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【Weのがっこうレポート】わたしたちのウェルビーイングと「あいだ」: ゲストEcological Memes小林泰紘さん

こんにちは、Deep Care Labの川地です。
2021.10.08からはじまる、気候危機時代にわたし(たち)のウェルビーイングを考える、Weのがっこう。そのプレイベント&説明会として、ゲストにEcological Memesの小林泰紘さんをお迎えし、<あいだ>と<わたしたち>を、人間ー自然の関係性の視点から深めていきました。本稿は、そのレポートとしてお話いただいた中身を主観的に切り取り、まとめています。

まず、前半はWeのがっこうの説明会。この時点で参加定員16席のうち、12席ほどが埋まっており、ありがたい限りでした。説明会ではDeep Care Labの背景や、Weのがっこうのプログラム内容や学びの進め方といった点をお話いたしました。

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後半は、人と自然の関係性を問い直し、<あいだ>をキーワードに活動されている小林さんのトークセッションへ。
小林さんは、Ecological Memesの共同代表でもあり、最近は再生・共繁栄的な未来に向けてコトを起こしていく探索・実践のための共同体としてあいだの探索・実践ラボの取り組みも始められています。目指したい方向もDeep Care Labにとても近く、この領域を切り拓いている先達的な方です。また私生活でも、耕作放棄地を活用して協生農法で畑をつくったり、ぬか床の手入れから見えざる菌の声を感じ取ったり、暮らしの中での思索を実践されている小林さん。セッションでは、東洋思想やマルチスピーシーズ人類学など、幅広い視点から<あいだ>をめぐりました。

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ゲスト・小林泰紘さん(一般社団法人 Ecological Mems共同代表)
Ecological Memesについてはこちら

今回のお話は、Weのがっこうの4つのモジュールのうち、とりわけ<わたしと自然・生きもの>のモジュールに近いお話でしたが、一方でテーマとなった「二元論とあいだ」はわたしたちが他者と関わるあり方に大きく影響するお話でした。以下、いくつかのポイントを切り取ってお伝えしていきます。

人間/自然の二元論を()にいれる

人間と自然。この2つは切り離されているのが現状です。もともと、日本語には西洋的なNatureを意味した自然(シゼン)という概念は存在していませんでした。それは近代に輸入されたもの。日本では、その代わりに、自然(ジネン)=自ずから然らしむ、あるがまま、といった意味で使われていました。

言葉ができることで「客体として外にあるものなんだ」という認識が作られます。人間/自然といった二元論に分けたロジックは支配ー被支配の関係性に転じます。小林さんは木岡伸夫さんの本を引用しながら、自己ならざるものを対象化し、コントロールする態度の根底が二元論だとお話されていました。

ヒトは自然を支配するように他人を支配し、他人を支配するように自然を支配するという、幾度にも錯綜した支配ー被支配の構図が、問題を深刻化させてきた。
木岡伸夫「<あいだ>を開く」

コントロールの態度は、人間ー自然に限った話ではありません。この話を聞きながら思い出したのがロージ・ブライドッティ。著書「ポスト・ヒューマン」で話しているように、人間(man)の近代的な定義では、白人で男性で五体満足で中流階級以上...であり、そこから外れる劣るものとして"他者"化してきました。これは自己/他者を完全に切り離した関係性です。この切り離しを行わず「二元論をかっこにいれる」ことがとっても重要。

小林さんが元々こうした問題意識を持つようになったのは、子ども時代の実体験があったからだと話します。10歳の当時、近所でよく遊んでいた森が伐採されてしまい、そのときに心の痛み・苦しみを感じたことが強く残っているそう。

切られているのは木なんだけど、自分自身が傷んでいるという実感。その感覚って完全に外在化している木としては説明がつかないんですよ。その世界観からすると自然と切り離した環境保護への違和感がすごいあったんです。

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これは、一見突飛に思われるかもしれません。でも、恋人が苦しんでいたら自分も悲しく苦しくなる、これと同じような地平だと思います。ぼくがフィンランドに住んでいたころは、毎日森をあるき、苔やリスに挨拶していた日々でした。雨上がりは苔がとても歓び弾み、こちらまでウキウキしてくる。この感情的な結びつきこそが、Weのがっこうで「わたしたちのウェルビーイング」を探求していく際にも大切にしたいことです。

ここに二元論を乗り越えるヒントは間違いなくある。でもかっこにいれるって、具体的にどんなことなんでしょう。

暮らしの中での"出逢いなおし"と、人ならざるものの行為主体性

重要なのは、単に頭だけで考えないこと。論理や合理的に「思考」をするのではなく、身体性をもって「実感」を伴わせること。小林さんの語る、そうした感覚の"取り戻し"や、周囲の存在との"出逢いなおし"などの言葉づかいがとても印象的でした。ぼくたちは元来、二元論をかっこにいれて暮らす感受性をもっていたし、いつだってそれを取り戻せる契機は暮らしの中に散りばめられている。大切なのはそれらに改めて向き合うか。そう言われると、気持ちが軽くなります。

道を歩く中での草花にも出逢い直せるし、駅から歩いているまでの景色だって変わりうる。人工物も地球の物質だし、触れてみて感じてみたら、その物質性をありありと感じられるのではないでしょうか。

暮らしの中の、足元からはじめてみるセンス・オブ・ワンダーの世界です。世界=周囲を取り巻く環境と、あいだを切り離さずして新しい関係を紡いでいく。ただ、その際に気をつけなければならないのは、人間中心の視点を乗り越えて関わること。これが小林さんの語る"出逢いなおし"です。例えば、木を観念で捉えるのではなく、木そのものとして捉えること。

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これはマルティン・ブーバーが提唱した、<わたしーあなた>と<わたしーそれ>といった関係性の差異ともつながるのではないでしょうか。<わたしーそれ>とは、わたしが木を道具のように扱います。このとき木<それ>は、一方的にわたしから働きかけられる存在です。逆に<わたしーあなた>の関係では、わたしは、常にあなたとの関係の中で立ち上がるものです。このとき、わたしが木<あなた>に呼びかけるだけでなく、木<あなた>からも呼びかけられます。互いに呼びかけ合い、出逢う関係性。

人間=以外の種の行為主体性に注意を向けること。木に働きかけるだけじゃなくて、木に誘われる。人が美しい花をみることと、美しい花に誘われ寄せられるミツバチは何ら変わりありません。これは、他種の行為主体性を持っているということです。

人間中心の視点とは、先に延べた支配ー被支配的のもとになるような、主体ー客体の切り離しの視点でものごとを捉えることだとも言えます。それをとりわけ人間ー人間ならざるものに焦点を当てたのが、人間中心とよばれるもの。小林さんは、マルチスピーシーズ人類学の視点の紹介から、他種の行為主体の考え方を取り上げていましたが、行為主体性は人間だけがもつわけではないことを前提に、「互いに呼びかけ合っているのだ」という認識こそが、いま必要なのでしょう。Weのがっこうで考えたい、わたし(たち)という関係性。これに向き合うためにぼくらが持つべき、まなざしなのです。

おわりに

人ならざるもの、わたしを取り巻く周囲の環境との出逢い直しが本トークを貫くキーワードでした。<あいだ>の回復とは、わたし/わたしならざるもの、と壁を打ち立てて切断された関係から、互いの呼びかけから出逢い直して、重なり合う関係を修復していくこと。そのためには、人ならざるものを単なる対象やラベル的に扱うのではなく、"そのもの"として交感すること。これはDeep Care Labでもずっと話していた<わたしーあなた>の関係をつくることに繋がります。

そして、その出逢い直しのきっかけは、森を訪ねるといった非日常ではなく、暮らしの中に無数にあるはずです。ぬか床から菌との対話が始まったり、料理する野菜たちから生き物性を感じ取ったり、日々の散歩で路上の木々と交わったり、目の前のコップに触れ直す。そんなちょっとしたことが、感情的な結びつきをうみ、二元論を乗り越え、<あいだ>を開いていく。

そうすれば、自分の外側にある他者だから、と切り捨てずいかに依りあっているのか。それがわかるはず。その一人ひとりの情動的な実感から、わたしたちのウェルビーイングを見つめていけるんだ。そんな手がかりをもらった時間でした。あいだ、日常性、感情的な結びつき、出逢い直し。ここで得たキーワードを大切にしながらWeのがっこうは、10月8日からはじまります。引き続き活動のレポートも書いていくので、注目してもらえれば嬉しいです!

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Deep Care Labでは、あらゆるいのちと共に在る地球に向けて、気候危機時代を前提にしたイノベーションや実験を個人・企業・自治体の方々と共創します。ぜひWeのがっこうやその他の取り組み、協業に関心があればお気軽にご連絡ください。

Weのがっこうについて👉https://deepcarelab.org/we-school

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