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Lettersを論じる

「話が脇道にそれました」(「小林秀雄全作品」第17集p174L17)で始まるこの段落から、『私の人生観』は「第三部」に移る。

以前記したように、『私の人生観』は単行本の刊行前に、3つの異なった雑誌に分載されて発表された。それぞれ「私の人生観」「私は思う」「美の問題」というタイトルが付けられていたが、単行本や全集などでは、すべてがひと連なりの文章となっている。「第三部」というのは便宜的に称しただけだ。それでも、もし見出しをつけるならば、「美の問題」となるだろう。

「第一部」で小林秀雄は「観」のことばから思い浮かぶものとして仏教思想を挙げた。あくまでも「観法」を意味するものであるが、仏教においては、そこに審美的な色彩を帯びて、日本の文化に影響を与えたという話をした。そのうえで、「第三部」の冒頭で小林秀雄は「美の問題は、現代で不当に侮蔑されている問題の一つであって、侮蔑による誤解というものが避け難い様に思われる」と指摘する。誤解とは、どういうことだろうか。その一例として、現代で最も成功している芸術として小説を挙げる。

分析、観察、解釈、意見、主義、そういうものばかりが、雑然紛然とひしめき合っている。小説家が文学者の異名となるに順じて、詩という文学の故郷が忘れられて行く様に見えます。

『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p175

この一節だけでは、詩の単なる擁護論のように思う。たしかに「第二部」のおわりでは、オリンピック選手、とくに砲丸投げの選手を話題にして、小林秀雄による詩への憧憬を感じた。しかし、ここでは詩心を取り戻せばよいというものではない。

その前に、「文学」という言葉が何を意味するか。たとえば、大学の文学部がよく話題になる。というのは、文学部とは「文学」の学部であり、文学イコール小説なので、読書も好きではないし、そんなものを勉強したって就職につながらないから、どうでもいい。そんな声や考え方は、高校生のみならず、企業のトップであっても根強い。人文学軽視の発端である。

そのような人々は、文学部の英名を、Faculty of Literatureであると思っている。たしかに受験生に人気のある青山学院大学の文学部はそう称している。では、小林秀雄の母校である東京大学の文学部はどうだろう。もちろん、Faculty of Lettersである。京都大学や慶応義塾大学でも同様だ。むろんLiteratureであれLettersであれ、どちらも間違いではない。

英語のLetterという単語は、ラテン語のlitteraに端を発し、大きく分けると三つの意味があるという。一つめに文字、二つめに記録や文書、手紙など、文字で書かれたもの。三つめに、そんな文字や言葉で書かれたものから生み出されたり、学んだりできる教養や知識、または研究である。そこには詩も、小説も、評論も、批評も、歴史も含まれる。よって、いうなればFaculty of Literatureは「文学」部であり、Faculty of Lettersはいわば「文」学部である。

Letterの三つめの意味から、文学部には哲学科もあれば史学科もある。心理学科も心のありようを表すのであれば辻褄が合う。文学部だからといって文学だけが研究の対象ではない。さらには、Lettersといっても芸術や科学などの視点も欠かせない。これは、Faculty of Literatureと称しても実際には同じだ。

人間は、言葉なしでは思考ができない。冬の寒さや身体の痛みといった感覚でさえ、言葉によって認識している。時を超え、場所を超えて、言葉によって蓄積し、伝えてきた人間の叡知を学ぶところがFaculty of Lettersなのだろう。

そう考えると、インテリを嫌い抜き、戦後はアカデミックからは距離をとっていた小林秀雄は、文芸批評はもちろん、『モオツアルト』の音楽論、『ゴッホの手紙』の美術論や、詩も哲学も歴史も美学についても書くなど、まさにLettersを論じてきたのだ。

(つづく)

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