もはや大政治家は出てこない
ベルクソンとは何者か。
主要著書である『意識に直接与えられたものについての試論─時間と自由』『物質と記憶』『創造的進化』『道徳と宗教の二つの源泉』の4点を刊行している筑摩書房の紹介文では、「旧来の認識論の限界を超えるべく実証主義の手法を採り入れ、すべてを持続の相の下に捉え直し、直観によってこそ生きた現実が把握されるとする独自の経験論を確立。第一次大戦頃より政治的発言や活動も多く、1929年ノーベル文学賞を受賞」とある。
小林秀雄が『私の人生観』において「ベルグソンが、晩年の或る著述の中で、これからの世にも大芸術家、大科学者が生まれるかも知れないが、大政治家というものは、もう生れまい、と言っております」と語った部分は、ベルクソン73歳のときの著書『道徳と宗教の二つの源泉』にある。小林秀雄を敬愛する哲学者・池田晶子によれば、本書は「生物種としての人間が、にもかかわらず如何にして崇高なものへと高められ得るのか、その人類史的な回顧と展望」(『考える人 口伝西洋哲学史』)という内容だ。
大人物といえば、崇高な人格や個性を備え、仕事にもその影響を及ぼすものだ。しかし、こと政治の仕事については、国際化が進み、必要とされる正確な知識は膨大なものとなり、個人や専門家の手に余るようになった。そうなると、もはや政治に大人物は現れないのではないか。ベルクソンの著書から、そう小林秀雄は考えたのだ。
小林秀雄は手仕事が好きだ。自らを文士と呼び、『私の人生観』のような名講演をするにも関わらず、文章における表現を徹底した。また、青山二郎を師に耽溺した骨董や、ゴッホをはじめとする西洋絵画に夢中になったことなども含め、手仕事や職人の技が好きなのだろうと思う。
しかし、戦争は国民生活に多大な苦難を強いただけでなく、敗戦直後の東久邇宮稔彦首相は「軍官民、国民全体が徹底的に反省し懺悔しなければならぬ。一億総懺悔をすることがわが国再建の第一歩だ」と述べ、政治家の戦争責任をあいまいにし、国民の側にまで反省を求めたのだ。そこで戦争を賛美し煽った文化人や芸術家の一人として、小林秀雄が「戦犯」扱いされたのは、すでに述べたとおりだ。
ベルクソンも小林秀雄も、練達した「手仕事」をするような偉大な国家統治者、大政治家はもはや現れないと見ている。では、これからの政治は、政治家はどうなっていくのか。
(つづく)
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