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(7/11)「エチカの観点からする仮構作用のポジティブな使い方」〜スピノザ『知性改善論』ゼミ(@ソトのガクエン)レポート#9

みなさま、こんにちは、ソトのガクエンの小林です。

去る、7月11日(木)に実施されました、スピノザ『知性改善論』ゼミのレポートをお送りします。今回は、佐々木さんの提案により、2週間前よく分からないままにしてしまった、第56節の読解をもう一度試みてみましょうというところから始まりました。一旦、当該箇所を読み直し、参加者のみなさんの解釈がいくつか提案され吟味されたあと、佐々木さん自身の解釈が説明されました。詳細は割愛しますが、スピノザが仮構に関していくつか(三つ)あげている議論のうち、最後のものを「仮構することなしに虚構物(嘘、フィクション)を産出すること」と解釈すると、これは芸術作品を制作するときに芸術家が行なっていることではないだろうかと、佐々木さんが指摘されていたのがとても興味深く印象的でした。

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続く、第57節は、デカルトの蜜蝋の例を念頭において、スピノザが「仮構」と「注意の操作を伴う思考」を区別して論じている部分であると佐々木さんは指摘します。さらに、ここを起点に「注意」というタームが今後色々と展開されていくということでした。

ここまでの議論を踏まえて、皆さんからの質問や疑問、それに対する応答が交わされました。僕がした質問は、「方法の第一部」の冒頭で、精神を「偽なる観念、仮構された観念ならびに疑わしい観念を、真の観念と混同しないようにすること」を目的としていると書かれており、さらに第58節では、知解することが多いほど、仮構する力能は減じられる(物体の本性を知ったならば、無限に大きなハエを仮構することはできないとスピノザは述べています)というように、終始、仮構はネガティブなもの、退けられるべきものとされているという理解で良いでしょうかということでした。佐々木さんは、『知性改善論』における「方法」という観点ではその通りだが、『エチカ』ではむしろ、私たちは虚構からしか真理の探究を出発することができないので、倫理(エチカ)の観点からはポジティブなものとして捉え返されると言われていました。そして、この仮構作用を、想像力のうちに諸々のものを混乱した仕方で「すべてに同時に注意を向けること」で、諸事物間の共通点を認識することができるし(「同時的複数的観想」とスピノザ研究では呼ばれ重視されているそうです)、フロイトの「散漫な注意力」に類似するこれが、第一種認識から第二種認識への移行を可能にする条件となるという考えを述べておられました。


また、参加者の方より、本性(nature)を「ほんせい」と読んでいるけれど、これを「ほんしょう」と読まないのはなぜですかという質問があり、「確かに!」と思いました。確かに、哲学では本性は例外なく「ほんせい」と読みますが、考えてみると、また仏教用語としても「本来具わっている性質生まれつきの固有の性質」という意味のようなので、「ほんしょう」(本性を現したな!というように)でも良い気がします。これまで機械的に「ほんせい」を選んできました。なるほど…。

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さて、次回は、7月18日(木)22時からです。次回は、今回一旦読んだ52ページの第59〜61節の内容を吟味することから始めます。よろしくお願いいたします。



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ソトのガクエンの哲学思考ゼミにご参加いただきますと、月額制で、佐々木講師担当の古典ゼミだけでなく、基礎ゼミ(アンドレ・コント=スポンヴィル『哲学はこんなふうに』)、小林担当古典ゼミ(ルソー『社会契約論』)、シネマ読書会(ドゥルーズ『シネマ2』)、表現スキル思考ゼミ、大学院進学情報&原書ゼミにもご自由にご参加いただけます。ゼミメンバーであれば、これまでのゼミのアーカイブをすべてご覧いただけますし、専用Discordにて他のメンバーの方々とも交流していただけます。
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