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非一般的読解試論「作品から図式を受け取ること」

こんにちは、デレラです。

久しぶりに非一般的読解試論をお送りします。

非一般的読解試論は、わたしが文芸作品から感じ取る「感想」について考える連載テーマです。

ひとは、なぜ感想を抱くのか、どのようにして感想を抱くのか、感想とは何だろうか、ということを考えています。


わたしは、作品を見るとき、何を受け取っているのでしょうか。

たとえば、アニメーションを見ているとき、わたしは、絵を見て、音楽を聞いて、セリフを聞いている。

しかし、ただ絵を見て、音楽を聞いて、セリフを聞いている「だけ」なのでしょうか。

今回の結論を先取すれば、わたしは、「作家」を通して作品を受け取っている、と思います。

ここで言うところの「作家」とは何でしょうか。

言い換えるなら、作家とは「図式」です。

つまり、わたしは「作家=図式」を通して作品を受け取っている。


しかしこれでは、まだ、「作家」を「図式」という言葉に置き換えたにすぎず、何を言っているのか分かりません。

ですから、ここからは「図式」とは何か、考えていきます。

そのために、第一章では具体例を出しながら、図式とは何か、について考えます。

そこでは、宮崎駿さんの映画作品を取り上げます。

そして、さらに踏み込むために、第二章にて、図式のあり方について考えていきます。

ここでは、図式は唯一のものではないということ、つまり、図式の複数性について考えてみたいと思います。


では、さっそく始めましょう。

作家とは図式である、ということ。

そして、図式とは何か。


1.図式を受け取る

わたしは、作品を見るとき、「作家=図式」を通して、作品を受け取っています。

早速、具体例を出しましょう。

わたしは、宮崎駿さんのアニメ映画が好きで、よく見ています。

何度も見ていると、宮崎駿さんのアニメには、ある「図式」を感じ取ることができます。

それは、「中間的なもの」を必ず描いている、ということです。

宮崎アニメ映画の図式 「中間的なもの」


「中間的なもの」とは何でしょうか。

「中間的なもの」とは、「対立項」のあいだにあるものです。

宮崎駿さんのアニメ映画には、まず「対立項」があります。

たとえば、『風の谷のナウシカ』では、瘴気が満ちた腐海に住む「蟲」と、瘴気から逃れるようにして生きる「人間」が描かれています。

「人間」ー「蟲」

そして、主人公の「ナウシカ」は、「蟲」と「人間」を結ぶような「中間的なもの」として描かれています。

「人間」ー「ナウシカ」ー「蟲」

つまり、宮崎アニメ映画から、次のような図式を感じ取ることができるのです。

「ある一方」ー「中間的なもの」ー「もう一方」

この「対立」と「中間的なもの」の関係は、他の作品にも共通しています。

以下の図にて、作品ごとに図式をまとめてみました。

宮崎図式

※宮崎駿さんの映画作品には『ルパン三世 カリオストロの城』や、映画作品以外にもアニメ作品がありますが、ここでは割愛しています。

宮崎駿さんは、必ず「対立項」を設定し、その両極に引き裂かれるようにして、葛藤し、成長する主人公を描いている。

どちらか一方が「良い」のではなく、どちらの極にも「良い」と「悪い」がある。

その二つを結び付けるようにして、主人公が「中間的なもの」の役割をになっているのです。


さて、わたしたちは、「図式」とは何か、について考えているのでした。

この宮崎駿さんの例から、次のような結論を取り出すことができます。


作家は、それぞれの作品のあいだに「共通する図式」がある。

たとえば、宮崎駿さんであれば「ある一方ー中間てきなものーもう一方」という図式が共通している。

このような、作品をまたいだ「共通的なもの=図式」を通して、わたしは作品を受け取っているのではないだろうか、そんな風に思います。

つまり、作品を見るとき、「作家=図式=各作品に共通するもの」を通して、作品を受け取っているということ。

これは、他にも例を上げることができるでしょう。

たとえば、ゴッホの絵の、あの大胆なタッチ。

椎名林檎の、あの独特な歌詞。

村上春樹の、不可思議な世界へ迷い込むような表現。

松本大洋の、独特の描線。


「図式=作家」は、もっと日常的な言い方をすれば、作家の「作風」と言えるでしょう。

そのような、「作風=図式=作家」を通してわたしは、作品を受け取っているということ。

でも、それは、誰にでも当てはまるものなのでしょうか。

つまり、わたしにとっての「宮崎駿さんの図式」と、あなたにとっての「宮崎駿さんの図式」は同じものなのでしょうか?

あるいは、「正しい図式」、「唯一の図式」というものがあるのでしょうか?

章を変えて考えてみます。


2.図式は複数ある

図式とは、「作家=作風」なのだ、わたしたちは、それを見てきました。

この章では、「図式の在り方」について考えていきます。

図式の在り方、つまり、図式には、「正しい唯一の図式」があって、それ以外は間違いなのか、あるいは別の在り方があるのか、ということです。

前章で取り上げた宮崎駿さんの「中間的なもの」という図式以外に、宮崎駿さんのアニメ映画の見方は存在しないのか。

もちろん、そんなわけがありません。

図式とは、受け取り手の「受け取り方」であり、「受け取り方」は、受け取り手の数だけあるはずです。

わたしは、宮崎駿さんのアニメ映画を見るときには、必ず「中間的なもの」を通じて、主人公の出来事に感情移入します。

だけれど、「宮崎駿三の図式」はそれだけでは語りつくせない。

主人公の絵柄や、配色、セリフ、時代設定など、様々な視点があります。

どの視点で受け取るかは、受け手に任されている。

つまり、「図式」は複数あるのです。


また、わたしたちが受け取る図式は、必ずしも、作家である宮崎駿さんが意識的に提示している、とは限りません。

作家が無意識に描いていることを、わたしたちは図式として受け取ることも可能なのです。

そういう意味では、「作家=図式」という言い方は、不適当かも知れません。

つまり、あくまで「わたしが受け取った作家=わたしが受け取った図式」という表現が適切でしょう。

わたしが「この作家の作品は中間的なものが描かれている」という風に受け取ったからと言って、作家自体にそれを投影することはできません。

作家は、作家で勝手に描いている。

受け手は、受け手で勝手に受け取っている。

この状態で、受け手が作品を見て感想を抱く。

受け手は作品から「受け取った図式」を受け取る。

そんな風に思います。

ですから、感想が間違っている、だとか、正しい感想がある、というものではない。

たしかに、独自の感想、というものはあるでしょう。

こんな受け取り方があったのか!!と思うような感想です。

しかし、それは、あくまで、受け手の受け取り方、図式の設定の仕方の問題なのかも知れません。



3.おわりに

ここまで読んでいただきありがとうございます。

どうでしたかね?

今回は、図式=作家について考えてみました。


しかしながら、記事とは矛盾するようですが、「図式」を受け取らない場合もある、と考えています。

たとえば、アニメであれば、その時、目に映っている絵の動きや物語だけを見る、という受け取り方です。

そのように、ただ観ていて楽しい!という感覚もあるはずだと思います。

このように図式を受け取らない場合は、一つの作品の中で完結します。

しかし、わたしが提示した「図式を通した見方」は、一つの作品ではなく、複数の作品にまたがる図式を想定しています。

ようは、作品の「外部」にある「別の作品」を必要とします。

でも、作品の「外部」なんて無視して、作品の「内部」だけで楽しむ楽しみ方もあるし、それは否定できません。

どちらが良い見方であるとか、どういう見方が正しいというようなことが言いたいのではありません。

いろんな見方がある、そのなかの一つに、図式を受け取る、という見方があるのだと思います。



さて、わたしは、作品から図式を受け取るということについて考えてきました。

わたしは、すべての図式を受け取ることはできません。

わたしが受け取ることができる図式は、一部であり、限られています。

また、わたしが受け取ることができる図式は、正しい図式、一般的な図式というものではありません。

わたしが受け取ることができる図式は、個人的であり、正しくないかもしれないような、非一般的な図式です。

そうであるならば、「お前は正しくない図式を記事にしているのか?」と言われてしまうかもしれません。

ある意味ではそうです。

しかしながら、作品を見たとき、「その図式を感じ取ってしまったわたし」が、確かにそこに居ました。

われ図式を感じる、ゆえに、われあり、とでも言いましょうか。

或る個人的で非一般的な図式を感じ取ってしまったわたしがいる。

そのことを、わたしは否定できません。



皆さんが、どんなふうにして作品に向き合っているか、気になります。

もしよければ、ぜひ、コメントで教えて下さいね!

では、また次回。


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