感想文:身体の動き、感情の動き(川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』)
この記事は、川上未映子さんの小説『すべて真夜中の恋人たち』の感想文です。
わたしは、身体に興味があります。
スポーツ選手の身体の動きを見ると、いつも驚きます。
特に、体操選手の動きには驚きます。
なんで、あんなふうに動けるのか理解できず、見るたびに、あいやと驚きます。
くるくるまわり、ピタッと着地する、動く身体。
キレイに動く身体。
動かしたい方向に、いかに美しく動かすのか、ということ。
体操のように美しく動く身体は、とても魅力的です。
一方で、わたしは、上手く動かない身体にも魅了されます。
上手く動かない身体、不恰好な踊り、不器用な手先。
なぜ、上手く動かない身体に魅了されるのか。
なぜなら、わたし自身が、身体を上手く扱うことが出来ないからだと思います。
わたしは足が遅い、料理をしても上手く包丁を扱えない、下手くそな文字。
上手く喋れない、空を切るボディランゲージ、たじろぐ目線。
わたしは、わたしの身体を上手く扱えません。
では、どんなときに身体を上手く扱えないのか。
まずは、身体の動きを二つに分けたいと思います。
一つは技術的な動き、もう一つは感情的な動きです。
走ることや、料理や、字を書くなどは、技術的な身体の動きに該当します。
一方で、喜びや怒りを言葉にして喋ること、驚いたときの身体の咄嗟な動き、恥ずかしいときの目の動きなど、感情の表現としての動き、これが感情的な動きです。
後者の感情的な動きは、演技をする役者にとっては「技術的な動き」なのかも知れませんが、今は置いておきましょう。
さて、わたしは、技術的な動きも、感情的な動きも下手くそなのですが(笑)、どちらかというと、感情的な動きに、魅了されることが多いです。
それこそ、感情的な動き≒役者の演技、に感動することが多い。
役者は、身体の動きで感情を表現します。
別れを告げられた主人公の動き、初めて犯罪を犯してしまった犯人の動き、なにかを成し遂げた喜びの動き。
そういう感情的な動きは、美しく宙返りする身体とは違って、どこか「不恰好」でありながら、とても魅力的な動きです。
(新体操やフィギュアスケートなど、技術的な動きと感情的な動きが合わさった種目もありますね、この話はもっと掘り下げられそうです!!)
さて、この文章は、川上未映子さんの小説『すべて真夜中の恋人たち』の感想文なのでした。
なぜ、身体の話から始めたのかというと、この小説の主人公・入江冬子の感情的な身体の動きがとても印象的だからです。
少し変な身体の動き、不恰好で感情的な身体の動き。
わたしはそこに、深く、深く感情移入しました。
わたしが最も感動したのは最終盤のシーンなのですが、それは、ぜひみなさまに読んでいただくとして、別のシーンを引用しましょう。
あははって笑うと、あははという文字が目のまえにみえるようだった。あははって笑うと、あははってみえる。おほほって笑うと、おほほってみえる。そう思うと、余計におかしかった。笑い終わったあとの沈黙がまたとつぜん面白くなって、今度はもっと大きな声をだして笑ってみた。笑いながら床につけたままの頭をごろごろと動かすと頭蓋骨のでこぼこ具合がはっきりとわかり、左右でかなりの違いがあることに気がついた。
(川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』,p.78-79,講談社文庫,2014)
ひとは面白いから笑う。その自分の笑い声を、主人公の冬子は「笑い語」として認識してしまう。
見える、ということは、「コップ」のように、自分とは全く関係のない「物体」であるということ。
つまり、自分の笑い声が、自分とは全く関係のないモノのように感じる。
さらには、「面白さ」の出所である「自分の脳」が入った頭蓋骨さえも、まるで自分の身体ではないかのように、感じる始末。
主人公の冬子は、自分の笑い声(身体の動き)や、面白さを感じる脳(身体)を、まるで自分のものでないかのように感じている。
自分の感情(=笑い声)を物体のように描き出すこのシーンは、わたしをどこか不安にさせます。
なぜ、不安に感じるのか。
感情を物体と同列に描くことで、わたしの感情が、まるでわたしに属さないものであるかのうように感じるからです。
感情を抱いているのはわたしのはずなのに、感情はわたしに属さない。
そんな不安感を煽る、川上未映子さんの筆致です。
さて、また別のシーン。
吐く息は光の粉にふちどられて目のまえをうっとりと漂い、もう一度それを両手ですくって深く吸いこめば、わたしの腕や喉や手のひらまでもがうちがわからしずかに光りだして、わたしは心ゆくまでそれをみつめ、気がつけば宙に横たわっているのだった。わたしは目を閉じて手をのばして思うままに体をゆらし、頭をゆらし。光をかきまぜるように踊りながら、そんなふうにいつまでも部屋のなかを歩きまわるのだった。
(同上,p.229,講談社文庫,2014)
主人公の冬子が恋する「三束さん」からもらったショパンの子守歌を聞きながら、その音色と、三束さんへの恋心が密かに融和し、身体のなかで混ざりあい、その表出として冬子が踊り出す、とても美しく、儚いシーンです。
この描写。主人公の内的な衝動を「光」に置き換えて、冬子の身体を出たり入ったりするようにして描く筆致に、わたしは、心奪われました。
このように、川上未映子さんは、「内的な感情」と「外的な身体」を対立させながら、同時にゆるくつなげて、「内的」であったはずの感情を、「外的」な身体と同列に書き出すことで、身体の不安感と感情の儚さを同時に、読者に感じさせるのだと、わたしは思います。
感情を物体のように書き出す筆致。
感情と身体をゆるくつないで、身体の動きを書き出すことで、同時に感情を書き出す筆致。
その執拗な筆致に、わたしは息を呑み、共感します。
共感したかと思えば、少ししてから今度は狼狽し、視点が定まらなくなり、本の内容をまた反芻し、すっと風が通って、終いには不安になります。
不安になる。わたしはわたしの感情がわたしのものではないのではないかと不安になります。
でも、身体と感情はゆるくつながっていて、身体の動きがそのまま、感情の動きであることに気がつくのです。
もし、川上未映子さんの文章を読んだことがある方は、どんな感想を抱いたか、ぜひ教えてください。
おわり
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