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『オールド・クロック・カフェ』5杯め「糺の天秤」(4)

「糺の天秤」(4)を操作を誤って削除してしまい、再掲載いたします。
昨日、スキやコメントをいただいた皆様、たいへん申し訳ございません。
心よりお詫び申し上げます。

deko

第1話は、こちらから、どうぞ。
前話(3)は、こちらから、どうぞ。


<あらすじ>
宇治市役所市民税課係長の正孝は、遅めのランチをとろうと『オールド・クロック・カフェ』をめざす。その途中で、八坂の塔の階段下でうずくまっている老女を見つけ、カフェへと運ぶ。
澄と名乗る老女はなぜか正孝のことを「ただすさん」と呼ぶ。その澄に七番の柱時計が鳴った。時計は三時四十五分を指している。澄は「時のコーヒー」を飲み、許婚の徳光糺と出征前に糺の森に出かけ、天秤を預かったことを思い出した。

<登場人物>
桂子‥‥‥‥カフェ店主
時任正孝‥‥宇治市役所市民税課係長
原田澄‥‥‥正孝が助けた老女
徳光糺‥‥‥澄の元許婚
伊藤直美‥‥澄の孫 

* * * Treasure Memory * * *

「糺さんにうてきました」
 澄は目覚めると向かい席の正孝と目があった。黒縁眼鏡の奥の細い目。この人は、あの日の糺さんにほんまによう似てはる。
「糺さんのことを思い出さはったんですか」
 澄はうなずき、
「糺さんはうちの許婚いいなずけでした」
 今見た記憶について語りはじめた。
 つかえながらも訥々と語る澄の声に、時を刻む時計の音が和する。紅葉がひそりと落ちるように澄の言の葉が降り積もる。
 時のコーヒーが見せた光景を語り終えると、澄は正孝を見つめぽつりとこぼした。
「それやのに、うちは‥‥」
 澄はぐっと思いを飲み込む。
「糺さんから預かった天秤をどこにやったか思い出せんのどす」
 正孝はなんと返したらいいかわからず口をつぐむ。
 澄はほどけた記憶の縁から数珠つなぎで思い出したことを語りはじめた。

 翌晩、澄の父が通信局の仕事から戻る時間をみはからって糺はやってきた。
 灯火管制が敷かれて仄暗い座敷に、糺の姿がぼうと浮きあがる。
 昨日とは打って変わって無口な糺に戻っていた。「お預かりした天秤は茶箱に入れて、たいせつにしまってます」と言っても、ああ、と返ってくるくらいで、あれこれ話かけても芳しい反応がなかった。
 父が座敷に現れると、糺はすぐさま両手をつき頭をさげる。
「お願いがあってまいりました。勝手ながら、澄さんとの婚約を白紙に戻していただけないでしょうか」
 え‥‥澄は聞きまちがえたかと思った。
「なんで、うちはお帰りにならはるのを‥‥待って」
 混乱して言葉が喉でつっかえる。それでも言いつのろうとする澄を父は手で制し、畳に頭を擦りつけたまま微動だにしない糺をしばし見つめる。
「糺君、すまぬ。君の深慮に感謝し、謹んで婚約の解消をお受けする」
 父も両手をついてこうべを垂れた。ひしゃげた蛙のように這いつくばる不動の二人を前に、澄は畳に突っ伏して泣き崩れ、糺がいつ帰ったのかも気づかなかった。

 婚約が解消されても、意地みたいになって下鴨さんへ三日を空けずにお参りに通いました。手紙もぎょうさん書きました。けど、書いても書いても、ただの一通も返信はありませんでした。糺さんの写真を胸に抱いて、恋焦がれて苦しうて苦しうて。糺さんがおらんようになってから、うちはようやく糺さんに恋したんやと思います。手が届かんようになってはじめて。恋いうのはおかしなもんどすな。
 糺さんが出征しはって一年になるちょっと前に終戦を迎えました。うれしかった。これできっとお嫁にいけると。けど、糺さんは三月みつき経っても、半年経っても復員しはらへん。きりきりしながら待ち続けました。
 一年を過ぎたころに、父から原田の家に嫁ぐようにいわれました。今とはちごうて、家長である父のめいは絶対どした。うちも待つことに疲れきってたんやと思います。せやから、諦めを背負って云われるがままに嫁いだんどす。
 夫の誠二郎は、無口な糺さんとは正反対の明るい人で、からっぽのうちの心を春風みたいに撫でてくれました。すぐに長男を授かって。長女と次女も生れて。子育てにせわしい日々を送るうちに糺さんのことは、時の波にさらわれすーっと消えてしもて思い出すいとまもなかった。忘れよう思うて忘れたわけではなかったけど。仮にも許婚いいなずけやったお人を忘れてたいうんは‥‥どっかで無意識に記憶に鍵をかけてたんやろね。
 夫とは恋焦がれて一緒になったんではないし、照る日もあれば陰る日もありましたえ、けどおおむね結婚生活は幸せやった。せやから、なんで今になって糺さんのことを。それに、あの天秤をどないしたんか。あれを返せということやろか。
 澄はうっすらと涙を浮かべる。
 それは、正孝も思った。澄の結婚生活が幸せだったのなら、なんで古傷を掘り返さなあかんのかと。二本の木が絡まった七番の時計を見あげる。正孝は澄に時のコーヒーを薦めんかったら良かったんやろかと思い始めていた。

「おばあちゃん、迎えに来たよ」
 からからから。
 格子戸の音を立てて明るい声が入ってきた。澄の孫の直美だ。
 うわぁ、と素直な驚嘆が感嘆符つきでもれ、店内の柱時計を見回す。
「なにこれ、すごい!」
 陽が射したわけでもないのに、店内がぱあっと明るくなった気がした。
 はしゃぎたてるのでも、派手な格好でもなく、どちらかというと楚々としている。けれど、そこに佇んでいるだけで周囲の空気が明るくなったように思え、正孝は眼鏡の奥の目をこする。
「えっ、糺さん?」
 目が合った正孝に直美が驚き、テーブルまで足早に近づく。
「直ちゃん、あんたなんで糺さんを知ってるの?」
 直美の反応に、澄のほうが驚く。
「それより。おばあちゃん、なんで泣いてるん?」と、かがんで澄の頬の皺にとまっている涙をハンカチで拭う。
 正孝は立ち上がって名刺を取り出し直角に頭をさげる。
「電話させてもろた時任正孝です」
「おばあちゃんを助けていただいて、ありがとうございます」
 正孝をまねて直美も直角に頭をさげる。
「澄さんの涙のわけは、ぼくが説明します」
 澄を八坂の塔の階段で見つけたくだりからはじまり、澄が時のコーヒーで見た記憶やそこから思い出した昔日のあらましを要点を押さえ話した。糺から預かった天秤をどこにやったか思い出せず、澄は涙しているのだと。
 正孝は居ずまいをただし、深々と頭をさげる。
「ぼくが澄さんに時のコーヒーを薦めてしまったために、古傷を掘り返すようなことになって申し訳ありませんでした」
 顔をあげた正孝に、直美がにこりと微笑む。
「その天秤、うちが持ってます」
「えっ!」
 澄と正孝が同時に声をあげ、正孝は思わず身を乗り出し、膝をテーブルで強打した。
「なんで、直ちゃんが」
 澄の驚愕に直美が、ごめん、おばあちゃん、と謝る。
「三年前やったかな。おばあちゃんの妹の、ほら、里子大叔母ちゃんって山科におるやろ。あの人から渡された。家の整理をして出てきたんやって」
 それは小ぶりの茶箱に収まっていた。
 蓋を開けると、黄色い布に包まれた何かと、封筒とセピア色の写真が入っていた。布の下から現れたのは、鈍い飴色に光る真鍮の天秤だった。祖母が嫁ぐ前に、妹である大叔母に預けたものだという。
 祖母には幼いころから許婚いいなずけがいたのだと初めて知った。その人は終戦後もなかなか復員されなかったため、祖母は原田の家に嫁いだのだと。
「お姉ちゃんはね、糺さんが復員されるのをずっと待ってはったんよ。せやけど、父さん、直ちゃんからしたらひいおじいちゃんがね、勝手に縁談をまとめてしもて」
「糺さんいうのは、この写真の人」
 褪色した写真には、厚い黒縁眼鏡をかけて口を真一文字に結んだ人が写っていた。
 直美はあらためて向かい席の正孝の顔をまじまじと見つめる。
「写真の糺さんに‥‥時任さんが似てはるんです」
 形の良いアーモンドアイを丸くしていう。
「そんなに似てますか」
「眼鏡の印象が強いだけかもしれませんけど」
 直美はちょっと首をかしげて笑う。
「大叔母ちゃまはね、はじめ、おばあちゃんに返そうと思ったんやて」
 でもね、と直美は続ける。
「おじいちゃんの看病でたいへんな時期やったから。おばあちゃんの心を揺らしたくなかったそうよ」

 祖母は嫁ぐ前日に里子に茶箱を渡したのだという。
 ――嫁ぎ先に元婚約者にまつわるもんを持っていくわけにはいかん。糺さんへの気持ちは置いてく。せやけどこれは糺さんの大事なもんなん。悪いけど預かってもらえんやろか。
 嫁ぐ姉の覚悟に里子はうなずくことしかできなかった。その後、姉は三人の子に恵まれ幸せな家庭を築いたため、里子は茶箱の存在をすっかり忘れていたらしい。
「お母さんに渡そうかとも考えはったみたい。でも、母親に実は好きな人がいてましたなんて、ええ気せんやろうと思たんやって。それで、孫の私に」
 いまさら返しても、と思ったと大叔母はいう。
 ――お義兄にいさんとはほんまに仲のええ夫婦やったからね。せやけど、お姉ちゃんが糺さんに恋してはったんも幻やない。うちの棺桶にまちごうて入れられてもあかんやろ。どうするかは、直ちゃん、あんたに託すわ。やっかいなこと押し付けて、かんにんえ。

「そんなわけで、今うちが持ってる」
 澄が直美の手をとって、ありがとう、ありがとうと押しいだく。
「糺さんは復員されなかった、いうことやろか」
 正孝がひとり言をつぶやき思案する。
 それを耳にした直美は壁の柱時計たちをぐるりと見まわし「もう時効やし、いいかな」とぽつりとつぶやいて、澄、正孝と交互に視線をすえる。
 そうして、ふううっと、ひとつ深呼吸して自らを鼓舞すると、
「糺さんは‥‥おばあちゃんが嫁いだ三か月後に復員されたそうです」
 静かに事実をうちあけた。
「えっ!」
 澄も正孝も聞き間違えたのかと思った。
「せやけど、ひいおじいちゃんが、『澄には絶対に言うな、糺君の話は今後いっさいするな』て箝口令を敷いたんやって。知らんかったんは、おばあちゃんだけみたい」
 なんということ。澄は思考まで絶句する。けっきょくお父さんに操られとったんやろか、うちの人生は。脳内が白く茫とかすむ。
「それやったら、なんで里子さんは糺さんが復員されたときに天秤を返さなかったんでしょう」
 正孝が理詰めで問う。
「うちも訊きました」
 ――お姉ちゃんがあんなに待ってた糺さんが、嫁ぐのと入れ違いで帰ってきはって。その運命に茫然としてしもて。天秤のことまで思いが至らんかったんよ。
「大叔母は当時十五歳で。動転して頭が回らんかった、いうてました」
 里ちゃん、ごめん。糺さん、かんにん。
 涙が澄の頬の皺を縫って流れる。
 あと三か月待ってたら、糺さんとの未来があったんやろか。
 誠二郎さんと笑いながら積み重ねてきた時間は、確かな重みをもって澄の掌に今もある。平凡で愛しい日々。それらを手放す‥‥できるやろか。澄は頭をふる。天秤の片皿に乗せるとしたら、どない考えても誠二郎と歩んできた現実なのだと思う。
「その天秤と写真、ぼくも見させてもらうわけにはいきませんか」
 直美は澄の横顔をちらりとうかがう。
「ええ。うちからもお願いします。いっしょに見てくれはりますか。糺さんによう似た‥‥ええっと、なんてお名前どしたっけ」
「正孝ですけど。糺さんでも、いいですよ」
「ほな、糺さんにいてもろたほうが、うちは心強い」
 澄は正孝に頭をさげ、静かに顔をあげると七番の柱時計をながめる。
「忘れ物は‥‥記憶やいうてはりましたなあ。けど、うちは記憶だけやのうて、ほんまに忘れ物をしてたんどすな。気づかせてくれて、おおきに」
 澄は時計に向かって深々と頭をさげる。
 ぼーん、ぼーん、ぼーん。
 二本の木が文字盤を支えている柱時計は、連理の賢木さかきを思い起こさせることに澄は気づいた。

(to be continued)

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