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反省する、信ずる、責任をとる

歴史は、上手に「思い出す」ことだ。その人物ならどう考えたか、どのような言葉を発したか、それが自分の内にありありと姿を現し、声が聞こえてくるまで、考える、想像する、思い出す。それを「歴史を知る」ことだと小林秀雄はいう。

『私の人生観』は講演録である。もし音声が残っていたならば、わずかに語気を荒げただろうところがある。

しかし、今日の様な批評時代になりますと、人々は自分の思いでさえ、批評意識によって、滅茶滅茶にしているのであります。戦に破れた事が、うまく思い出せないのである。その代り、過去の批判だとか精算だとかいう事が、盛んに言われる。これは思い出すことではない。批判とか精算とかの名の下に、要するに過去は別様であり得たであろうという風に過去を扱っているのです。

『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p162

この講演の行われる3年前、敗戦直後の1945(昭和20)年8月28日、東久邇宮稔彦首相は記者会見で「軍官民、国民全体が徹底的に反省し懺悔ざんげしなければならぬ。一億総懺悔をすることがわが国再建の第一歩だ」と述べた。戦争責任をあいまいにし、国民の側にまで反省させる発言をうけて、人々は戦争を賛美し煽った文化人や芸術家に対して、いわゆる「戦犯」探しが始まった。

翌1946(昭和21)年1月、小林秀雄は雑誌「近代文学」同人6名との座談会『コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで』に臨んだ。その内容は翌月に「近代文学」第2号に掲載されたが、文学や批評をテーマにしながらも、どこか小林秀雄のつるし上げのようにも感じる。

座談会で、同人に名を連ねる評論家の本多秋五は、第一声からして「小林さんの歴史感覚というものに疑問がある」と絡む。小林秀雄を批判的に論じる「小林秀雄論」を同誌に発表することを直前に控えた本多は、小林秀雄が戦争に対して、日本がこのような状態なのに戦争が正義かどうかと言うのはどうか、国民は黙って事態に処した、それが事変の特色だ、それを眺めているのが楽しい、あとは詰まらないといった発言をしたが、事変は必然だったのかと問いかけた。確認のような物言いだが、どこか挑発的にも聞こえる。それに対する小林秀雄の返答が、後々にも尾を引いた。

僕は政治的に無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。大事変がおわった時には、必ずしかくかくだったら事変はおこらなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論がおこる。必然というものに対する人間の復讐ふくしゅうだ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、それさえなければ、起らなかったか。どうも僕にはそんなお目出度めでたい歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性をもっと恐ろしいものと考えている。僕は無智だから反省なぞしない。利巧りこうな奴はたんと反省してみるがいいじゃないか。

『コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで(座談)』「小林秀雄全作品」第15集p34

一億総懺悔や文化人に対する「戦犯」探しに対する本音とも皮肉とも言えるこの発言は、小林秀雄の「開き直り」と解釈されることになり、さらなる批判も招いた。それが直接の原因ではないとされているが、同年8月、小林秀雄は明治大学教授を辞任している。

座談会「コメディ・リテレール」から3年、『私の人生観』の講演が行われた半年ほど後、戦艦大和の出港から沈没までを描いた士官の体験談であり戦記文学の書評において、小林秀雄は次のように語った。

 僕は、終戦間もなく、或る座談会で、僕は馬鹿だから反省なんぞしない、悧巧りこうな奴は勝手にたんと反省すればいいだろう、と放言した。今でも同じ放言をする用意はある。事態は一向かわらぬからである。
 反省とか精算とかいう名の下に、自分の過去を他人事の様に語る風潮は、いよいよ盛んだからである。そんなおしゃべりは、本当の反省とは関係がない。過去の玩弄がんろうである。これは敗戦そのものより悪い。個人の生命が持続している様に、文化という有機体の発展にも不連続というものはない。
 自分の過去を正直に語る為には、昨日も今日も掛けがえなく自分という一つの命が生きていることに就いての深い内的感覚を要する。従って、正直な経験談の出来ぬ人には、文化の批評も不可能である。

『吉田満の「戦艦大和の最期」』「小林秀雄全作品」第17集p92

座談会「コメディ・リテレール」においては、あくまでも放言であり、用意周到に行われた発言ではない。とはいえ、それは小林秀雄の本音であることには違いない。

戦の日の自分は、今日の平和時の同じ自分だ。二度と生きてみる事は、決して出来ぬ命の持続がある筈である。無智は、知ってみれば幻であったか。誤りは、正してみれば無意味であったか。実に子供らしい考えである。軽薄な進歩主義を生む、かような考えは、私達がその日その日を取返しがつかず生きているという事に関する、大事な或る内的感覚の欠如から来ているのであります。

『私の人生観』「小林秀雄全作品」第17集p162

単行本『私の人生観』が刊行された1949(昭和24)年10月の直前、座談会「コメディ・リテレール」で小林秀雄に絡んだ本多秋五は、やはり批判的に論じた自身初の著書『小林秀雄論』を出す。

そして座談会から28年後、CD化されているこの講義を聴くと、なぜか小林秀雄の「放言」を思い出す。

僕は信ずるということと、知るということについて、諸君に言いたいことがあります。信ずるということは、諸君が諸君流に信ずることです。知るということは、万人の如く知ることです。人間にはこの二つの道があるのです。知るということは、いつでも学問的に知ることです。僕は知っても、諸君は知らない、そんな知り方をしてはいけない。しかし、信ずるのは僕が信ずるのであって、諸君の信ずるところとは違うのです。(中略)信ずるということは、責任を取ることです。僕は間違って信ずるかも知れませんよ。万人の如く考えないのだから。僕は僕流に考えるんですから、勿論間違うこともあります。しかし、責任は取ります。それが信ずることなのです。

『講義 信ずることと知ること』「学生との対話」p50

(つづく)

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