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なんでも食べることが取り柄

私は職場で余った食べ物を食べる係のようになっている。事務所に行くと自分のデスクに「お供え」と称して、誰も食べないモノが置いてあったりする。
ありがたくいただく。

私は好き嫌いがない。食べ残しや封の開いたものにも偏見がない。食べ慣れないものにも好奇心を発揮できる。

つまり、口いやしい。

オヤツでもオカズでもなんでも食べるので、「食べないけど捨てるのは勿体ない」と勿体ない女子の廃棄行動の一歩手前に私の存在がある。私が要らないものは、捨てる、という雰囲気だ。

いただきものは、なんでも有り難くご馳走になる私だが、実はちょっと食にこだわりがある事は、あまり知られていない。

普段はややこしい事は何も言わないが、自分の城(自宅)では自分の好きにこだわっている。

学校では弥生時代に稲作が伝来したと習ったが、稲籾の遺跡発掘は6000年前とも12000年前とも言われており、陸稲の栽培はすでに縄文時代から行われていた説がある。

縄文時代の炭水化物である木の実に負けず、陸地にたわわに実ったヒエやきび、アワなどの雑穀は栄養価が高い。
戦後はなぜか小鳥の餌になってしまい、人間は食べなくなったけれど、古代からのスーパーフードだ。

現在主食となっている白米は、日本で長く税金となっていたために貴重で、精白する労力も多大、炊き上げるエネルギー消費も多いことから、その動力が技術化され、白米のみのご飯が広く一般的に主食となったのは(ハレの日のご馳走でなくなったのは)戦後だと聞いた。

この柔らかく甘く美味しい精白米は残念なことに血糖値を上げ、脳卒中や心筋梗塞などの動脈硬化による病気が起こるリスクを高める可能性があることが、数多くの研究から報告されている。
やはり、ハレの日のご馳走なのである。

そのようなことから、私は国産の玄米、アワヒエきび、麦に豆類を混ぜて炊いたご飯や、蕎麦、全粒粉を混ぜてパンを焼いたり、燕麦のオートミールを家での主食にしている。

野菜は地産のものを毎週農家から買う。
酵素を摂るために、果物のように生でも頂くが、蒸して食べることも多い。自家製の(塩にこだわりがあるため作るのだ)塩麹をかけていただく。
また発酵食品として、乾燥大豆から納豆を作り、野菜の糠漬けや麹漬けを作る。調味料もきちんと発酵しているもの、できるだけ昔の手法で素朴に作っているものを選ぶ。
油も人間の体温でサラサラと溶けるような油、酸化しにくい油を中心に摂り、マーガリンなどの腐らない精製物質は自宅には置いていない。

動物性のものは食べる機会が少なくなっている。
魚は生命力を丸ごといただける、頭や腹をそのまま食べるような小さなものを選び炊くのもいい。あとは有精卵や平飼いの鶏の卵を時々いただく。

加工食品は表示が多すぎるもの、良くわからない添加物が入っているものは買わない。

そうなると、家では食にこだわりを持っているのに

人に貰ったもの(添加物、精製油、精白物質のかたまり)をなぜ喜んで食べるのか、ということになる。

ここが、私の真のこだわりどころで

私の娘たちも、自分の好きなものをたべる。
ジャンクフードだろうが、スナック菓子だろうが好きに食べている。

でも、私の料理を食べることもある。
なんでもいいのである。

こだわりというものは本当に窮屈で否定を生んでしまう。否定は、善悪を生む。
世界は混沌としているからこそ優しい。

手作り食品もいいが、私が暮らしているのは街中だ。排気ガスがあり、電化製品があり、携帯やWi-Fiから電磁波が飛び交う現代の便利な世の中に生きている。
決して未開な土地でも山奥の清らかな土地でもない。

ここで暮らす私には、雑食が必要だ。
仕事に行けばストレスがかかる。ストレスの緩和にはカフェインや糖類などジャンクな栄養が必要だ。
ここで生きるには体に毒も薬となるだろう。

自分がその時に必要とするもの
それが正解だと信じている。


私は自宅では安心感を重視しているので、過度なエネルギーや闘争心、敗けへんど!という気概は必要ない。植物性中心の落ち着く食事をしていたら、リラックスしやすい。
けれど仕事ではモードが切り替わる。ときには肉もムシャムシャ食べたくなる。ステーキでも中華料理でもガッツリ食べる。
甘いものを延々とむさぼることで、やっと一息つけることもある。

あくまでも、私のために必要な食事だ。
健康になるために食事に主導権を握られて自分の意思とは関係ない食事を摂ることは、私の今の生き方には少し合わないと思っている。

私は食べることが好きなので、何を食べたいか自分に訊くことも好きだ。自分が自分の願いを叶えてあげられることに、満足している。

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