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More-than Human Food: 贈与の連鎖としての食から生態系バランスを考える

こんにちは、Deep Care Labの川地です。

「食べる」って1日3回おこなう日常的な営みだけど、いろんな世界の拡がりを考えさせてくれる営みでもあります。『食べることの哲学』では、食は人間の動物的・生命的な側面と社会・文化的な側面がぶつかりあうような交点にある、と語られます。

食べなきゃ生きていけない、その意味では人間は他のあらゆる生きものと等しいし、一方でわたしたちはそこに生き延びる以上の愉しみを見出します。人と食卓を囲みながら会話を楽しんだり、行列に並び話題のお店で食べたり。近年ではSNSの興隆も相まって、文化的な食が動物的な側面を覆い隠してしまっている気もします。食べるには同時にいのちを奪う暴力がはたらいていることは不可視化され、日々向き合う機会は多くもありません。

そのような「食べる」営みを今回は、生態系の循環の視点から考えてみます。

 "食い合う"わたしたち。生態系のバランスは食でつながる

よく知られた話ですが、生態系には「生産者」「消費者」「分解者」の3者がいます。

生産者は、CO2と日光で光合成から酸素をつくるなど、多くの生きものの生きる前提となる有機物を生み出す植物たち。その有機物を消費して(=食べて)生きる動物たちが消費者。微生物や菌に代表される分解者はその両者の死骸や排泄物を食べて分解(=排泄)します。その分解されたものが養分になり植物たち生産者に還元していきます。

こうして生態系は喰い、喰われる関係の連鎖によって築かれています。それは、その関係の網目のなかでしか、どの生命も存在しえないということです。マルチスピーシーズ人類学の分野では、絡まり合いと表現されています。

人間だけでなく、あらゆる生物種は、他の種や環境から孤立して存在するのではなく、それらとの関係をつうじて生きてきたとする考えがある。そのアイデアを端的に示すのが、「絡まり合い(entanglement)」という語である。
奥野克己/近藤祉秋/ナターシャ・ファイン『モア・ザン・ヒューマン: マルチスピーシーズ人類学と環境人文学』p.14

「生きるとは食べること」だとよく聞きます。しかし、それは人間に閉じた話ではなく、人間以上のあらゆるいのちに通底すること。さて、そんな「食べる」営み。ただこの「食べる」と言葉を聞いたときに想像されるイメージの多くは「今日は昼にハンバーガー食べたんだよね」といった「私が何かを食す」ことでしょう。私の視点に立った「食べる」観です。

一方で、それはより広大な循環、いのちの循環である喰い、喰われる関係の網目を切断した観方ともいえます。そんな私的観方を転換させてみたら?

藤原辰史さんは"食べもの"の視点に立って、こう語っています。

食べものって旅をしているんです。ずっと旅をしている、そのほんの一部分だけ人間がかかわっているわけです。つまり、食べるということ、食べものは、生きているものたちによってにぎわっている世界のなかの、ものすごい大きな循環のなかの一部にすぎない。
藤原辰史『食べるとはどういうことか 世界の見方が変わる三つの質問』p.106

つまり、食べものの側からすると、私の中を一時的に通っている、通り抜けている。その後も、食べものの旅は続きます。私の体に入り込む前から食べものは旅をして(育てられたり)いるし、排泄されて私の体から出た後も、食べものは旅を続けます(分解=微生物に食べられたり)。「食べる」とはここまで射程の広い営みなんだ...。

食べることと"漏れ"、無償の贈与のしあいから成り立つ

より広い「食べる」をふまえ、食べるとは「贈与」でつながる営みである、という視点でお話を進めていきます。

糞土師の伊沢正名さんは、うんこを軸に自然の循環を捉えています。うんこは分解者にとっての食べものになる。野糞は他の生きものを殺し多くをいただく人間ができる、ひとつの贈与のかたちであり、循環の環に位置づけられるための営みなんだ、と話します。

現代の日本では、人は死んでも土に還れず、うんこは処理場で焼かれて、その灰はセメントの原料にされたりしているんです。自然から搾取だけして何の還元もしない。それが今の人間社会なんです。自然の循環から逸脱している。一方、食物連鎖の頂点に位置し、多くの命を奪って生きているライオンやトラ、ワシやタカなどでさえ、きちんと自然の循環に入っているのは、彼らは死んだら他の生きものの餌となり、そして野糞をしているからです
https://www.naturegame.or.jp/field-note/lifestyle/004457.html

わたしたちが食べたものが、排泄され他のいのちの糧になる。そして、わたしたちが日々呼吸している酸素だって、植物が光合成をして自身のエネルギーを生成した結果、いらなくなった排泄物=うんこを食べているといえる。他にも、植物は光合成の養分を根を通じて土中の微生物に贈与をしたり、人間が食べたものが消化の過程で腸内の微生物の養分にもなる。

以前の記事で取り上げた堆肥葬がトレンドとなっている背後には、自分たちの身体を死後、分解者の"食糧"として贈与することで、こうした循環のなかに人間を再び位置づけるとも解釈できます。

「贈り物をしよう」と能動的に贈与をしているわけではないですが、それぞれの生きものが自然にいきるなかで、結果的に食べる中で不要になったものが、贈与として受け取られる、それが生態系バランスが取れている、ということかもしれません。藤原辰史さんは「もれ」というキーワードでこうした考え方を唱えています。漏れる、はネガティブな言葉で使われがちですが、制御しようと思ってもどうしようもなく溢れてでしまう、こぼれて出てしまう、漏れ出てしまう、そんな"おのずから"起こるもの。https://www.mishimaga.com/books/en-shoku/002055.htm

こうした贈与の視点とつなげながら、食べるといのちの循環を考えさせられるようなプロジェクトや作品をご紹介します。

人間以上の食を思索するMore-than Human Food Futures Cookbook

More-than Human Food Futures Cookbookはフードテクノロジーの未来と気候変動への耐性に関連する価値観、懸念、願望、想像力を探り、明確にするための身近な出発点として、食べ物を使った実験を行うところから始まりました。食べるとは、人間と多様な生きものたちの関係性から成り立ちます。その視点から、食べるを再想像しようとMore-than Human Food Futures Cookbookでは2日間のワークショップを行いました。

1日目の「Fantastic(e)ating Food Futures: Reimagining Human Food Interactions」では、食べ物、食べること、そして社会的実践の間の相互依存関係を検証し、テクノロジーによる未来の繁栄を検討。2日目は、「気候変動への対応のために、人間以上の食習慣をデザインする」がテーマ。

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そのなかで、初日のワークショップで生み出されたアイデアの一つがCannibalistic Pickn’ick。これは、人間の体を「農場」に見立て近未来の食糧システムにおいて自分たちの体が果たす役割を再考することを狙ったものです。

人口増加に対して懸念される食糧危機。さらに、食糧の生産のために自然の資源を使い果たしてしまう危惧も。では、身の回りにある資源だけでなく、尿などの人間の体の中や体に培われた食用資源を利用してみたら?自分の皮膚や爪の一部をキノコに贈与=食べさせて、自分だけの菌糸体をつくってみる。そこから育ったキノコを食糧とする、そんないのちのめぐりが形成されることを提起しています。

人間の身体を食物として多種に提供するTo Flavour Our Tears

The Center for Genomic Gastronomy によるこの作品は、哺乳類のまぶたにとまり、涙を飲むという蛾にインスピレーションを受けて、「人間の身体を食物源として多種に提供をすることで人類を分断された食物連鎖に引き戻すための実験的レストラン」の作成による知の形成が狙いです。

作品は上記写真のようなフィクショナルなレストランの建築模型と、映像、および多種ーウィルス、微生物、植物、肉食獣などーに人間を多様な方法で提供するためのレシピ本、という一式で提示されます。

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EYEPHONEは蛾が涙を飲んでいる最中に快適さをもたらす簡易的なVR装置であり、2つのスピーカーおよびブザーにより作られています。蛾が涙を飲み始めたら、スピーカーから音楽が流れ始めます。それにより心地よさを感じるようになったら、ブザーボタンを押すことで涙を飲む蛾の気持ちを同期することができます。

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ALTER GASTRONOMY VRは、人間の肉体が他の生物の食料となることを疑似体験できる装置。オオカミ・ハゲワシ・ウジ虫・微生物などのモードがあり選択すると、そうした生物の視点から人間を特定し、追いかけ、食べるという行為を体験できます。

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Anthro Aquaponicsは水生生物・水耕栽培・人間が、共に養いあい助け合うことを促す新たな共生システム。従来の水生生物と水耕栽培からなるシステムでは、生物の排泄物が水中の植物の成長のために寄与する一方、植物が水を浄化し、より水生生物に適した状態に保つ機能を果たしていました。新たなシステムでは、人間を導入します。ドクターフィッシュが人間の足にあるすでに死んだ肌細胞を食し、その排泄物は植物の養分となり、植物はドクターフィッシュのために水を浄化する一方で、人間の食事へと変換されるというエコシステム。

おわりに

生態系は、こうした食いあいがありながら、それが同時に恵み合いになっているのではないか。それを私たち喰うだけの存在だと思い込むことで、「人間側からの贈与」の連鎖が途絶え、生態系バランスが崩れてしまった今に至るのかもしれません。もちろん贈与の仕方は事例で取り上げたような身体を提供するだけではないでしょうし、この連鎖の修復に自覚的になりながら、どんな多様なやり方がありうるのかを対話することが重要な一歩なのかもしれません。

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