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文化とはたしかに家が建つことだ

批評の「批」は、批判の「批」である。だから対象の悪口であれ、単なる感想でしかない印象批評であれ、批評とは文化活動の一つだ。そのような風潮が戦争の前後をはさみ蔓延していたのを憂い、小林秀雄はこう指摘する。

文化活動とは、一軒でもいい、確かに家が建つという事だ。木造建築でもいい。思想建築でもいいが、ともかく精神の刻印を打たれたある現実の形が創り出されるという事だ。そういう特殊な物を作り出す勤労である。手仕事である。

『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p166

前回紹介した批評家の加藤典洋と小林秀雄は、徒手空拳で批評に臨んだり、群れたりしないところが共通している一方で、加藤の比喩は印象的だという評価があるが、小林秀雄の比喩はそれほどでもない。比喩というのは、何をたとえているか、何にたとえているか、その共通点は何かという3つが書き手と読み手のお互いに理解できて初めて成り立つ。小林秀雄の比喩は、その3点がちょっとつかみにくい。

以前も触れた、これも小林秀雄の「講演文学」である『文化について』という文章がある。Cultureを日本人は「文化」と翻訳し、同じ社会における行動や生活の様式を指すが、中国で「文化」は武力ではなく人々を教化するという意味だ。西洋人にとってCultureは畑を耕して物を造る栽培という意味だという。

そこで、小林秀雄はドイツの哲学者であるゲオルク・ジンメルの説を紹介する。林檎りんごの木を人間が工夫しながら育て、立派な林檎の実を成らすことに成功すれば、その林檎の木はCultureを持っている。しかし、林檎の木を伐採し、その材木で家を建てたり、木造の製品をつくったとしても、Cultureを持っているとはいえない。栽培ではないからだ。

林檎自身にもともと立派な実を成らす素質があった。本来林檎の素質にある、そういう可能性を、人間の知識によって、人間の努力よって実現させた。そういう場合に林檎の木を栽培したという。だが林檎の木自身に下駄になる素質はない。勝手に人間が下駄を造ってしまった。林檎の木自身ちっとも知らないことです。そいういう意味で西洋人はカルチュアという言葉を使っている。

『文化について』「小林秀雄全作品」第17集p86

これについて小林秀雄は『私の人生観』においてもすでに、前者がcultureであり、後者が「技術」にあたるフランス語のtechiqueであると指摘している。

このようなCultureという言葉の本質を理解していれば、「文化」という訳語がたとえ不本意であったとしても、「文化活動とは、確かに家が建つということだ」という比喩がつかめる。批評が文化ならば、その人には立派な批評を為すための精神が素質としてあり、知識や努力によって現実の形、すなわち批評を創り上げるだろう。しかし、そんな素質としての精神も備わっておらず、何の工夫もせずに「批評」しても、文化とは言えない。単なるtechiqueであり、小林秀雄は「加工」だという。

毎日、こうして文章を書いている身としては、まさに身が引き締まる思いだ。

(つづく)

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