デレラの読書録:成田悠輔『22世紀の民主主義』
現代の民主主義、現代の政治、現代の選挙は「何か行き詰まっている」という問題意識があり、そこから現状を分析し、成田氏の専門性(データやアルゴリズムなどのデジタル技術の知識)を生かした処方箋を提示する意欲的な本である。
民主主義をザックリとまとめてしまえば、民意が選挙を通じて政治に反映され、政策が決まる社会のあり方である、と言える。
つまり民主主義にはインプットとアウトプットがある。
ようは、選挙による民意のインプットと、政策の決定というアウトプットである。
このインアウトがどうやら上手くいっていない、という問題意識がある。
成田氏はそのインアウトを刷新することを提案している。
その提案は、民意を選挙ではなく、様々なセンサーで採取したデータに置き換え、政策はアルゴリズムに決めてもらうというものだ。
選挙をデータに、政治家をアルゴリズムに置き換えるということ。
つまり意識民主主義から無意識民主主義への変革。
人が意識的に投票して政治家が意識的に政策決定することを意識民主主義とするなら、無意識民主主義とは、勝手にデータを取得してアルゴリズムが政策決定することである。
ようは「人(投票者と政治家)」を民主主義のなかで小さい存在にするということ。
恐らく、人を小さくすることに対しては、必ず反発があるだろう。
どのような反発かと言えば、選挙を馬鹿にするな、民主主義をゲームにするな、というようなものあれば、人間をアルゴリズムに置き換えられるはずがないという人間中心主義的な反発もあるだろう。
成田氏の提案は、少なからず挑発的で、既存の人間観に対する冷笑を含んでいる。
クリティカルな反発としては、成田氏も本文内で言っているが、人間という責任主体なしでは、選挙や政策決定の納得感が得られないだろうと感じる人が多いだろうというものだ。
しかしながら、立ち止まって考えれば、そもそも、人間がいる現在の選挙にも政治にも納得感がない人はいるだろう。
この納得感のなさについては、わたしは共感できる。
政治的に技術的に、成田氏の提案が現実的かどうかはわたしには分からない(説明自体はよく理解できるものだった)。
現実の所与の民主主義、選挙、政治を相対化し、別の可能性を見せてくれることで、現実の民主主義、選挙、政治の問題点と要点が浮き彫りになるとは思う。
どのような問題点、要点があるか。
たとえば、そもそも「民意」とは何か。
データに置き換えたところで、「民意」と言うものを吸い上げることができるのか。
「民意」のフィクション性が浮き彫りになる。
また、政策決定に付随する「政治的責任」の拠り所はどこか。
そもそも責任なんて取れるのか。
やはり責任のフィクション性もまた浮き彫りになる。
とは言え、政治は個人のアイデンティティや、生活実感に密接に関わっている。
フィクションだと言い捨てるだけではいけない(明日は我が身)。
しかし、政治は個人生活に関係するということだけは分かっているが、そのインアウトは不透明なのだ。
インアウトの不透明性を鋭く突いた成田氏の慧眼である。
本書を読んで、政治や選挙に人間は不要でありデータとアルゴリズムで良い!と短絡的に肯定することも、人間の生活の決定に人間は必要でありデータやアルゴリズムには責任感は持たせられない、と短絡的に否定することもしない方がいい。
この本はそういう「どっちが良いか」を決めるための議論ではない。
何かグラグラと崩れそうな建物の上にわれわれは立っているということに気がつき、人間への猜疑心とデータ・アルゴリズムへの猜疑心を感じた上で、何かを変えなければならなくなったときに、あるいは何かの提案がなされたときに、考えるための道具の一つとしてこの本はあると感じた。
追記
この本では、民主主義というものは、徹底してバーチャルに扱われている。
そこでは、肉体的で、現実的で、身体的な民主主義が捨象されている。
そういう身体的な民主主義を信じるひとにとっては、全く無味無臭で面白く感じられないだろう。
というのも、わたし自身が身体的な政治を引き受けることによって、初めて政治というものが実体を持ち、機能すると考えているからだ。
たしかに、実体の身体的な政治は、成田氏からすれば、遅く、愚鈍で、問題を大量に内包しているだろう。
それでも、そうあることでしか、政治というものは存在しないのではないか。
だからバーチャルな、肉体のない政治に、わたしは猜疑心しかない。
しかし、その点は差し引いて、あえてバーチャルであることを受け入れれば、面白く読むことができるかもしれない。
おわり
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