ものがたり屋

ものがたり屋 壱 二月十四日

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。
 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

    二月十四日

「写真、プリントアウトしてきましたよ」
 午前中の会議が終わりデスクへ戻ったところで、遠藤に声をかけられた。
 二年後輩にあたるやつだが、素直で、人当たりも柔らかく、妙に気の合う男だった。
 ふたりで窓の近くにあるミーティングスペースへいくと、その写真を見た。
 昨日の夜、遠藤の彼女とその友だちの女の子と渋谷にある店で飲んだときの写真だった。彼がデジカメで撮ったものをプリントアウトしてきてくれたのだ。
 四十枚ほどあっただろうか。中にはいったい何を写したかったのか訳の判らないものもあったが、楽しかった飲み会の様子がそのままプリントアウトされていた。
「あれ? 川元さん、なかなかいい雰囲気だったんですね」
 遠藤がそういって、一枚の写真を指さした。
 僕の横に女の子とがぴったりと寄り添って写っていた。少し俯き加減だったが、きれいな子だった。けれど──。
「この子、誰だっけ?」
「え? 覚えていないんですか。いやだな」
 遠藤は茶化すようにいったが、まったく覚えがなかった。
「マジで覚えていないんだ。誰だっけ、この子」
 そう尋ねると、遠藤はその写真を手に取り、まじまじと見た。
「初めて見る子ですね、そういえば」
「彼女の友だちだろ?」
「そのはずなんだけど……。そうだ、昼めしいっしょに食べることになっているんで、川元さんもどうです。写真を見せることにもなっているし」
 どうしたものか──ちょっとの間考えたが、いっしょに行くことにした。写真のあの子の表情が気になってしようがなかったからだった。

 表参道の奥まったところにあるパスタの店には、遠藤のガールフレンド、怜奈がもうひとりの子と来ていた。確か、麻美というはきはきした子だった。
 彼女たちの向かい合うように座ると、遠藤が持ってきた写真を手渡した。ふたりはその写真をいっしょに見ながら、くすりと笑ったり、小さな声で囁きあったりしていた。
 やがて注文した品がテーブルに並べられた。それぞれ思い思いにフォークを手に取ると、食事をはじめた。
 その時、突然、金属質の音が響いた。
 写真を見ながら器用にパスタを口に運んでいた怜奈が、フォークを皿の上に落としてしまったのだ。
「おい、なんだよ」
 咎めるような口調の遠藤を、彼女は睨みつけていた。
「なんなのこの写真。冗談にもほどがあるわ」
 そういうと怜奈は写真を叩きつけ、店を出ていってしまった。
 食べかけの皿の横には一枚の写真があった。僕があの女の子と寄り添うように写っていた。

 怜奈がどうしてあんなに怒ったのか。その理由が判ったのは、その日の夜のことだった。いっしょに店に来ていた麻美から電話があったのだ。
「昼間はごめんなさい。怜奈も謝っていたわ」
 そう切り出した彼女の話は、しかしできれば聞かずにすませることができたら、と思うような内容だった。
 写真に写っていたあの子、早苗は、怜奈の高校時代の友だちだった。新潟から進学のために東京に出てきたふたりは、通う大学こそ違ったが、仲もよく、普段からなにかと連絡しあっていたのだという。
 休みの日にはお互いのアパートを行き来することも多かったらしい。それぞれにボーイフレンドができれば紹介し合い、いっしょにデートを楽しんだりする仲だったのだ。が、就職を境に、少しずつ会うことが少なくなっていった。勤務時間や仕事の都合もあり、時間が合わなくなり、いつしか互いに電話することも稀になってしまった。
 疎遠になってしまったふたりの間を流れる時間は早い。
 会わなくなってからどれぐらい経ったのか、早苗の実家から突然電話がかかってきたのは昨年の二月。早苗が病気のために亡くなったという知らせだった。
 いわゆる突然死だったらしい。連絡もなく長期間に渡り休んでいたため、会社から実家に電話があり、家族が彼女のアパートに駆けつけたときには、すでに死後数週間経っていたとのだという。
「とにかく、どうして電話一本してやれなかったんだろうって。怜奈はものすごく悔やんでいたの。だから、ちゃんとした事情を知らない遠藤君がイタズラをしたんだと勘違いしたらしいの」
 電話を切ると、僕はリビングの隅にある椅子に座り込んでしまった。
 ブリーフケースからあの写真を取り出すと、もう一度、早苗の顔を見た。俯き加減のその頬のあたりに浮かぶ笑みが淋しげだった。
 でも、どうして死んでしまった子がここに写っているんだろう? その疑問に答えることはできなかった。
 僕はパソコンデスクの抽斗を開けると、そこに写真をしまった。いずれなにかの機会を見つけて処分しよう。どこからのお寺にでも任せれば、きっときちんと処分してくれるだろう。

 翌日の朝、出社した僕を見つけると、遠藤が青白い顔で話しかけてきた。
「昨日はいろいろとすいませんでした」
「いいんだよ、誰かのせいってわけでもないんだし」
「それで──」
 遠藤はなにかいいかけると、不安そうな面持ちであたりを見回してから続けた。
「気になって、夜、データを調べたんですよ。デジカメのデータをもう一度。そうしたら、写っていないんです……」
「なにが?」
「彼女。早苗っていう子ですよ。どのデータにも写っていないんです。あの川元さんが写っているデータにも」
「どういうことなんだ?」
 遠藤は困ったような顔をすると、ただ首を横に振った。
「自分で確かめてください。ここにデータをコピーしてきましたから」
 遠藤からMOを受け取ると、自分のパソコンを起ち上げて、すぐにデータを確認してみた。
 僕と彼女が寄り添うように写っていたはずのデータに彼女の姿はなく、ただ僕がひとりだけで写っていた。もちろん他のデータもしっかりと確認した。しかし、どこにも彼女の姿は写っていなかった。
 いや、写っていなくて当然なのだ。彼女はもうこの世にはいないんだから写るはずがない。なら、なぜあの写真が──。
「昨日プリントアウトした写真にだけ写っているということか……」
 すぐ横でいっしょにデータを見ていた遠藤に話しかけると、彼はただ頷いた。
「何枚プリントアウトしても、もう彼女の姿は写らないんです」
「どういうことなんだ?」
 強めの口調に驚いたのか、遠藤はいやいやするように首を左右に振りながら答えた。
「そんなこと……オレにもわからないですよ」
「そうだな、すまん」
「あの写真は?」
「家のパソコンデスクの抽斗にしまってある」
「あれ、御祓いしてもらった方がいいですよ、絶対に」
「ああ、そのつもりだ。ありがとう」
 そういってペンを取ろうとデスクの抽斗を開けた瞬間、僕は凍りついてしまった。
 会社のデスクの抽斗に、あの写真が入っていた。自宅のパソコンデスクの抽斗に、確かにしまったはずのあの写真が。
 俯き加減の早苗の視線を感じた僕は、思わず抽斗を閉じていた。

 その日、会社からの帰りに遠藤と怜奈の三人で会うことにした。いまなにが起こっているのか。それを知るためのヒントでも得られればと思ったからだった。
 一番知りたいいことは、どうして、ということだった。どうして僕に寄り添うように早苗が写っているのか? どうしてあのプリントアウトにだけ写っているのか? どうして自宅にあるはずの写真が会社のデスクの抽斗に入っていたのか?
 どうして──。
 僕たちは待ち合わせのときによく使うカウンターバーにいた。渋谷の道玄坂にある静かな店だった。らせん階段を降りたところに入り口があるため、人の出入りも激しくない。その隅にある小さなテーブルに、互いに視線を合わせることなく座っていた。
 こうして会ってはみたものの、なにを誰に訊いたらいいのか? わからなかった。
 やがて遠藤が今朝のことを話し始めた。淡々とした遠藤の口調に、怜奈はただ俯いたまま話を聞いていた。その両手にはハンカチが握りしめられていた。デスクの抽斗を開けると写真が入っていたと遠藤が話すと、ハンカチを握りしめる手にギュッと力が入ったのが判った。
「彼女はどんな子だったの?」
 遠藤の話が終わりしばらく経ってから、僕が口を開いた。
 顔を上げた怜奈は僕をじっと見つめるとやがて困ったような顔をしてまた俯いてしまった。
「ごく普通の子よ」
 怜奈はゆっくりと、小さな声で答えた。
「明るくて、気さくで、やさしい子だったわ。学校の成績だっていい方だったし、なにか変わったところのある子じゃなかったわ。どこにでもいる普通の子よ。写真を見たでしょ。あの通りきれいな子だったから淋しい思いなんてしたこともないし……。最期は別にして……」
「それじゃ──」
 遠藤が口を挟んだ。
「どうしてあのプリントアウトにだけ写ったんだ?」
「そんなこと──そんなこと、わたしに解るはずないじゃない」
 怜奈の声は少し震えているようだった。
 そうだ、それは誰にも答えられるはずなどないのだ。
 そして、重い沈黙だけが続いた。
 やがて僕らはその店を出た。それぞれが、姿の見えない不安のようなものを抱えたまま、駅へと向かって歩いていた。
「そういえば、明日は二月十四日だっけ……」
 どこかのショーウインドウを見て呟いたのだろう。遠藤の何気ないひと言が、僕には不吉な予言のように聞こえてならなかった。

 メールのチェックを済ませると、僕はパソコンデスクを離れ、リビングでバーボンの水割りを飲みはじめた。
 しばらくの間、理由もなくただテレビを見ていたが、やがて今日起こったことを知らず知らずのうちに反芻していた。もう一杯水割りを飲んだところで、気になっていたことを確かめることにした。
 まずブリーフケースの中を見てみる。そこには、今日、会社のデスクの抽斗に入っていたプリントアウトがあった。取り出して、見直してみる。僕に寄り添うように早苗が写っていた。最初見たときと同じように、彼女は少し俯いていたが、その目だけはカメラをしっかりと捉えていた。きれいな子だったが、どことなく淋しげな翳を感じた。それは、彼女の最期を知っているからかもしれなかった。
 そのプリントアウトを持ったままパソコンデスクへ。
 この写真は、確かにこの机の抽斗にしまったはずのものだった。なのに今朝、会社のデスクの抽斗に入っていたのだ。
 だとしたら、パソコンデスクの抽斗にはなにが入っているんだろう……。
 写真をデスクの上に置くと、ゆっくりと抽斗を開けた。
 そこには──。
 なにも入っていなかった。昨日、ここに入れたはずなのに、写真はなかった。だとしたら、ただ単に僕の勘違いだったのだろうか。はじめから会社のデスクにしまっておいたのだろうか?
 答えのない問題を解いているような気分になり立ち上がろうとしたとき、パソコンの画面に意外なものが表示されていることに気づいて、僕はその場に凍りついてしまった。
 画面にはスクリーンセーバーが映っていた。設定した覚えのない伝言板のスクリーンセーバーだった。そこにはメッセージが書きこまれていた。
「バレンタインデー、楽しみにしていてね──早苗」
 ただ静かに文字が右から左へと流れ続けた。

 出社するなり遠藤を捕まえるとことの顛末を話した。顔面蒼白になる遠藤にすっかり慣れてしまった気がする。
 彼が撮った写真が原因だから責任を感じているらしい。よろけるように自分の席に戻ると、見ているのも気の毒なほどうなだれてしまった。
 どうしてなのか──その答えはきっと誰にもわからないだろう。もしかしたら写真に写ってしまった当の本人にも……。なぜなのかを必死に考えたとしても、どうすべきなのか結論がでるはずもない。
 では、僕はどうしたらいいんだろう?
 ただ、ことの成り行きをただ見ていることしかできないんだろうか。
 結局、なんの考えもまとめることができず、退社時間を迎えてしまった。このトラブル──としかいいようがないからそう呼ぶことにするけれど──のお陰で仕事は溜まる一方だった。昨日も今日もなにひとつ手をつけられずにいた。
 本来なら残業すべきなんだろう。けれど、会社に残ることはしたくなかった。正直、怖いのだ。この広いフロアに独りっきりでいるのは嫌だった。
 だからといって、真っ直ぐ帰る気にもならなかった。
 バレンタインデーの飾り付けを横目で見ながら、見知らぬ店で食事を済ませ、適当にぶらついてから、帰ることにした。
 中途半端な時間だったからか、電車は思ったほど混んではいなかった。僕はドアの横に立ち、ガラスの向こうに流れる夜の街並みを見ていた。
 街灯に照らされた道を車が走る。無表情なビルがしばらく続いたかと思うと、やがてときおり暖かい温もりを感じさせる家々が見えるようになってきた。賑わいを見せる商店街があれば、静まりかえった街が流れていく。
 流れていく景色がふいに途切れ、暗がりが続いた。多摩川だった。川の流れはただ黒く目に映り、その川面は闇に溶けているようだった。その向こうにライトを点けた車が橋を渡ったいるのが見えた白いヘッドライトと赤いテールランプが交差してきれいだった。
 視線を再び川面に移そうとしたとき、それが見えた。
 一瞬のことだったからいったいなにが見えたのか、よくわからなかった。いや、わかりたくなかったのかもしれない。改めてドアのガラスを見ると、そこには反対側のドアが映っていた。
 そしてそこには、俯いた早苗が立っていた。
 思わず振り返った。
 けれど、反対側のドアのところには誰もいなかった。当たり前の話だ。こんなところに早苗がいるはずがない。気が滅入っているんだ。そう思い直し、再びドアのガラス越しに外を見た。多摩川を渡り終え、街並みが見えた。
 そのとき、背中に視線を感じた。あまり気持ちのいい視線ではなかった。絡みつくような、それでいて冷たい視線。
 ガラスを見てみると、反対側のドアのところで早苗が笑っている。
 回りにいる人たちが驚くほどの勢いで、僕は振り返った。もちろん、そこには誰もいなかった。あの視線も消えていた。その代わりに回りの人たちの訝しげな視線だけがあった。
 立っていられなくなった僕は、空いた席を見つけると座った。
 背中をシートに強く押しつけると、ただ俯いて降りる駅に着くまでじっとしていた。

 改札を抜けると足早に帰宅を急いだ。
 いつもとはどこか違った夜だった。なにかよそよそしげな闇が、そこにはあった。普段ならもっと人通りが多いはずなのに、今夜に限って妙にひっそりとしている。街灯と街灯の間がやけに遠く感じた。その間になにか意志を持った暗がりがあるようで、僕を神経質にさせていた。
 自分の靴音がやけに大きく聞こえる。ときおり、その音に他の誰かの靴音が混じっていないかと耳を澄ませてみる。暗がりから、ふいにあの俯き加減の淋しげな笑顔が浮かび上がってこないかと、びくつきながらかなりのスピードで歩いた。
 最後には走り出しそうになっていた。
 マンションに着くと、オートロックの解錠ももどかしく、自宅に文字通り飛び込んだ。そのまま何度も確認して鍵をかけてから部屋へ入った。もちろんチェーンもしっかりとかけておいた。

 ブリーフケースを投げ出すと、ソファーに崩れ落ちるように倒れ込んだ。しばらくの間、なにもすることができなかった。頭は混乱していて、電車での出来事を振り返ろうとしたが、順序立てて起こったことを思い出すことすらできなかった。
 とにかく落ちつくんだと自分に言い聞かせながら、飲み物を探した。けれど、なにを飲んだらいいのか、うまく判断することができなかった。
 仕方なくグラスを氷で満たすとバーボンを注いで、そのまま一口飲んだ。アルコールが熱い引っ掻き傷を残すようにしながら、喉から胃へとゆっくりと墜ちていった。
 そのときチャイムが鳴った。
 マンションの入り口のチャイムだった。
 慌ててリビングのモニターで誰か確認しようとしたが、姿はなかった。
 もう一度チャイムが鳴る。
 けれどモニターにはなにも映っていなかった。文字通り食い入るようにモニターを見ていた僕は、信じられない音を聞いた。カチリとロックが解かれた音だった。すぐに入り口のドアが開き、歩き出す靴音がモニターを通して聞こえてきた。
 誰かが、マンションに入ってきたのだ。
 でも、どうして──。愚問だった。電車のガラスに映る彼女を見たときから、わかっていたはずだった。きっと、僕のところへ来る。彼女はそのつもりだったのだ。だから同じ電車に乗り、そして駅からここまで歩いてやってきたのだ。
 玄関まで駆け出すと、ドアに身体を預けるようにしてあたりの様子を探った。
 誰かが廊下を歩いていた。ハイヒールのかかとが刻みだす高い音が響いていた。
 堪らなくなった僕は、覗き穴から廊下を見た。そこには誰の姿もなかった。けれど、確実に近づいている。ハイヒールの靴音が一歩一歩、大きくなっていた。
 そして──立ち止まった。
 玄関のチャイムが鳴る。何度も。
 僕は聞いていられなくなり、両耳を塞いでいた。
 やがてチャイムの音が止んだ。
 耳を塞いでいた手を離し、ほっと一息ついたとき、背後に気配を感じた。
 今までに嗅いだことのない香水の匂いがした。そして、聞いたことのない微かな笑い声。
 振り返ったとき、彼女はそこにいた。そして僕は──。

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気づかなかった身のまわりにある隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

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 いままで通り毎週、各話を新規に公開していきますが、合わせてこの総合ページも随時更新していこうと思います。
 シリーズを通して読み直したい、そんなことができるようになっています。ぜひもう一度、頭から読み直してください。
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