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少しずつ、「男らしさ」から下りていく

うつ病になると、わかってくるものもあります。

いかに、自分が疲れているか。いかに、自分が観念に取り憑かれているか。いかに、組織はシステムの維持に固執しているか。いかに、社会が弱者に冷淡なのか。いかに、社会は自分の思うような、美しいものでないか。

その中で、自分の中でとっても大切な気づきがありました。それは、「いかに自分が『男らしさ』に固執しているか」ということでした。

「男らしさ」はつらいよ

まず、「男らしさ」とは何でしょうか。平たく言えば、「男」であることのパフォーマンスであると言えます。このパフォーマンスには、「強さ」に関わるものです。これは、「弱さ」の否定のために行われるパフォーマンスでもあります。イギリスのアーティストであり、女装をしていることでも知られているグレイソン・ペリーさんは以下のように述べています。

「・・・男性は、男性崇拝の力を与えているのは他の男だけだと思っているのだ。男性は筋肉や大型車やシャープなスーツは女性を惹きつけると主張するかもしれないが、実際のところ、それらはライバルの男性へのアピールだ。男性の男性性を評価できるのは、その努力の成果を理解できる者、つまり他の男性である。また、同じ成果をあげた男性が好ましい。
  ジェンダーはパフォーマティブであり、ほぼすべての人間は、支配的な二元システムの一員として見なされるために努力している--この考えは人を戸惑わさせる。ジェンダーに応じたパフォーマンスに慣れすぎているせいで、『我々はジェンダーをパフォーマンスしている』ということに一部の人は納得しないだろう。」(グレイソン・ペリー『男らしさの終焉』2019年)

これは、僕自身とてもわかる話です。「マウンティング」も一つの例でしょう。いかに他の男性より知的に優れているか。いかに自分自身の思うように場をコントロールするか。いわゆる「高学歴」コミュニティにいた僕は、自分自身このマインドセットに巻き込まれていたし、嫌な思いもしてしまっていました。このことは、わかりやすく、「自分がその場にいる誰よりも優れている」とアピールしているように思えてしまいます。

こんなパフォーマンスもありました。いかに自分は恋愛をしているか。いかに自分は女性と関係を持っているか。どのようにして女性にアプローチしたか。この言葉は、「恋愛を楽しんでいる」という純粋な楽しみというよりも、「いかに自分が性的に魅力的か」をアピールしているものに思えてしまいます。僕が「女性のことを考えて、色々考えましょう」と言ってみても、「恋愛を知らないんだね」「負け犬の遠吠えにしか聞こえない」と一蹴されてしまっていました。

「男らしさ」とは、結局は「自分は優れている/強い/賢い」という、自己の優位性を示しつづけることであります。それはまた、「いかに自分は劣っている/弱い/愚か」な存在ではないのかということを示していることでもあります。そのために、他者を陥れたり、貶したり、屈服させようとする。これが「競争」であり、そこから破れるものは、「男らしくない、弱い存在」として見捨てられるのです。

この競争、めっちゃしんどい。だって「別に弱くたっていいし・・・」という言葉は、「男らしさ」からの排除とつながるから。そこにいることってそんなに大切? と今の僕なら言えます。しかし、そこにいることしか知らなかった僕は、なんとなく怖かったです。もしそこから外れたら、「この世界にいる価値のない、『普通』の男でない存在」になってしまう。この恐怖を、意識的にも無意識的にも、持っていました。

余談ですが、僕が一番苦手なコミュニケーションは、「下ネタ」です。「みんな、性的な関心があるでしょ?」という押し付けに感じられるからです。何より、女性をモノとして見ているような言葉が、とっても気持ち悪いです。僕が恋愛に否定的な感情を持つ理由でもあります。男性のみなさん、ホント、やめてください。

「男らしさ」から下りようとしているが・・・

さて、そんな気持ちがありつつ、「男らしさ」から下りることに躊躇っているところで、一つの出来事がありました。それは、うつ病になったことです。

これがなぜ大きかったのかというと、僕が「普通でなくなった」からです。ここで「普通で亡くなった」というのは、「うつ病患者が普通ではない」ということを言おうとしているのではなく、「普通=健康=強い」という、わりと社会で当たり前に受け入れられている構図から、うまいこと逃れられたということです。この構図もなかなか自分の中では苦しかったもので、「普通に働ける人」という日本社会で一番美徳とされているっぽいところが、自分の中で抑圧となっていました。

うつ病になったと誰かに伝えると言われることが、「うつ病なんてみんな普通になるものだしね」という言葉です。なんとなく救われる言葉でもありますが、同時に「うつ病患者」を自分のわかる範囲に置く行為にも見えてしまいます。もっと言えば、「わかっている」側に自分を置く行為にもなります。一見すると、これは相手をケアしているように見えて、実は自分の見ている「普通の世界」に置きたいという、「普通の人」の試みにもなりがちです。『ずるい言葉』の著者である森山至貴さんは、以下のようなことを言っています。

「『父親が無職』のように、相手がなんらかの意味で困った状況におちいっていると思われる場合、私たちはうっかり善意から、わかっていると言って相手を安心させようとすることはないでしょうか? 私は理解のない人間ではないから心配ないよ、と言ってあげたいことはあるでしょうし、その気持ちは立派だと思います。
 でも、善意であろうと立派であろうと、それが決めつけであれば逆効果です。『知った気になっているけれど、この人はなにもわかってないな』と相手が思ったら、身がまえて接するか、距離を置くのも当然ではないでしょうか。だって、その人の善意は、なんの事実にも支えられておらず、自分を助けたり支えたりする役には立たない(のに役に立つ気満々で接してくる)のですから。」(森山至貴『10代から知っておきたい あなたを閉じ込める「ずるい言葉」』)

この引用は、「友達にいるからわかるよ」という「ずるい言葉」を説明する文章の一部です。僕も、友人たちが善意で言っていることはわかっています。ですが、なんとなく「あー僕は外側に置かれているんだなー」と思ってもしまいます。

ただ、この言葉で僕が傷ついているということを言いたいわけではありません。むしろ、「いかに自分がずるい言葉を言っていたのか」「どれだけ自分が『普通』の側に固執していたのか」ということに気づいたということです。もっと言えば、自分を「普通」の側に置こうとしていること、しかしその「普通」にいることが苦痛かということ、このことに気づきました。この気づきは、僕にとってとても大切なことで、やっと「普通」=「男らしさ」を下りる準備運動が終わったんだな〜と思うきっかけとなったからです。

そう、やっと「普通」でなくなったし、「普通」であることから下りられるようになったのです。そして、「男らしさ」から自由になれそうだということも、とても嬉しく思っています。

下りたときに、見えるもの(とりあえず今は)

では、「男らしさ」を下りたら、どんな風景が見えるんでしょうか。正直、まだあんまり周りを眺められていないから、よくわかっていません。しかし、いくつか変わったことがあります。

① 読みたい本を読めるようになった

くだらないことだったと思いますが、読みたい本を自由に読める心の隙間ができました。うつ病になる前、つまり「男らしさ」に固執していたときには、エッセイ、小説、映画、音楽を楽しむ余裕はありませんでした。なぜなら、「そんなの時間の無駄」だと思っていたから。研究するために、読まなければいけない書籍や論文はたくさんあります。そのことだけに集中すべきであると、心から信じていました。今思えば、こんなこと、本当によくないのですが・・・笑

② 自分のしたい学びを、やっとできた

また、本当は学びたかったフェミニズムや女性学の本も、気兼ねなく読めるようになりました。以前は、フェミニズムの主張には親しんでいたとはいえ、なかなか手を出しづらいと感じていました。研究所で言えば、現代のフェミニズム研究では精神分析を引用することもあるのですが、「無意識」「リビドー」というものが、どうしても「説明ができない謎のもの」に見えてしまい、怖いなーと思っていました。エッセイも多く著されていて、そのことも苦手意識につながっていました(上記の「読みたい本が読めるようになった」と同じ理由です)。

自分自身が「男性」であることも、躊躇っていた理由にあります。なぜなら、自分自身が当事者になれないから。当事者でないと「わからない」と思い込んでいたし、「わからないことが悪いことだ、なぜなら弱さにつながるから」という恐怖心もありました。「わからないこと」から逃げようとすることは、今でもあることだけど、少しずつでもなくなってきたと思っています。

③ 自分の大切なものが、わかってきた

僕が大切にしていることは、「素直でいること」「自分に正直に生きること」につきます。でも、それが「弱さ」であることも、わかっていました。「素直さ」「正直さ」は、日本社会ではあまり美徳とされていないように思えます。というのも、「素直さ」「正直さ」は、社会のなかでねじ曲げる必要のあるものだからです。組織のために、嘘をつく。嫌われないために、正直に話すのをやめる。こんな態度が「大人」である証拠であると考えられています。この文化が、僕にとってとても苦痛で仕方がなかった。

こんな僕を受け入れてくれる人もいます。一方で、「うつ病という弱さ」「自分を曲げない子どもっぽさ」というレッテルで僕を見ている人にも気づきました。そして、受け入れてくれる人はやはり大切で、排除する人とは会話できないとも気づきました。大切にすべき人も、同時に見えてきたのは、とっても嬉しいことです。

「男らしさ」から少しずつ下りていく

うつ病になって、やっと「男らしさ」から下りられています。でも、まだまだ下さなければいけないことがきっとたくさんあります。それは、おそらく日本文化に内在した「男性優位性」(man supremacy)に起因するものかもしれませんし、自分の気づかない「優位性」や「差別意識」、「特権意識」かもしれません。ですが、もう「普通でない」ことができるようになったんだから、きっとできる。そんな自信があります。

同時に、日本人男性も、一緒に「優位性」から下りてほしいと願っていますが、それはまたの機会にお話ししたいと思います。

それでは!


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