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闇もなほ

 金柑の焼酎煮を作る。
 レシピは簡単だ。金柑と焼酎、砂糖にハチミツ。金柑はきれいに洗ってヘタを取り、切り込みを入れる。種が気になる場合は楊枝か竹串で取り除く。鍋に水をはって金柑を茹で、沸騰後三分ほどで一度、ざるにあげる。鍋に金柑が浸るくらいの焼酎を入れ、半分の重量の砂糖と同じくハチミツを入れて弱火で二十分ほど煮こむ。できたら煮沸またはアルコール消毒した瓶にそのまま入れ、冷めたら冷蔵庫で保管する。
 そのままつまんでもおいしいしケーキやアイスクリームに添えれば贅沢な雰囲気になる。金柑が出始めるのは晩秋だ。鹿児島や宮崎あたりが主な産地で柑橘類としては小さい。直径三センチくらいできれいな橙色である。瓶の中に肩を寄せ合い並んでいる様はなんともかわいらしい。喉にいいとされ薬用にもなる。
 耳を澄ましてごらんよ。
 キンカンが鍋の中で音をたてていないかな?
 コトコトコト、クツクツクツ。
 やはり呟いている。
 ポコポコポコ、トロトロトロ。
 どうやら呪いの文句らしい。あなたは聴覚が敏感でどんな小さなノイズも聞き逃さない。家の中で音がしていると寝られない。どんなものにも魂が宿っている、そんな気がするからだ。一時期はコンプレッサーがうるさいと冷蔵庫のスイッチを切っていたくらいである。さすがにそれでは食べ物が腐ってしまうので脚部にクッションを敷くことで緩和しているが、それでも気になって夜中に一人、冷蔵庫の扉を開く。庫内のランプが点灯し、暗がりに白い光がふわっ、と広がる。肌が透けてしまうような薄い生地の寝間着姿でじっと立ち尽くしていた。青白く照らされた顔に表情はなく、わずかに翳されるだけでこの世のものならぬ陰影が浮かび上がる。

 あれは天女だったのか、般若だったのか。

 今となってはわからない。声をかけることはできなかった。見てはいけない秘密だと感じられたから。スクリーンは危うい均衡の上に辛うじて成り立っており、少しでも動けば薄いガラス板のように夜がはじけてしまいそうだった。
 そんな形であなたを失うのは望ましくない。
 違いますか?
 暗い情念が身体の底から湧き上がってくるかもしれない。いっそ、すべてをさらけ出して禁断の快楽を貪ればいいのではないか、と姿の見えない地霊がささやきかける。あなたの持ち時間は決まっている。まだいくばくか残っているとしても無限ではないし、自制しても将来、いいことがあるとは限らない。
 チャンスは今ですよ。
 そんなことを言いながら不動産会社の営業マンのように迫ってくる。早く決断しないと損をします、と脅すのだ。
 語り、騙り、カタリ。
 あながち嘘でもない。だが鵜呑みにしてはいけない。緑子、本当はミドリコと読むのだがいつのまにか省略されミコと呼ばれるのにあなたは慣れてしまった。それはそれでいい。
 ミコ、御子、巫女。
 こっちの言うことも聞きなさいよ。あたしだって捨てたものじゃないのよ。

 夜も更けて、相も変わらず一人、耳を澄ます。
 鈴虫が鳴いている、と最初は思った。季節はとうに過ぎている気がして、探っているとどうやら冷蔵庫のあたりだ。
 まさか、
 と扉を開くと音はぴたりと止む。おかしいな、と閉じると鳴きだす。そんな動作を繰り返してようやく気がついた。最上段の棚に並べたガラスの鉢がわずかに触れ合って鳴っている。
 リリリリ、
 とれいれいしく響く。ヘルシンキのアウトレットで買ったカステヘルミという小さな器でアイスクリームを盛るのに備えて庫内で冷やしているのだ。うろこ状の模様が刻まれているため独特の音になるらしい。狙って作り出したものではない。冷蔵庫のコンプレッサーが稼働する間だけ鳴く。公園の茂みにいる鈴虫と同じように気まぐれに鳴き、そしてはたと止む。
 風情があっていいな、と思うがあの人は耳障りだと言う。
 うるさいよ。気になって集中できないよ。
 挙句の果てには「貧乏くさい」とまで言い出した。小さなすれ違いは大きな違和感としていつの間にか堆積してしまう。
 どうしてだろう。 
 あなたがいなくなった晩も自由が丘の古びたマンションの部屋には電車が来るたびに大井町線の踏み切りの音が聞こえていた。
 カンカン、カンカン
 と鳴っている。こっちのほうがよほどうるさいではないか。所詮は慣れなのだ。あの人は鈍感だ。あなたとの間で響く警報にはちっとも気づかない。

 あなたは毎晩、屋上に行く。星を見るために。
 屋上の出入り口は本来、施錠されているはずだったが、電気設備の業者が鍵を閉め忘れそのまま放置されていた。錆びついた重い鉄扉を押し開くと獏とした都会の音が響いている。ざらついたコンクリート壁を伝いながら踏み出すと、あいまいな広がりにつながっていく。屋上には柵がなく背後に給水タンクがそびえているだけだ。あたりを見回すと前方の薄闇には家々の明かりがどこまでも連なっている。
 見えるのは星ではないけどまあいいか。
 以前もここに来たことがある気がする。誰だか思い出せないがよく知っている人が手招きしていた。先生かな? 生徒らしき行列から導かれるまま順に、ポン、と宙に飛び出している。
 一人、二人、三人、
 とガダラの豚と同じように連れ立って落下する。そうでないと怖くて飛べないのだ。実際、配管にしがみついて抵抗したり、しゃがみ込んで泣いている子もいた。先生は能面を思わせる無表情を保ったまま力ずくでその子たちを屋上の端へと追い詰め、そのまま突き落とすのである。
 あたしはあんなふうに他人任せにはしない。自分で決断して自分で飛ぶ。先生なんて無視してやる。マイペースで行く。
 イチ、ニ、サン、ソレ!
 地面に落ちるまでの間は無限に長く感じられる。ジェットコースターのようなスリルと同時に腰が抜けるような快感を覚える。地面までのほんの数十メートルの行程で脳内に快楽物質が噴射され類のないスペクタクルを味わえるというわけだ。
 万華鏡のようにさまざまな光景が乱舞する。
 死の直前には人生が走馬灯のように流れる、とも言われるが必ずしも順を追ったクロニクルが上演されるわけではない。記憶はランダムメモリーらしい。
 そして言葉にできないような衝撃。
 気がつくと暗く冷たい。
 静けさに包まれながら、死後の世界はどんなものか、と見まわすとなんのことはない、ベッドの上なのだ。
 やがて台所のテーブルにカップが放置されているのに気がつく。以前、派遣事務員として働いていた頃、あちこちの職場を持ち歩いたミッフィーの顔のついた保温マグだ。毎晩、眠る前に飲むカモミールのティーバックもそのままで、まだ出るのにもったいない、と起き出す。ポットのお湯はぬるくなっていたが湯気も立つ。夢の回廊のあちこちを引きずり回され、ささくれだっていた神経をカモミールの香りがなだめてくれる。一つ一つの場面は思い出せないが、とにかく追い立てられ落ち着かない。いつもなにかが足りないのだ。そこにいる人々はみなよく知っている人たちだが、誰だか確かめようとするとするりと身をかわす。
 大丈夫だよ、
 そんなふうに慰めの言葉を並べながらもどこかよそよそしい。ミッフィーも首をかしげている。

 顔を忘れてしまってね、
 とあの人が笑ったことがあった。遅刻の言い訳にしてはずいぶん稚拙である。顔を洗った後、うっかり忘れたと。自宅のユニットバスは手狭なので休日には近所の銭湯で大きな湯船につかるのが趣味だとは知っていた。一度だけ好奇心から同行したこともあるが、ビルの半地下に設けられた施設でお世辞にも居心地がいいとは言えなかった。白々と蛍光灯で照らし出された空間には消毒剤の匂いが立ち込め、清潔ではあったが銭湯と聞いてイメージするような風情はまったくない。客たちは無言で業務であるかのように淡々と湯あみしていた。
 入浴後、外に出るとあたりは暗く、黒いものがひらり、と視野を過った。なんだろう、と思っているとコウモリだよ、と教えてくれる。
 日が暮れると姿を現すのだ。
 人々が気づかない路地の奥で闇が割れる。その薄い皮膜は破片となって都会の光をかすめていく。
 あの人の顔もコウモリのようにひらめいていた。
 笑い、怒り、蔑み、恨み。
 ひょっとこのように口を突き出し、天狗のように目を剥き、翁のように泣き笑いの様相を浮かべる。どれが本性なのかさっぱりわからない。だから心が乱れそうになった時はバーコードを思い出す。勤務先の雑貨店のレジで使っているPOSシステムだ。読み取り装置にかざせば、ピッ、という音がして数字が表れる。不安は微塵もない。きっちりと正確に処理される。支払いも二次元コードでできる。
 顔も同じだ。
 ピッ、と読み取ればいい。顔認証さえ実装される時代だからいずれそんなシステムができるかもしれない。少なくとも「忘れた」なんて言い訳は通用しない。
 だからあの人のしかめられた笑いを見返しながら警告する。
 泥棒には気をつけてね、
 と。あの人は驚いたように身を引いた。顔がとっくの昔に盗まれていた、ということにようやく気がついたのだ。裸の王様とは正にこのことだ。誰も真実を教えてくれなかった。へらへらとにやけた表情が実にみっともないし見ているだけで恥ずかしい。
 忘れていたのは顔だけではない。
 手も足も、首も腹もほとんどすべてだ。辛うじて背中だけが骨に張り付いている。気の毒なのは自分では確認できないということだ。誰しも己の背負っているものを直視できない。身に覚えのない罪悪が積まれているかもしれないし、大切なものが奪われているのかもしれない。どこへ向かうのか、誰に何を届けるのかは自分で決めるべきなのに、他人まかせで深く考えていない場合もある。あの人の生き方はまさにそうしたことなかれ主義の典型だ。終着地点で焦ることになる。つまり死を迎えて初めて自己を悟るというわけだ。
 結末は影になる。
 ぺらぺらに薄くなってしまったがこれだけは残されている。ないものをあるかのように見せかけるため影絵芝居でも試みるしかない。精一杯の茶目っ気をみせておどけたりするのだが虚しい。アリバイとして提出できるのは靴底の、それこそバーコードに似た溝がぬかるみに刻み付けたわずかな足跡だけなのだ。
 忘れられた顔は今ごろ銭湯の排水溝でふやけてしまっているだろう。もう誰とも見分けがつかない。笑いだけは支持体を失いながらも空中で硬直する。ほとんどデスマスクだ。
 あの人はそんな存在だった。

 他人事ではない。あなたの顏だってあちこち剥がれてしまいつぎはぎだらけだ。テーブルをはさんでのっぺらぼうが二つ向き合っている、というような光景にはぞっとさせられる。街中では忘れているが、家に帰ってただいま、と言った瞬間、ひやりとするはずだ。姿見にはなにも映っていない。家族ならいずれ気がつくはずだが、お互いさまなのであえて相手を傷つけるような指摘はしない。あなた一人ではない。みんな同じだ。
 切り離された顔たちは空疎な笑いを街中にばらまいている。
 「王様の耳はロバの耳」のお話みたいに、隠された秘密がいつかは露呈する。テレビやラジオはもちろん、電車の車内放送や商店街のスピーカー、携帯電話やゲーム端末にいたるまでイヒヒヒ、という卑屈な笑いが充満し不快な音を響かせている。ここまでいくともう恥ずかしい、なんていうレベルではない。犯罪であり、その告発だ。口という口から噴水のように哄笑、嘲笑、憫笑が飛び散っている。
 イヤだ、イヤだ、
 自分が自分であることが嫌になる。
 だけどそもそもあたし、って誰なのだろう?
 そんな問いが浮かんでくる。あなたにとってのあなたと、あの人にとってのあなたは別人だ。あなたにとってのあの人とあの人にとってのあの人が別人なのと同じである。あの人はいつのまにか勝手にあなたに入り込んでいる。涼しい顔であなたを乗っ取ろうとするのだ。あなたは抵抗する。セキュリティチェックが必要だ。自分が自分でなくなる前にウイルスのように増殖している顔たちを分離しなければならない。
 混乱する。あなたは二人いるのかもしれない。本物と偽物と。
 いや、もっと正確には無数にいる。しかも時時刻刻と変化している。だから質問に対する答えは定まらない。ならばいっそ抵抗などやめてしまおうか、とも考える。そこまでして守るべき「自分」などあるのだろうか?
 わからない。
 とにかく問い続けるしかない。それが人間ということなのだ。あなたは常に「誰か」なのである。あの人も。

 カモミールティーはもちろんだがベランダで育てているカモミールそのものもあなたを慰めてくれる。植物は不思議な存在だ。目に見えている部分は可憐な花でも地中には根がしっかり張っている。鉢植えから取り出せば細い根がびっちりと隙間なく土を抱えているのを見ることができる。茎と葉と花から成る地表部分と地中の根はまるで別の生き物で、これぞある種のキメラではないかと感じてしまうのだ。人魚や馬と人が一体となったケンタウロスを想像してみればいい。生体のハイブリッドなんて怪しいとも思えるが実は地球の支配者なのだ。海の中でさえ、光合成を行う植物性プランクトンがいなければ他の生き物は生きていけない。
 命の根源。
 それをあなたはハーブティーという形で自分のものにしようとする。植物を育て、お茶にする。これこそ自分の仕事ではないか、との考えに至ったときは興奮した。ハーブティーを販売している雑貨店に勤めているのはその結果である。
 器官としての植物は動物と対称的な構造にある。植物は葉や根で外部と接し必要な太陽光、二酸化炭素、水を直接吸収する。いわばむき出しの器官である。一方、動物は環境に対しては殻を形成し、肺や消化器官といった内臓で必要なものを摂取する。例えば動物の口から肛門までを一本の管とみて、くるりと裏返しにした構造が植物と同等なのである。枝を広げた樹々の立ち姿だってひっくり返してみれば肺胞と似ている。方や二酸化炭素を、もう一方は酸素を効率よく吸収するための構造であり、両者は相互依存の関係にあるわけだ。
 すべてが繋がっていることを理解していなければダメね、 
 と店長は手のひらにわずか数ミリ程度の細長い粒を載せて見せてくれる。カモミールの種だ。ここからすべてが始まる。外見からは想像もできない驚くべき成長を見せる。植物だけではない。芋虫は蝶になるしオタマジャクシはカエルになる。人間はどうだろう? 
 植物が特別なのは太陽光を吸収する点だ。宇宙から届く光が彼らの原動力となる。
 宇宙の光。
 その言葉を聞いてミコはハッ、とした。屋上に広がる夜空を思い出したのである。

 秋も深まると人々が空を渡っていくのが見える。
 夕暮れには雁のようにきれいに並んで飛んでいる。白髪頭が目立つが、中には若い人や子供もいる。実に気持ち良さそうだ。久しぶりにいいもの見たなあ、あんなふうに飛べるようになったらいいのに、と憧れる。残念ながら連れ立つ人はいないけど。
 慰めてくれたのはロレダーナさんの言葉だ。
 勤務先の建物の三階にはイタリア語教室があり、講師のロレダーナさんによるとイタリア人は群れることなく飛び立つのだという。彼女はトリエステ出身で赤茶の巻き毛を垂らし、白い縁の眼鏡をかけ、いかにもアーティストっぽい雰囲気だが思いのほか控えめな態度で日本語も滑らかだ。漫画を読むために勉強したという。ハーブティーコーナーであえてカプチーノを注文し、窓際の椅子に座るとノートになにやら書きこんでいる。のぞき込むと雲のような図形がたくさん描かれている。どうやら吹き出しらしい。
 マンガ ノ セリフ、シミタイデショ。シ、ワカル? ポエジーア。
 そんなことを言いながら端正な文字を書き入れている。
 アタカモ ノヨウニ
 セメテ ダケデモ
 ケッキョク ナノデ
 やがて文字はほどけ、ピースマークやミッキーマウスになっていく。吹き出しに目がついて手足が生えて動き出す。
 かわいいですね。
 トリエステは坂の街なのだという。北東部に位置するこじんまりした港町で小樽、神戸、長崎などに似ているらしい。港には開放感がある一方、丘に沿って暗く細い路地が入り組み、歴史の重みを宿している。坂の途中にはサバという詩人が百年ほど前に作った古本屋があり、今も営業している。日本人の観光客も来ますよ、とのことだった。オーストリアやクロアチアとの国境も近く歴史的、文化的に多層性がある。そこには「イタリア人」と聞いてイメージするような過剰な陽気さ、大仰な身振りなどはない。マンジャーレ、カンターレ、アモーレ。食べ、歌い、愛し、人生を謳歌するイタリアは南部にある。北部では人々は礼儀正しく、規律を守り、慎重かつ複雑だ。石畳の路地にコツコツ、と音を立てて人影がよぎった後、深まる静けさの中で詩が生まれる。風向きが変わり雲が流れるようにして言葉のかたまりが動いている。それを解きほぐして紙の上に並べていくのだ。
 カップが空になるとロレダーナさんは花を一輪買って立ち去る。これを手に飛んでみたいね、と。
 トブノハ、ヒトリデ。アタリマエデショ。
 個人主義だからというよりも、一度、飛び立てば簡単には戻れないから他人を巻き込むことは憚れるという。たとえ家族や友人だとしても。もちろん、恋人同士で連れ立つことはあるらしいが、基本は一人ということらしい。
 ミコは同意する。
 「人間」と書くように人と人には間、つまり関係がある、と考える。この関係こそがあなたをあなたたらしめている要素であり、たった一人で飛び立てば自分を見失ってしまう不安がある。だからみんなあのように連れ立って行動するのだ。一方で、嫌でも行動を共にせざるを得なくなることの怖さ、というのもあるはずだ。自分で決めたいことなのに勝手に話が進んで引き返せなくなるのは嫌だ。ただ夕焼けの美しさをいつまでも見ていたいだけだから。
 トラモント
 イタリア語ではそう言う。シチリアのタオルミーナの日没はとてもきれいだから一度、行ってみて、と先生は瞼をすぼめ、遠くを見るような瞳になった。
 ミコは茫漠とした夕景に飛んでいるロレダーナさんを想像する。赤い花を口にくわえ、長い巻き毛を風になびかせ、大きく両腕を広げて上昇気流に乗る。どこまでも広がる天空は荘厳な茜色に染まり、藍色の地中海との境ははっきりしない。足元ではエトナ山の頂からチロチロと炎が吹いていて、恐ろしくも魅惑的な色合いに見とれてしまう。あれははたして地獄の入口なのか。古代の哲学者エンペドクレスは神に近づきたい、と火口に飛び込んだという。だとしたらそこから浮かび上がってくるものもあるのだろうか。
 上空では「こんにちは! 」と人々が互いに呼び交わしながらすれ違う。特段の論議はないしその必要もない。とても感じの良い人たちだ。空はニュートラルな場所で広いからトラブルもない。それはそれでいいのだけどなんだか寂しい感じもする。
 いつまで飛び続けるのか。
 宇宙の果てまで行けそうな気もする。だけど冷蔵庫にキンカンが残っているのを思い出してやはり戻ることにする。

 飛び降りるたびに軽くなっている気がするの。断捨離しているからかな? 
 そう伝えると屋上の先生は首を傾げた。
 へえ、それは興味深いねえ。普通はだんだん重くなるはずだ。確かに身の回りの不要な品を処分するのはいいことだ。でもそれくらいでは追いつかないほど人生は過酷だからね。重量オーバーで最後には地表を突き破る。マンガみたいに人型の穴が開いてね、マントルまで達して燃え尽きたとか、いやいや地球の反対側に抜けてブラジル人とこんにちわ、って挨拶したとか、とんでもない奴もいるよ。一番の極みは宇宙に飛び出して加速するあまり彗星になってしまい、ついに星の王子様になった男の子かな。
 あたしが選ぶなら星ではなくて月です、
 というのがあなたの当面の回答だ。
 星の王子さまならぬ月の王女さまだ。王子さまの「星」は惑星を指しているようだったが、あえて衛星を選ぶ。衛星のほうが楽そうだからだ。惑星に従っていればいい。つまり受け身、ってこと。地球の月に限らない。フォボスにダイモス、イオにエウロパ、タイタン、ミランダ、そしてトリトン。軽快に衛星ホッピングを楽しんでみたい。
 やってみればいい、ただ信号を見ていなければダメですよ、
 とのアドバイスをもらう。
 星の王子様はさまざまな星を巡っては碌でもない住人たちに呆れていたらしいが、しまいに一分ごとに街灯をつけたり消したり忙しい点灯夫を見つけた。無意味だと承知はしているが決められたことはきちんと守る。いばり散らしたり、虚栄を張ったりもしない。星の回転が早まった、つまりは時代の変化が加速した、そうした不可抗力にもめげずに己の分を守る。いわば職人だ。この人のことだけは少し好きになれたという。
 ならば、と王女は信号手の職務に就く。そこまで忙しくはないけれど似たところもある。たぶん向いていたのかもしれない。
 赤だから止まりなさい!
 そう叫んであなたは赤信号をひらめかせる。ちょっといい男だったから。光速で近づいてくるあの人は波長が縮められて蒼くなるし、遠ざかるときは反対に紅くなる。いずれにしてもカッコよさが際立った。だけど調子に乗って信号を無視したりするなら痛い目に合うだろう。ルールを守らない者には罰が与えられるのだ。
 反対から猛スピードでやって来る流れ星に正面衝突。だから赤信号で警告してあげたのに。流れ星は無法者だ。冷たいガスを燃やし突進してくるのでぶつかればひとたまりもない。たちまち吹き飛ばされ、挙句の果てにブラックホールに転落しておさらばさ。
 残念だったわね。
 あの人はクエーサーとして永久に明滅する運命。千、万、億、兆、京、垓、さらには阿僧祇、那由他、不可思議、無量大数。とにかく数えきれないくらいの回数、嘆き節を点滅させ続ける蛍の星になるのだ。電磁波を放ちながら暗い茜色に染まって宇宙のはてに消えてしまうまで。
 さようなら。
 こんなことを想像するときあなたの魂には残虐な復讐の燠がわずかに光る。

 カンカンカン、と踏み切りが今夜も響いている。呼応するようにすず虫が鳴き始める。だがそこにあなたの姿はない。飲み差しのカモミールティーがテーブルに残されているだけだ。
 合鍵を返すことを口実にやって来たあの人はしばらくの間、あなたの戻りを待っていた。謝るつもりはなかったが後悔している面もあった。一緒にお菓子でも食べれば気分が変わるかもしれない、とわずかな期待すら抱いていた。しかしあなたは帰ってこない。最初は苦笑し、見通しの甘さ、己の愚かさを疎み、やがて不快感に顔をしかめ、さらには恐怖すら覚え始めた。
 まずいぞ。
 すべてはあなたの呪術だったのではないのか。踏切が鐘を鳴らし、すず虫の声が響く。金柑は瓶の中で思い出したかのように呪文をつぶやき始め、放置されたマグカップから漂うカモミールの香りが毒ガスのように充満する。 
 別々のようでいてすべてが連動している。
 ものたちは一体となって鳴動しあの人を飲み込み、消化しようとするのだ。あの人はアリジゴクのような罠にはまり、あがくほどに吸い込まれる。 
 物にも魂がある。
 そのことが示された。巫女の仕業だ。
 助けてくれ!
 いつのまにか頭の片隅に不埒な通路が開通してしまったらしく、声が響いている。言葉たちは仲良しなのかフォークダンスのようにくるくると互いを回しながら立ち現れては消えていく。
 いったいどこにつながっているのでしょうか。
 楽しいのはいいのですがあまりに気まぐれなのでときには困ります。蓋でもあれば塞ぐこともできるのでしょうが、そのありかさえわかりません。どうやら鍵は持っていたらしいけどそれもなくなっていますね。
 手がかりはない。
 あるとしたらときおり聞えるあの音だ。リリリリ。冷蔵庫のすず虫があなたの魂と呼応しているようだ。飛来する言葉を呼び寄せている。帰路を急ぐ無数の人影が夜空をよぎり、きっとどこかでロレダーナさんが花を手に見上げているだろう。
 宇宙から届く淡い光がその上に静かに降り注いでいる。
 窓の外ではほのかに街が明滅した。まさか蛍? いくら気候温暖化の影響があるとはいえそんな季節ではないはずだ。それでも光が舞う様子には癒される。ただ一つ、二つなど、と言うではないか。たくさんである必要はない。そのはかなさがいいのだ。光の行く末を追っているうちに思いは深まっていく。
 ここはどこ? 
 どこでもない場所だよ。
 あなたは誰? 
 誰でもない誰かだよ。
 いつまでいるの? 
 いつまでもさ。始まる前から終ったあとまで。だから心配ない。安心して休んでいい。
 光はゆっくり明滅しながら夜の奥へ消えていきます。

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