水寺を訪れるのは2度めだ。前に来たのは7年前か。
 あのときは、由真と一緒だった。
 由真は、東京で勤めていた会社の5歳下の後輩だった。語尾が余韻をひいて伸びる京都弁が珍しく、最初はそこに興味をもった。口調はおっとりしていたが、仕事の手際はよく意外としっかりしていて、そのギャップに惹かれた。30歳手前から5年間交際した。つきあって2年めに「アパート代がもったいないよな」と、晴樹が彼女のアパートに転がりこむ形で同棲をはじめた。晴樹の恋愛遍歴のなかでは、もっとも長く続いたのが由真だった。
 ふたりで暮らし始めたころに、京都を訪れた。実家に連行されるのかと、半ばびくつきながら新幹線に乗った。京都駅から市バスで向かった先が清水寺だった。

 観光客で鈴なりの舞台の欄干にもたれながら、「あれが京都タワーで、向こうに見える緑の森が御所」などと隣でガイドさながらに説明する由真の方を見ずに、晴樹はおそるおそる尋ねた。
「これから‥その‥おまえの実家に行くの?」
「えぇ、行かへんよぉ。行きたいん?」
「いやいや、いや。でも、ふつうそう思うじゃん」
「ふーん」
 由真が首をかしげて、晴樹の顔をのぞきこむ。セミロングの髪が欄干にかかる。由真の切れ長の目に見つめられると、何もかも見透かされそうでどぎまぎする。晴樹は思わず顔をそらした。
「ほんで、おとなしかったんや。晴樹が修学旅行でも京都に来たことない、言うから。それは京都人としては見過ごせへんなぁて、思っただけやねんけど」
「なんやったら、今から、うちに連絡してもええよ」
 にこりと微笑みながら、スマホを取り出す。
「いや。今日は修学旅行でお願いします」
 晴樹はあわてて由真の方を向き、深々と頭を下げた。

 あの日と違って誰もいない舞台の欄干にもたれながら、7年前のことを思い出していた。あれからふたりで京都を訪れることはなかった。だから、由真の実家がどこにあるか知らない。昨夜、茨城を出たとき、行く先を決めていたわけではない。京都南のインター手前で、うっすらと夜が明けはじめるのを感じて高速を降りた。気づいたら、清水寺の石段前にいた。

 ほぼ貸し切り状態で境内を一周し、石段前に戻った。ジョギング姿の男が坂をのぼってくる。隼のエンジンをかけた。隼は大型バイクだけにロングツーリングには快適だが、こんな狭い坂道では小回りが利かない。でかいだけに引いて歩くのも大変だ。とりあえず、坂の途中で見かけた公営駐車場に停めよう。腹もすいてきた。モーニングをやってる喫茶店でも探すか。

 ところが、開いている店が見つからない。適当に路地から路地を歩いたものだから、今、自分がどの辺りにいるのかも、土地勘のない晴樹にはわからなかった。ランドセルの一団が駆けていく。小学生に訊くのもなぁ。五重塔を右手に仰ぎながら坂道を下る。さすが京都、神社仏閣だらけや。そんなことを思いながら、ひょいっと左手の路地をのぞいた。

 白シャツに黒いカフェエプロンをつけた女性が通りを掃いている姿が目にとまった。彼女に訊いてみるか。

「すんません」
 声をかけると、路地を掃いていた手を止め、団子にまとめた頭が振り返り、小首をかしげる。
「この辺でもうやってる喫茶店とかって、ないっすかね。茨城から夜通しバイクで走って、腹がすいてるんですけど。開いてる店が見つかんなくて」
 
「うちも、カフェですよ」
 にっこり微笑んで、傍らの椅子に持たせかけた黒板を指す。

 『オールド・クロック・カフェ』とある。
 時刻のついたふしぎなメニューが記されていた。変なメニューだなぁと思ったが、そんなことを気にしている余裕はない。強張った尻を落ち着け、腹の虫をおさえるのが先だ。
「あの‥開店は‥まだっ、すよね」
「掃除がまだ終わってへんけど、よかったら、どうぞ。もうすぐ、常連さんがお一人お見えになるころやし、開けようか思うてたんです」
 由真と同じなつかしいイントネーションだ。

 からからから。
 心地よい音を立てて、桂子が表の引き戸を開ける。
「ようこそ。オールド・クロック・カフェへ」
 右の掌を上に向け、すっと中へいざなう。

 引き戸の向こうは、小さな庭だった。
 扉を開けるとカフェの店内があると思っていたから、晴樹はちょっと驚いた。ほど良い高さの木が一本あり、涼しげな木陰をつくっている。雀がちゅんちゅんと戯れながら、板塀と枝を行き来する。飛び石には、打ち水が撒かれ、黒くつややかに光っていた。


* * Third Cup of Coffee * *

 表の木戸をくぐったまま立ちつくしている晴樹の傍らを、箒と手桶を持った桂子がすり抜ける。その背を風が追う。
 ちりん、ちりん。
 涼やかな音がして、軒に吊るした簾(すだれ)が揺れた。
 小さな庭の向こうに年季の入った日本家屋がある。玄関先には丈の長い、藤色の麻の暖簾が掛けられている。桂子が暖簾をあげながら、小首をかしげて晴樹を振り返る。
 ちりん、ちりん。
 風の音(ね)に背を押され、晴樹もあわてて飛び石をわたる。

「どうぞ」
 桂子にうながされ、黒光りしている土間に足を踏み入れて、晴樹はあんぐりと口を開けた。壁という壁に柱時計が掛けられている。
「すっげぇ。なに、これ!」
 どかどかとライダーブーツの音をたて壁に近づき順に柱時計を見て回る。
「全部でいくつあるんだ? すっげぇ!」
 感嘆の声をあげて晴樹が振り返ったそのとき、初老の男がぶらりと入ってきた。

「桂ちゃん、おはようさん」
 藍の作務衣を着た男が、新聞を持った手をあげてあいさつする。
「泰郎さん。いらっしゃい」
「今日も朝から空気がぬるいけど、ここはええかげんに涼しいなぁ。戸は開けといたほうが、ええか?」
「そやねぇ。もうちょっと風、通しとこうかな。泰郎さんのガラスの風鈴が、いい音色、響かせてくれてるし」
 ちりん、ちりん。風がそよと吹きぬける。
 
「お、珍しな。今日は俺が一番乗りちゃうんや」
 泰郎はさっそくカウンターに腰かけて、新聞を広げる。
「桂ちゃん、俺は適当にやっとくさかい。あっちのお客さんの相手してや」
 桂子はうなずいてポットを火にかけ、ちょっと考えてから、グラスと湯呑を用意した。冷蔵庫で冷やしたグラスに、レモンを浮かべた冷水を注ぐ。湯呑には、熱いほうじ茶を淹れる。それらを盆にのせて、カウンターを出た。

 晴樹はカフェに足を踏み入れてからせわしなかった。壁を覆いつくしている柱時計の前を行ったり来たり、下からのぞいたり、側面を調べたり。目を輝かせておもちゃ屋の棚を物色する子どものようだった。

「時計がお好きなんですか?」
 グラスと湯呑をのせた盆を持った桂子が、その背に声をかける。
「いやぁ、時計が好きっていうか。メカが好きなんすよ」
 晴樹は頭を掻きながら振り返る。
「実家が小さな食品工場をやってて。工場のでかい機械もおもしろいけど、バイクのメカとか、こういう小さいメカ類って、最高っすよね」
「祖父が聞いたら、喜びそう」
「このカフェは、半年前まで祖父がやってたんです。大の時計好きで。骨董市に行っては柱時計を買ってきて。骨董市に並んでるもんなんて、たいていは壊れてて動かへんでしょ。それを直して、手入れして。今では32個もあるんです」
「へぇー。壊れてたのを修理したんだ」
 へぇー、すごいなぁ。へぇー。ぐるりと時計を見まわしながら、感心のつぶやきがもれる。明らかにじぶんより10歳は年上にみえる男のはしゃぎように、桂子はくすりと微笑む。おじいちゃんと、ちょっと似てるかも。

「お好きな席に、どうぞ」
 桂子が盆を持ったまま、うながす。 
「テーブル席でも、いいっすか。時計を眺めたいんで」
「ええ、どうぞ」
 テーブル席にはすっぽりと体を包んでくれそうな籐のアームチェアが2脚ずつ置いてある。梅雨もしまいになった先日、泰郎に手伝ってもらって、夏用の椅子に替えたところだ。
「この時計、変わってるなぁ」
「あ、それは、祇園祭の長刀鉾(なぎなたぼこ)の柱時計です。長刀鉾は祇園を代表する鉾で。「くじとらず」いうて、山鉾巡行の先頭は長刀鉾がお決まりなんです。こんな時計、京都でしか見かけへんかもしれませんね」
 山鉾をかたどった時計の屋根に、すくっと長い長刀が天をさして伸びている。鉾の装飾を模しているから、赤い色あいも目を引く。

「あ、じゃあ、この時計の下の席にします」
 通り庭に面した窓際のテーブル席を指す。
「ちょっと椅子、動かしてもいいっすかね」
 そう尋ねながら、晴樹は時計を真正面から眺められるように、籐の椅子を動かす。桂子がテーブルにグラスと湯呑を並べる。

「遠いところを、ようこそ。まずは、グラスのお水で喉をうるおしてください。湯呑には、熱いほうじ茶を淹れてます。汗がひいたら、ほうじ茶をどうぞ。こっちのほうが、喉の渇きをいやして‥‥」

 コンチキチン、コンチキチン。

 突然、桂子の説明をさえぎるように、甲高いお囃子に似た金属音が響いた。
「あっ!」
 思わず声をあげて、桂子が目の前の柱時計を見あげる。
 泰郎が読んでいた新聞を放り出して駆け寄る。クロックスがつっかえてまろびそうになっている。
「鳴ったんは、これか!」
 泰郎が山鉾の柱時計を指さす。
「うん。30番の長刀鉾時計やね」
「兄ちゃん、おめでとう」
 泰郎が晴樹の肩をぽんと叩く。晴樹は何が起こったのかわからず、きょとんとした顔で座ったまま、ふたりを見あげる。

「時のコーヒーが飲めるなんてなぁ。ほんまにラッキーやで」
 今日は、なんかええことありそうな予感がしとったんや。泰郎がにこにこしながらまくしたてる。
「泰郎さん、お客さんがびっくりしてはるわ」
「ほんまや、かんにん」
 泰郎がひとつ深呼吸をしてから続ける。
「ここのカフェの裏メニューちゅうか、特別メニューに『時のコーヒー』いうのがあるんや」
「これがな、誰でも飲めるコーヒーやのうてな。『時計に選ばれんとあかん』いう特別なコーヒーなんや」
「はぁ」
 いつもはどちらかというと、場を盛りあげるタイプの晴樹が、白髪が目立つ初老の男の見幕に圧倒されている。
「俺もこないだ初めて飲むことができたんやけどな。30年近くこのカフェに通って初めてや。時計に選んでもろたんわ。俺のときは、あの鳩時計が鳴った」
 反対側の壁に掛かっている緑の鳩時計を指さす。

「それって、ふつうのコーヒーと何か違うんですか?」
 素朴な疑問を口にする。
「時のコーヒーはな、過去の忘れものに気づかせてくれるんや」
「忘れもの?」 
 晴樹が怪訝なまなざしで泰郎を見る。それに気づいた桂子が後をついだ。

「カウンターの向こうに小さな抽斗(ひきだし)のついた箪笥があるのが、見えますか? 時計には1番から32番まで番号がついてて、あそこに番号順に豆が入れてあるんです」
「ちょうど今みたいなタイミングで。注文をとろうかというときに、時間でもないのに時計が鳴ることがあるんですけど。それが合図で、そのときに鳴った時計の番号の豆で淹れるのが、『時のコーヒー』です」
「時のコーヒーを飲むと、過去の夢を見るんやそうです。それで、忘れていただいじな記憶を思い出す。時計が忘れものに気づかせてくれるんです」
「時計が鳴ってないときに淹れても、ふつうの美味しいコーヒーにしかなりません。それに『時計は気まぐれやさかい、気に入った客にしか鳴らへん』て、祖父が言うてました」
「店をついで半年になるんですけど。今までに鳴ったのは5回だけ。4人めが、この泰郎さんです」
 桂子が隣の泰郎に顔を向け微笑む。口角があがると、えくぼが現われる。
「おかげで俺は、娘とのだいじな約束を思い出せたんや」
 この話のいったい、どこからどこまでを信じたらいいのか。
 晴樹は顔をあげて、桂子と泰郎を交互に見る。ふたりの目にからかいの色はなかった。

「めったにないチャンスや。一見(いちげん)さんで時計に選ばれるなんて、ほんまにラッキーやで。絶対、なんか忘れてるだいじなことがあるんや。それを時計が教えてくれる。騙されたと思うて『時のコーヒー』を飲んどき」
 この見ず知らずのおっさんは、なんでこうも熱心に薦めてくるんだろ。忘れものなんか、山のようにある。そんなの今さら思い出したところで、どうなるもんでもないような気はするけど。まぁ、どんなコーヒーか、そこは気になる。森本にLINEで自慢する話題ぐらいにはなるか。

「じゃあ、せっかくやから、その『時のコーヒー』を飲んでみます」
「そうか、そうか。それが、ええ」
 泰郎が晴樹の肩をぱんぱんと叩きながら、桂子に笑顔を返す。
 しっかし、このおっさんの手、ぶ厚いなぁ。何してる人だ?

「では、30番の時のコーヒーをご用意しますね」
「お腹が空いたって言うてはりましたけど。何をお作りしましょう。すぐにご用意できるのは、トースト、サンドイッチ、クロックムッシュですけど」
「どれが、いちばん腹がふくれますかね」
「うーん、クロックムッシュかな」
 桂子が小首をかしげて答える。
「じゃあ、それで」
「はい、かしこまりました」
 

 桂子が盆をかかえて小走りでカウンターにもどる。
 泰郎は、そのまま、晴樹の向かいに腰かけた。
 長刀鉾の柱時計は、1時7分を指していた。


* * kon・chiki・chin * *

 通り庭の開け放たれた窓から、時おり風がそよと流れ、斜めに射し込む朝の陽ざしを軒の簾がやわらげ、テーブルに模様を描いていた。
 晴樹の向かいに、泰郎がにこにこしながら座っている。相席することを許した覚えは、まったくない。どうすっかな、この人。

 晴樹は、だいたいにおいて愛想がいい。というより、無駄に明るい。初対面の相手にも軽口をたたく。「ノリだけで生きてるんやから」由真にもよく言われた。「でもさぁ。明るい晴樹って、外面(そとづら)モード発動中のときやね」つきあい初めてすぐ、由真はナゲットを齧りながら、いともあっさりと晴樹の本質をついた。

 茨城からバイクで夜通し駆けたため、アラフォーの体力は限界に近い。できることなら無駄な電源は落としたかった。ようやく腰を落ち着けた籐の椅子は、クッションが良く、痛みの残る尻にも心地いい。エンジンを切って、無口でぶっきらぼうな素の自分にもどるには最適だ。それなのに。
 常連らしいおっさんが、さも当然のように、はす向かいに腰かけている。相手しなきゃ、だめかな。やれやれ、晴樹はそっとため息をついた。

 ちりん、ちりん。
 窓辺の風鈴がゆれる。胴がぷくりと膨らんだ釣鐘形のガラスに、緑と水色の細い筋が交互にてっぺんから滴のように垂れている。
「いい音ですね」
 時候の挨拶ぐらいのつもりだった。
「あれな、俺がこしらえたんや」
 まるでパンケーキでも作るような口調だ。
「えっ、この風鈴を、おっさ‥、あなたが作ったんですか?」
「そないにかしこまらんでも、おっさんで、ええで」
「近くの茶わん坂でガラス工房をやっとるんや」
 ああ、それでか。厚い手の感触に納得がいった。
「ガラス作家さんかぁ。マジすっげぇ。そんな人、はじめて会いました」
 いつもの明るいノリで驚いてみせる。
 泰郎は晴樹に静かに目をやり、「無理せんでええで」とやんわり諭す。
「俺がおったら落ち着かんのやったら、カウンターにもどる。まだ、訊きたいことあるんちゃうかと思って、座っただけやから」
 晴樹は、あっと言葉を呑んだ。明るくて軽い「松尾晴樹」という仮面を、あっさりと見破られた。由真以外では、はじめてだ。そうか、この人の前では素でいいんだ。ギアをあげなくてもいいんだ。

「じゃあ。『時のコーヒー』を飲むと、どうなるんですか? あの女性は夢を見るって言ってたけど」
 晴樹はカウンターで豆を挽いている桂子に視線を向ける。
「眠とうなってな。気づいたら、自分が登場してる過去の映像を見てる感じやった」
「映像‥」
「そや。夢みたいにおぼろげやなくて。クリアなんや。自分が主人公の映画を観てるみたいやったなぁ」

 コーヒーの香りが風に乗って微かにただよいはじめた頃あいで、桂子が盆を提げてきた。
「お待たせしました。クロックムッシュです。時のコーヒーは、今ドリップしてるんで、もう少しお待ちくださいね」
「泰郎さんのトーストとコーヒーも、ここで、ええ?」
「ああ、ここに置いてんか」
 この店に入ってから、どこか懐かしい気がしていた。肌になじんだシャツのような。それが何かわからずにいたが、ふたりの会話を聞いて、はっとした。由真の口調と同じやわらかなイントネーション。いっしょに暮しているうちに、ときどき晴樹もよく似た語尾になることがあった。もう、使わなくなったけれど。それが耳に心地よかったのだ。

 熱あつのクロックムッシュにすぐさま齧りつく。長く伸びるチーズと格闘している晴樹に、泰郎が話しかけた。
「ひとつ、言い忘れてたんやけどな」
「時計がさしてる時間も関係あるんや」
 えっと顔をあげ、2口めのクロックムッシュでいっぱいの口をもごもごさせる。泰郎が長刀鉾(なぎなたぼこ)の柱時計を見あげる。
「1時7分か。この時間に覚えはないか?」
 ようやく咀嚼し、グラスの水をあおる。
「時間が‥関係‥あるって‥どういうことっすか?」
 ときどきむせながら、晴樹が問う。
「この時間に起きた何かを忘れてるいうことや」
 ますます、わからない。
「まあ、じきにわかるわ。時計にまかしといたら、ええ」

 コンチキチン、コンチキチン。
 長刀鉾の柱時計が、そうや、とでもいうようにお囃子を鳴らす。

「お待たせしました。30番の時のコーヒーです」
 桂子が涼しげな青磁のコーヒーカップをテーブルに置く。
 これが『時のコーヒー』か。見た目はふつうだ。ふだんインスタントしか飲まないから、コーヒーのことはよくわからないけれど、いかにも本格的な深い香りが湯気とともにゆらりと立ちあがる。

「どうぞ、ごゆっくり」
 泰郎は気を利かせたのだろう。新聞を広げてトーストをほおばる。
 晴樹は、おそるおそるひと口すすった。
 何を思い出させてくれるのだろうか。俺にとってだいじなこと。昨日までは婚活だったけど。それにしても、うまいなぁ、このコーヒー。

 コンチキチン、コンチキチン。あ、また、時計が鳴ってる。
 晴樹の意識があったのは、そこまでだった。 


* * Time Coffee * *

 コンチキチン、コンチキチン。コンチキ‥‥。
 一定のリズムで繰り返される鉦(かね)の甲高い金属音が、潮の引くように遠のいていく。代わりに雑多な音の重なりが鼓膜をゆらしはじめた。さざ波のようなざわめきに、チャイムのメロディー、トーンの高い機械的アナウンスに、がなるような声が不規則にかぶさる。それらがボリュームを上げ増幅する。不協和音が最高潮に達したそのとき、音だけだった画面の中央を左から右へと、すーっと長くて白い流線形の何かが滑りこんで来て止まった。
 それが合図だった。舞台のライトがいっせいに点き、突然、視界が明るくなった。

 カメラは引き気味で、新幹線の白くて長い躯体をとらえていた。立ち止まって電光掲示板を確かめる人。足早に通り過ぎる人。たいていはスーツを着たサラリーマンだが、笑いあう女子大生のグループもいる。平日の昼間だろうか。ホームはそれほど混雑していない。
 五分袖の白いワンピースの裾を風に踊らせてたたずむ女性の後ろ姿が見えた。傍らには赤いキャリーバッグ。入ってきた新幹線の風圧にあおられたセミロングの髪を右手で押さえながら、斜め後ろを振り向く。
 由真だ。
 そうか、これは5年前の新幹線東京駅の19番線ホームだ。
 あの日、由真と俺はここで別れた。


 ひと月ほど前だった。いつもなら晴樹より先に起きて朝食をこしらえている由真が起きてこない。シャワーで寝汗を流した晴樹は、髪をバスタオルで拭きながら寝室をのぞいた。
「調子悪いのか?」
「ちょっと」
「じゃあ、今日は休むって言っておくよ」
「うん、お願い」

 その日、由真のことが気になった晴樹は残業も早々に切りあげて帰宅した。ダイニングに明かりはついていたが、由真の姿はない。寝室の扉は閉まっている。テーブルの上に「カレーを温めて食べて」とメモがあった。
寝室をそっと開けると、由真は寝ていた。晴樹は静かにベッドに近寄り、額に手をのせると、由真がうっすらと目を開けた。
「起こしちゃったな。熱は‥」
「熱はないよ。ごめん。カレーあっためて、食べてくれる?」
「ああ、気にせず、ゆっくり寝とけ。明日はどうせ休みだ」

 翌日の土曜には由真の体調は良くなっていたが、前日のこともあるからと、ツーリングにも出ず、一日ふたりでだらだらと部屋で過ごしていた。

「あのさぁ。うちら、もう終わりにせぇへん?」
 ベランダから西日が射し込む。グレープフルーツをスプーンですくいながら、由真が「今日の晩ごはん何にしよっかぁ」ぐらいのノリで言う。格闘ゲームに興じていた晴樹は、手に握っていたコントローラを落とした。
「いやいや、いや。ちょっ、待て。今、なんて言った?」
「うん。せやから、別れへん? 言うてんけど」
「お、お、俺、何か怒らせるようなことしたか? 浮気もしてないぞ」
 落ち着いている由真とは対照的に、晴樹は左右の手を意味なくばらばらに動かし、あげくの果てに、ソファテーブルの上の缶ビールを倒した。
 ぷぷっと、由真が吹き出す。
「なんや冗談か。マジかと思って、びびったわ」
 晴樹が、ほっとした顔をする。
「冗談やないよ。笑ったのは、晴樹の慌てっぷりがおかしかったから」
 由真はこぼれたビールを拭きながら、晴樹の顔をのぞく。

「お正月に京都に帰ったら、見合い写真と釣書の束が用意されててん。親戚のおばさんとかにも、この人はどうぇとか。もう、あっちからも、こっちからも言われて」
「それで、お前、帰ってきたとき元気なかったんか」
 帰省から戻ってしばらく、由真が不機嫌だったことを思い出した。
「最近、親からしょっちゅう電話がかかってくるんよ。あの人はどうやとか。お前のこと気にいった言うてくれはる人がおるとか。適当にかわしとってんけど。いっぺん京都に帰って来いって、うるさなって」
「まあ、考えたら、もうすぐ30の大台やしね」
 由真がいつになく早口でまくしたてる。晴樹は「いや」とか、「ちょっ」とか割って入ろうとしたが、それを許さない。
「子どもの産める年齢考えたら、潮時かなって」

 そこで言葉を切って、晴樹をじっと見つめる。
「私と結婚は‥‥、できないよね」
 由真の切れ長の目が、晴樹の虹彩を射る。あ、これは、ごまかしが効かないときの目だ。

「ごめん」
 晴樹は由真の前に正座して、頭を下げた。
「前にも話したと思うけど。いつか茨城に帰って親の会社を継ぐ。その時には、会社のために見合い結婚する。それが俺を養子にして育ててくれた親へ、俺ができる唯一のことだから」
「うん、それはわかってるよ」
「つきあう前に、ちゃんと、そう言ってくれたやん。それでもええ、言うたんは私やもん」
 それは、そうなのだが。後さき考えずに同棲に持ち込んだのは自分で。女性の体にはタイムリミットがあることなど、考えてもみなかった。何とかなるさと、ずるずると決断を先延ばしにしていた。何ともならないのにな。

 由真が結婚を口にしたのは、後にも先にもこの一度きりだった。

 別れると決めてからの由真の動きはすばやかった。週明けの月曜には辞表を提出し、仕事の引継ぎのあいまを縫って、引っ越しの準備やらアパートの契約解除やらを済ませていった。
 晴樹も同じ日に退職して茨城に戻ると決めてはいたが、辞表を提出しただけで、事務手続きを着々とこなす由真の有能さを眺めるばかりだった。


 キオスクでお茶と由真の好きなアーモンドチョコレートを買って戻ると、乗車がはじまっていた。
「じゃあ、晴樹も元気でね」
 由真はにっこり微笑むと、赤いキャリーバッグに手をかけ、背を向けて乗車口に向かう。晴樹はたまらず、後ろから抱きしめた。
「ありがとう。由真といた5年間は‥‥最高やった」
 由真の耳もとで声をふりしぼる。由真にいつも笑われていたけれど、いつのまにかなじんだ関西弁に、5年分の想いをこめた。
 由真は晴樹に抱きしめられたまま、背を向けて言う。
「もし‥もし、やけど。いつか私に会いたくなったら、『祇園祭のカマキリ』って覚えといて」
「え? 何て?」
 出発を知らせるアナウンスが重なる。
 キャリーバッグを持って、由真はタラップに足をかけた。

「祇園祭のカ・マ・キ・リ!」
 振りかえって謎のことばを叫ぶと、ゆっくりと「のぞみ」の扉が閉まった。ステンレスの安全扉も閉まる。
 ホームの時計は、1時7分を指していた。


* * kamakiri * *

 由真を乗せた新幹線の白く光る躯体が右から左へと、闇を連れて滑るように流れる。やがて轟音とともに白く光る点となって消え、画面がフェイドアウトした。

 発車を告げるメロディーをアナウンスが追いかける。ホームに充満する蜂の羽音のようなざわめき。統一のない雑音の重なりが、鼓膜の奥に波が引くように収斂(しゅうれん)されていくと、代わりに一定のリズムで繰り返される鉦(かね)の音が聞こえてきた。

‥‥チキチン、コンチキチン、コンチキチン。コンチキチン。

 意識の底ではなく、すぐそばの耳もとで金属音が鳴っている気がする。

 頬に筋をひいている涙の跡を掌で乱暴にぬぐい、瞼をあげる。視界に映ったのは、赤い長刀鉾(なぎなたぼこ)の柱時計だった。
 コンチキチン、コンチキチン。
 「おかえり」というように、お囃子を鳴らす。
 どうやら、籐のアームチェアの背もたれに深く体を預けて眠っていたようだ。視線を横にずらすと、泰郎が新聞を読んでいた。晴樹は背もたれから体を起こし、頭をひとふりする。

「お、おかえり」
 気づいた泰郎が新聞から顔をあげる。
「忘れものは、見つかったか?」

 見つかったといえば、見つかったけれど。謎が深まった気がする。由真が残した暗号のような「祇園祭のカマキリ」のひと言。それに、いったいどんな意味があるのかが、まったくわからない。そもそも祇園祭について、有名な祭ぐらいの知識しかない。山鉾が練り歩いている映像は見たことがある。でも、それを山鉾(やまぼこ)と呼ぶのも、ついさっき知ったところだ。祇園祭とカマキリが、どう結びつくのか。
 なぁ、教えてくれよ。長刀鉾の柱時計を見あげる。

 桂子が盆を提げてやって来た。
「コーヒー冷めてるんで、取り替えますね」
「泰郎さんは、どうする?」
「ああ、俺も、お替わりもらおか」
 桂子がドリップポットに手をかける。

「あのぉ。『祇園祭のカマキリ』って、何のことかわかりますか?」 
 晴樹はおそるおそる尋ねる。変なことを訊いているという自覚があった。

「あ、それは蟷螂山(とうろうやま)のことですね」
「そりゃあ、蟷螂山のことやな」
 コーヒーを注いでいた手をとめ答える桂子に、泰郎の声がかぶさる。
「トウロウヤマ?」
「それって、何っすか?」
 聞いたことのない単語に、晴樹はますます混乱する。

「蟷螂っていうのはな、カマキリのことや」
 泰郎が新聞をたたんでテーブルに置く。いつも持ち歩いている信玄袋から、メモと鉛筆を取り出す。泰郎にまかせておけば良いと思ったのだろう。桂子はそっとカウンターにもどった。
「こないな難しい字を書くねんけどな」
 泰郎がメモを一枚ちぎって、「蟷螂」と書く。
「これで、『とうろう』って読むんや」
「蟷螂山は、ちょっと変わった鉾でな。御所車の上に大きなカマキリが乗っとって、これが、からくりになってる。カマキリが鎌を振り上げて動くんや」
「カマキリのからくり! そんなのが、あるんだ」
 メカ好きの晴樹が、身を乗り出す。
「からくりの鉾は、蟷螂山だけ。人気の鉾や」
「見てみたいなぁ」
「見れるで」
 泰郎がにたりと笑う。
「一昨日から前祭(さきまつり)で、山鉾がそれぞれの町内に建っとる。今日は宵山やから、夜になったら、カマキリを動かすはずや」 
 ええときに来たなぁ、と泰郎が笑みを浮かべる。 

「鉾はそれぞれの町内のもんでな。蟷螂山は、四条西洞院(しじょうにしのとういん)の蟷螂山町の鉾なんや」
 泰郎がまた一枚メモをめくって、さらさらと地図を描く。
「八坂さんの前からまっすぐ延びてるのが四条通り。鴨川を越えて1本めの大きい通りが河原町。次が烏丸(からすま)通りや。ほんで、烏丸から3本めの南北の細い通りが西洞院。蟷螂山町は、ここや」
「ここに行くと、カマキリの鉾が見れる」
 そこまで描くと鉛筆を置いて、泰郎はコーヒーをひと口すする。それから、おもむろに晴樹を見つめる。

「あんな。こっからは、俺の好奇心や。せやから無理に答えんでも、ええ。話したくないことは、話さんでええねんで」
 念を押してから、泰郎は語りかける。
「どっか遠くからバイクに乗って来たんやろ」
「えっ、なんでわかるんすか?」
 晴樹の足もとを指さす。
「夏の暑い日に編みあげブーツなんか履いとったら、ライダーブーツかなと思うわ」
「桂ちゃんが、遠いところからようこそ、言うとったやろ」
「あ、そうすね。茨城から夜通し走ってきました」
 へへ、と晴樹が頭を掻きながら答える。
「茨城か。また、えらい遠いな」
 泰郎があごを撫でながら、晴樹を見る。
「そんな遠いところの人の夢に、なんで蟷螂山が出てきたんやろ、思っただけや。気にせんでええ」
 泰郎は新聞をつかんで立ちあがろうとする。
 晴樹がカップを手にしたまま、泰郎を見あげる。
「元カノが‥。5年つきあった彼女が、京都の子だったんです」
「彼女と別れた東京駅の場面を見ました」
 泰郎はあげかけた腰を、籐の椅子におろした。

 後から思い返せば、なぜ泰郎にあそこまで話したのかわからない。気づくと、晴樹は夢中になって自分の身の上を語っていた。泰郎は、ときどき「そうか」とか「せやったんか」とか相槌を打つくらいで、ぽつりぽつりと語る晴樹の話に割って入ってこようとはせず、ただ静かに聴いていた。

「由真‥は、彼女の名前です。由真のことは‥‥本当に好きでした。彼女から別れを切り出されるまで、別れるなんて思いもしなかった」
「でも、矛盾してるんですけど。俺は由真と結婚することはできなかったんです、どうしても」
 晴樹はぐっと唇を結ぶ。

 ちり、ちりん。
 風が首筋をなでる。

 カチ、コチッ。カチ、コチッ。
 時を刻む時計のリズムだけがこだまする。
 沈黙がカフェを満たす。

「よくよく考えたら、こんな自分勝手なずるい男いませんよね」
 晴樹は膝に置いた両のこぶしでジーパンを握りしめる。
 泰郎は籐の椅子に背中を預け、何も言わない。

 ちりん、ちりん。
 テーブルのメモがぱたぱたとめくれる。

「俺、養子なんすよ。おふくろがシングルマザーで俺を産んで。実の父は知りません。俺が小学1年のとき、おふくろは乳がんで亡くなりました」
「子どものいなかった伯父夫婦が、俺を引き取ってくれて。それが今の両親です」
「親父は忙しい仕事のあいまを縫って、キャッチボールしてくれたり。夏休みの自由研究にもつきあってくれて。父親という存在がはじめてだったから、頼もしくてうれしかった」
 晴樹は息をついて、コーヒーをひと口流し込む。
 カップを置くと、また、話を続けた。

「親父は茨城で、大手食品会社の下請け工場を経営してるんです」
「本社は水戸にあるんですけど、日立とつくばに支店があって。まあ、そこそこの規模です。でも、下請けだから景気の波をかぶりやすい」
「俺が高校のときに、やばくなったことがあって。高校辞めて会社を手伝うっていうと、張り倒されました。『ちゃんと勉強して、大学行け』て怒鳴られて。親父が手をあげたのは、後にもさきにも、この一度きりです」
 あんときは、痛かったなぁ。思わず尻もちついたもんな。左の頬をさすりながら思い出す。

「そのとき心に誓ったんです。早く一人前になって会社を助ける。結婚は会社のために、見合いでするって」
「それが、育ててくれた両親に俺ができる唯一のことだ、と信じてました。ひとりよがりの考えに、がんじがらめになってた」
 晴樹は深いため息をついて、コーヒーに顔を映す。
 
「俺の思い込みに、由真を巻き込んだんです」
「東京の大学を卒業して、親父の会社の取引先の食品会社に就職しました。30になったら茨城に帰って会社を継ぐつもりで。でも、商品開発の仕事がおもしろくなってきて、迷っているときに由真と出会ったんです」
「由真とつきあい始めたのをいいことに、茨城にも帰らず。由真と結婚するでもなく。ずるずると5年も結論を先送りにしてました」
「京都に帰って見合いするって、由真から別れを切り出されたとき。俺には彼女を引き留める資格なんてなかった」

 東京駅で新幹線が走り去るのを見送ったあと、自分が情けなくて腹立たしくて涙がとまらなかった。常磐線で水戸の実家に戻る途中、雨も降ってないのに、窓から見える景色が霧がかかったように霞んで見えた。

 思い出したら、また‥。くそっ、涙腺がゆるくなったかな。
 泰郎に気づかれぬよう、晴樹は天井をあおぐ。歳月に磨かれ烏羽玉(うばたま)の艶をまとう太い梁が、高い天井を支えている。ああ、俺はいつになったら、あんなふうになれるのか。涙を鼻の奥に流し込むと、視線を降ろして長刀鉾の柱時計をとらえた。

「たぶん、由真さんは蟷螂山町におるで」
「祭の今やったら、会所も開いとるはずやから、会えるんとちゃうか」
 柱時計を見据えて不動の晴樹に、泰郎が世間話でもする気軽さで言う。
「俺は由真とは‥会うつもりは‥」
 視線を伏せて口ごもる。
「なんでや」
「会う資格が‥‥ないから」
 ふ――っと、泰郎はわざと大げさに息をつく。
「引き留める資格とか、会う資格とか、言うてるけど。資格って、なんや。そないに大事なもんか」
「人に会うのに、免許証がいるんか。証明書がいるんか。ちゃうやろ」
 晴樹が驚いたように顔をあげる。
 泰郎は凪いだ海のような笑みを浮かべていた。

「蟷螂山には、なんでカマキリが乗ってると思う?」
 晴樹が首を振る。
「『蟷螂の斧』っていう故事があるんや」
「コジ?」
「故事いうのは、中国のことわざみたいなもんや」
「一匹のカマキリが、じぶんの何百倍も大きな王の車に轢かれそうになったとき、鎌を振り上げて威嚇しよった。それを見た王は、カマキリの勇気に敬意をはらって迂回させたそうや」
「強いものにも恐れず立ち向かうのを『蟷螂の斧』いうんや」

「今の蟷螂山町のあたりに、四条家のお公家さんが住んではってな。当時は南北朝の時代や。そのお公家さんが、のちの2代将軍の足利義詮(よしあきら)に、ひるむことなく戦ったそうや」
「その勇気を『蟷螂の斧』のようやと讃えて、四条家の御所車の上にカマキリの置物を乗せたんが始まりや、いわれてる」

 泰郎はひと息ついて、コーヒーカップを持ち上げ、湯気をゆらす。
「ごちゃごちゃ言うてんと、当たって砕けて来たら、ええ」

「でも‥。由真は5年前に見合い結婚してて。ダンナも、たぶん、子どももいる。そんなところに、俺が会いに行っても迷惑なだけで‥」
 晴樹は、まだ、もぞもぞと言い訳をさがす。
「『あんたの顔なんか見とうもなかった、帰って!』言われたら、バイク飛ばして茨城に帰ったらええだけやろ」
 泰郎がこともなげに一蹴する。
 あまりの単純明快さに、晴樹は目を白黒させる。
「そっかぁ。そっすね。バイクで帰ったらいいんだ」
 そっかぁ、そっかぁ。何度も確かめるようにうなずく。

「時のコーヒーを飲んで、ほんで、蟷螂山のことに気づいたんやで。時計が会いに行け、言うてんねん。由真ちゃんの残したサインやろ」
 泰郎は長刀鉾の柱時計に、なぁ、と同意を求める。

 コンチキチン、コンチキチン。コンチキチン。
 鼓舞するように囃子たてる。

 泰郎が腰をあげ、晴樹の肩をぽんと叩く。
 つられて晴樹も立ちあがり、長刀鉾の柱時計を見据えて「ありがとう」とつぶやく。ちゃんとケリをつけて来るわ。

 土間にライダーブーツの音を響かせ、あわてて泰郎の背を追う。
 入口の格子戸の脇で、泰郎と桂子が待っていた。

 晴樹はふたりの前でブーツの踵を揃えると、きっちり90度腰を折って頭を下げた。
「ありがとうございました」
「あ、こういうとき、京都弁ではどう言うんでしたっけ」
 晴樹は半分腰をあげ、うわ目遣いで泰郎に訊く。
「おおきに、や」
 泰郎がにたりと笑いながら言う。
「おおきに、ありがとうございました」
 野球部の高校生のように声を張りあげて、直角の礼をする。
「こちらこそ。おおきに。またのお越しをお待ちしています」
 桂子がえくぼを浮かべて、やわらかく微笑む。

 藤色の麻の長い暖簾が風に揺れている。晴樹はそれを右手でそっとあげて外に出た。
 刺すような強い陽ざしに、思わず目を細める。隣家の樫の梢で蝉が短い命を主張して鳴いている。熱気がゆらりと足もとから上がってくる。振り返ると、軒へと蔓を伸ばす朝顔がまっ白な大輪の花をゆらしていた。

「桂ちゃん、俺も仕事にもどるわ」
 晴樹を追って店を出た泰郎と、並んで表の格子戸をくぐる。
「俺は左や。清水さんの駐車場は右やから、ここでな」
「グッラック」
 泰郎が晴樹の顔の前で親指を立てると、「ほな、な」と手をふり、通りを南へ向かって歩き去る。その背が見えなくなるまで、晴樹は見送った。


(to be continued)

「後編・祇園祭」に続く→



本作の主人公、松尾晴樹が脇役として登場する、さわきゆりさんの『不器用たちのやさしい風』も、あわせてお愉しみください。

https://note.com/589sunflower/m/me08a78c52363


この記事が参加している募集

#この街がすき

43,708件

サポートをいただけたら、勇気と元気がわいて、 これほどウレシイことはありません♡