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有限と形ないもの

先日、映画「海の上のピアニスト」を観に行った。私は自分の思春期を思い出しながら映画を見ていた

私には9歳上の兄がいる

私は10歳くらいになるまで兄の言うことはすべて正しいと思っていた
私ができないことは何でもできて、何でも知っていてすごいと思っていた

実際彼は頭の回転は早いほうで
私とは正反対で弁が立つタイプだ
少しわかりにくいけど優しい性格だと思う

私が女子児童特有の煩わしい人間関係に悩んだときはいつも真剣に相談に乗ってくれた
クリスマスはデートを早めに切り上げて家に帰り
私と一緒にケーキを食べてくれた
私が風邪をこじらせて入院したときは、飽きないようにCDや本を持ってきてくれた

私は小学校を卒業してからそんな兄に反抗するようになった。今にして思えば、強烈な自我が芽生えた時期でもあったように思う

今まで兄の言いなりになっていたけどもう違う。自立した私を見せたいと子どもなりに思うようになった

力任せな自我が芽生えるごとに、今まで美化して見ていた兄にも欠点があると思うようになった。あ、普通の人なんだ…みたいな。兄としてではなく一人の人間としての彼を見て、疑問を持つことも多くなった

今思えば、たくさん優しくしてくれた兄に反抗するなんて嫌な妹だったと思う。私だって欠点だらけな人間なのに偉そうに、一体何が不満だったの? と思う
でも、当時は必死だった。私は自分と闘うように兄に反抗した

高校に入学した頃、鬱積した感情をぶつけてしまった日があった。きっかけは「いちいち口出ししてうるさい」みたいな、ありがちなことだ

激昂して泣いた私は、理屈っぽくてわかりやすい結果ばかり求める完璧主義な兄に、こんなことを言ってしまった

「すべてに対して正解を求めすぎる性格が嫌い。世の中も人間も、あなたが思うほど正しく順序よくできていない。自分だって完璧な人間ではないでしょう。人に対して求めすぎる。いつまで理想家みたいなこと言ってるの」


兄は黙ってしまった。何に対しても言い返して私を言い負かしてきた彼が、目の前で面食らった表情で黙っていた

そのとき私は「勝った」とは思えなかった。爽快感なんてまったくない。ただただ気まずかった


映画「海の上のピアニスト」に話しを戻そう

劇中に1900(ピアニスト役の名前)が言うセリフを聞いて、私は思春期の頃に兄に言いたくて言えなくて、いつも心に引っかかっていたことはこれだと思った

「陸で生きる人間は理由ばかり求める」
「大事なのは見えるものよりも、何が見えないか」

「あの大きな街  終わりがなかった。あの巨大な町 すべてはあったがその終わりは? 終わりはどこに?すべてのものの行き着く先が見えなかった  世界の終りが…
ピアノは違う。鍵盤は端から始まり端で終わる

鍵盤の数は88と決まっている

無限ではない 弾く人間が無限なのだ

人間の奏でる音楽が無限。そこがいい。納得がいく

無限の鍵盤で人間の弾ける音楽はない。あの町を縦横に走る数えきれないほどの道、その中から一本の道を選べるか? 終わりのない世界が上からのしかかってくる。そこで生きていく? 考えるだけで恐怖に潰される

無限じゃない鍵盤で自分の音楽を創る幸せ。それが僕の生き方だ」


あのとき黙ってしまった兄を見て、私が気まずくなった理由もわかった。ただ怒りをぶつけただけの自分に気づいたからだ。そう、私は成長したつもりになっていた。実際はただ反抗しているだけの子どもだった

今、私はそんな時期をとうに過ぎて社会人になった。日々売り上げを求める仕事をする過程で、いつの間にか私も「目に見えるわかりやすい結果」ばかり追ってしまいがちだ。数字を追う仕事には終わりがない。もっと多く、より高く、さらなる成長。無限に求められる。達成できなければ理由を追求しないといけない。自由資本主義社会で生きるとはそういうこととわかっていても、心がすり減ってしまうときがある


映画は正解がわからない、せつない結末を迎える

「正解ばかり求める世の中が、人生が、ほんとうに幸せなのか。形あるものだけが正しいのか」

創造も人生も有限だからこそ豊かになると伝えた1900は、今日も私に問い続けている

あの日、私が兄にぶつけたように。


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