『荒地の家族』を読みました
芥川賞、直木賞が発表になって、これなら読めそうだ、読んでみたいと思って買ったのが佐藤厚志著「荒地の家族」です。
(小川哲さんのは分厚くて、読めそうになかった)
先日読み終わりました。その感想を書いてみます。
正直読んでいる間はしんどかったです。震災とは書かずに「災厄」津波と書かずに「海が膨張した」と書いています。でも、中身は震災で、何年かはたっているものの、どうしようもない寂寥感があります。
悲しいことも起こります。まさに「荒」という字が迫ってくる気がしました。
地は荒れているけど、心もざらざらしているような。
生きられなかった人たちは無念だけど、
生きている人たちも胸に災厄を抱えて生きている。
海が膨張して何もかもさらっていって、何もなくなったところにひたすら長い防波堤ができ、更地ができ、電信柱が立つ。私、この光景見ました。震災を訪ねる旅で。だから、読みながら目に浮かび胸に迫りました。
でも、そんなかで私が救いと思ったのは、主人公の祐治の肉体です。
植木の仕事は身体を使う。
穴を掘る。石を積む。身体を酷使する。筋肉が躍動する。
例えば出だしに、仕事の描写があります。「肩の筋肉が熱を持って膨れ、破裂しそうだった」あとからも作業の描写が出てきます。祐治は好んでこの仕事をしているわけではない。でも、やっていくしかない。
そこが私には印象的でした。
ひたすらに身体を使って働く。そうするしかないのだけど、それがやがて将来への光になる。そんな気がしたのです。なぜか。
本の帯には、「止むことのない渇き痛み」とありました。裏には「時間は一方向に流れ、一見停止しているように見える光景も絶え間なく興亡し、めまぐるしく動き続けている」とありました。
そうですね。人は、何があったって生きていく。生きていくしかない。泥臭くとも。悲しくても。不器用でも。
そうして、暗い中にも光を見いだしながら生きていく。
東北から目を離さないでいこう。そう思いました。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?