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デレラの読書録:大江健三郎『同時代ゲーム』


『同時代ゲーム』
大江健三郎,1984年,新潮文庫

物語を語ることそれ自体を描いているのではないだろうか。

主人公の僕は、四国の山奥にある故郷の神話や歴史を、父(神主)からスパルタ的に教え込まれていた。

主人公・僕は故郷を「村=国家=小宇宙」と呼び、その神話と歴史を六通の手紙にしたためる。

手紙の宛先は双子の妹である。

手紙をしたためるという形式、また神話を書くこと、また歴史を書くという形式が、物語を語ることそれ自体に通じている。

つまり、物語とは、あるいは物を語ることとは、誰かに手紙を書くようであり、神話、歴史を伝えることであるということ。

言い換えるなら、物語を語ることは、フィクションの構築でもある。

矛盾した言い方になるが、リアリティのあるフィクションを構築することが、物語を語るということである。

「あったか無かったか知らねども、昔のことなれば無かった事もあったにして聴かねばならぬ(p.511)」とは父(神主)の言葉だ。

妹宛の六通の手紙として書かれたこの小説は、主人公・僕の故郷(村=国家=小宇宙)の根源的な出来事(神話)や、故郷とその外部(大日本帝国)との戦争(村の歴史)や、僕の思い出の出来事(僕の歴史)が重厚に並列的に書き連ねられる。

それらはフィクションであり、偽史であり、象徴的な神話だ。

重厚に並列的に書き連ねられた偽史はどのようにしてリアリティを確保しているか。

細部の描写はもちろんであるが、それだけではない。

この小説は「私小説的構造」によってリアリティを確保している。

私小説というのは、ようは、作家=主人公であると読者に思わせるような書き方である。

手紙という形式が「小説の筆者・大江=手紙の書き手としての主人公・僕」という私小説的な構造を読者に想起させる。

しかも主人公・僕の故郷が四国であるという設定は、大江の故郷が四国である事実に符合する。

この私小説性が偽史を、リアルな物語に昇華する。

では、主人公・僕=大江なのか、と言われればそう単純ではない。

もはや、父(神主)もまた大江であり、登場する科学者も大江であり、帝国軍人も大江であるのではないか。

登場人物が多かれ少なかれ大江と符合するように感じられる。

他方で、この物語は、ある種の狂気の物語でもある。

それは、どのような狂気か。

西洋的な論理性を内破させる狂気である。

四国の森がその狂気性そのものを担っている。

天と地、イデアと似像、太陽と地上、光と影、真と偽、生と死といった西洋的な論理的二項対立を内破させる「森という狂気」である。

森は常に二項対立の枠を溢れ出る。

主人公・僕が「森」に遍在する「(神話の登場人物としての)壊す人」と合一しようとしたとき、僕は狂気に身を委ねることになる。

その突飛さは、偽史と神話と私小説の力を借りて必然性を帯びる。

わたしの感想が奔走している、やや、まとめよう。

大江は『同時代ゲーム』において、物語を語ることそれ自体を描いている。

それは手紙という形式、神話・歴史を描くという形式によって表現され、私小説を描くという形式において、そのリアリティを確保している。

では何を物語っているのか。

それは西洋的な論理性、あるいは二項対立的な論理性を内破させる「狂気」である。

大江は狂気を物語っている。

狂気は、太陽と地上の二項対立を攪拌する「森」である、とされる。

そう、この小説では二項対立の内破が描かれているのだ。

二項対立は、わたしとあなたという、此岸と彼岸に集約される。

このわたしとあなたを内破させるべく、大江は私小説という形式を使って、あらゆる登場人物となって自らを登場させているのではないか。

「わたし=大江」を多数の登場人物に分裂させる。

「わたし=大江」の内破としての狂気である。

狂気を語るということ。

狂気に時間と空間を与えるということ。

自分を複数の登場人物に分裂させるということ。

内破すること。

神話化し、歴史化し、物語化するということ。

それ自体について。



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