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「数」を過信するな

「美の問題」として小林秀雄がまず俎上に載せたのは、「現代の風潮を最もよく反映し、従って一番成功している芸術」としての小説である。分析、観察、解釈、意見、主義といったものが小説にひしめきあっていて、これで文学といえるのだろうかと指摘する。

主観的で感受性を重んじる浪漫主義文学から、ありのままの自然を描写するはずの自然主義文学が起ったのはよい。しかし審美的な性質から離れてしまい、客観的事実、実証的事実を重んじるばかりに、科学による計量的性質や合理的知識が小説にも浸透してしまったことを小林秀雄は憂いている。

科学に対する懸念は『私の人生観』においても二度目であり、これに限らず小林秀雄の作品や講演でも繰り返されている。もちろん、科学そのものを否定しているわけではない。むしろ、尊重している。「科学とは極めて厳格に構成された学問であり、仮説と験証との間を非常な忍耐力をもって、往ったり来たりする勤労」(『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p169)と先にも述べているぐらいだ。

では、科学の何を小林秀雄は憂うのか。「科学というものは、計量できる経験だけに絞った」(「講義 信じることと知ること」『学生との対話』p37)というように、科学イコール計量、つまり「数」と「量」による裏付けを、批評や美術、歴史に軽々しく採り入れることを案じているのではないか。

科学によって様々な事物の計量的性質が明らかにされて行くにつれ、又、この事によって裏付けられた生活上至便ないろいろな技術の発達を享楽するにつれ、そういう事物の性質を、客観的事実の名の下に過信する風潮は、深く人々の心に染み込んだ。(中略)これの扱い方、これに対する態度、これに関して人々はどんな心理的通念を、知らず知らずのうちに育てているか、そちらの方を言うのである。

『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p175

「全米100万人が泣いた」「今や、日本国民の10人に1人が観ている」「1年で○○冊読書する私のおすすめ」といったキャッチコピーが胡散臭いのは常識のこと、新型コロナウイルスの感染率や重症度、Twitterの「いいね!」やnoteの「スキ!」にいたるまで、いまやあらゆる事物の評価を数字で裏付け、客観的事実とみなしている。

実のところ、数字があふれているばかりに、われわれ一人ひとりが、それをどのように評価すればいいのか、とても困惑している。科学的にその数字は事実かもしれない。しかし、その数字を科学的に評価できるほどの知見を自分が持ち合わせているとは限らない。ましてや、ここで小林秀雄が話題とした「美の問題」について、果して数字で判断できるものなのか。そこに疑問を呈しているようにおもう。

もし科学だけがあって、科学的思想などという滑稽なものが一切消え失せたら、どんなにさばさばして愉快であろうか、と。合理的世界観という、科学という学問が必要とする前提を、人生観に盗用なぞしなければいいわけだ。科学を容認し、その確実な成果を利用している限り、理性はその分を守って健全だろう。

『偶像崇拝』「小林秀雄全作品」第18集p199

小説や書籍一般においても、「売れている本」が良い本なのか、本当に良い本とは何かといった議論は尽きない。小林秀雄に尋ねてみたいものだ。ドストエフスキーやアラン、ベルクソンなどを熟読玩味した小林秀雄のことだから「再読に値するものが良い本である」と答えるのではないかと勝手に想像している。

(つづく)

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