すぐに分かるような経験は、大したことはない
まず経験を信じよ。信じるから疑うことができるのだ。その一方で、経験もせずに軽々しく信じるな。疑うことで、経験していない事実を覆い隠すな。信じるということは、責任を取ることだ。信じるという力を失うと、人間は責任を取らなくなるのだ。
小林秀雄は、あくまでも批評の精神を説いている。本を読まないでも本の批評をし、経験もしていないことを、理論で説き伏せようとする批評に苦言を呈している。『私の人生観』発表当時の文壇を憂いての発言だが、それから70年以上が経過した、いま眼の前にいる読者に向かって投げ掛けられた言葉としても、痛いくらいに伝わってくる。
経験するとは、現実を畏敬して受け止めることだ。経験すると、理論ではない、内的な感覚があるというのだ。これはいったい、どういうことなのか? そういうものなのか? 実は違ったものなのか? それが問いを立てるということであり、その一つが「疑う」ということだ。
経験を重んじ、内的感覚を抱くこと。それに対して後年、小林秀雄は別の角度から述べている。これは録音された小林秀雄の肉声も残っているから、実際に聴いてみると、なおさら強く響いてくる。
先日、小林秀雄の『私の人生観』を初めて読んだときに、夢中になってしまい、電車を降りるべき駅に気づかず、乗り過ごしてしまったという方の文章を読んだ。あまりの衝撃になんだかワケが分らずに、頭がぼーっとした状態で車内放送を聴いたら、かなり先まで乗り過ごしていたというのだ。慌てて次の駅で降りて引き返し、帰宅してから、もう一度読み直したという。
そうなのだ。この『私の人生観』との出会いは衝撃だった。そして、一読しただけでは何が何だか分らなかった。再読しても、分らない。これはいったい、どういうことなのか? そういうものなのか? なぜそういえるのか? 分らないから読むし、分りたいから読み返す。それは、小林秀雄が「歴史は、思い出すものだ」というのに似ている。そのプロセスとして、こんな文章を書いている。
小林秀雄を読むことは、小林秀雄を経験する、思い出すことなのだ。
(つづく)
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