ものがたり屋 壱 総合ページ
うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。
気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。
そんなものがたりを集めたのが、この「ものがたり屋」です。
いままで気づかなかった暗く、そして怪しいなにかを、存分に味わってください。
●扉
扉だった。
それはまぎれもなく扉だった。
なぜ、こんな場所に、しかもいつから扉があるのか、さっぱり解らなかったが、確かにそこに扉があった。
JR渋谷駅の改札から、東横線の乗り場へ向かう通路の途中、いくつも並ぶ広告の間に、その扉はあった。
駅員が使うんだろうか、それともデパートの通用口なんだろうか。いずれにせよそれは、そんな類の扉としてはそぐわないものだった。
通用口の扉なら、少なくとも外観をそこなうことがないように、壁と同じような色にするか、目立たない金属製のものにするはずだ。
その扉は、重そうな木製のものだった。
私は首をひねりながら、東急文化会館の方へ抜け、クライアントの会社へと急いだ。五月晴れが梅雨空へと変わる頃のことだった。
●雪
割り勘で支払いを済ませると外に出た。
冷たい風が火照った頬に気持ちよかった。
もう一軒どうだと誘われたが、さすがにこれ以上は飲めそうになかったので断った。次の店へと歩き出した友人たちに手を振ると、俺はフラフラ歩き始めた。
路地から、ブロードウェイに通じるサンロードに出ると、駅を目ざして歩いていく。
久しぶりだった。大学時代の友人たちと飲んだのも久しぶりなら、あの店で飲んだのも久しぶりだった。大学時代によく通った店だったからか、ついつい飲みすぎてしまった。
こんなに酔っぱらったのも久しぶりだった。
「みんなで久しぶりに飲らないか」
●二月十四日
「写真、プリントアウトしてきましたよ」
午前中の会議が終わりデスクへ戻ったところで、遠藤に声をかけられた。
二年後輩にあたるやつだが、素直で、人当たりも柔らかく、妙に気の合う男だった。
ふたりで窓の近くにあるミーティングスペースへいくと、その写真を見た。
昨日の夜、遠藤の彼女とその友だちの女の子と渋谷にある店で飲んだときの写真だった。彼がデジカメで撮ったものをプリントアウトしてきてくれたのだ。
四十枚ほどあっただろうか。中にはいったい何を写したかったのか訳の判らないものもあったが、楽しかった飲み会の様子がそのままプリントアウトされていた。
「あれ? 川元さん、なかなかいい雰囲気だったんですね」
遠藤がそういって、一枚の写真を指さした。
僕の横に女の子とがぴったりと寄り添って写っていた。少し俯き加減だったが、きれいな子だった。けれど──。
「この子、誰だっけ?」
●最終電車
打合せが終わったのは、日付が変わってすぐのことだった。
タクシーを呼びましょう、と先方はいってくれたが、江口は固辞した。入社以来、経理しかやったことのない彼は、社外での打合せに慣れていなかった。しかも相手はプログラマーだった。固いイメージのある職種を務めているにしては、それでもさばけた方だという思いがあったが、プログラマーはまったく別の生き物だった。
やることなすことが理解できず、会話もままならなかった。そんな雰囲気の中で、長時間ひざを突き合わせて打合せたのだ
息の詰まる思いでなんとか耐えた彼は、とにかく早く外に出て、新鮮な空気が吸いたかった。
──なんだってわたしが。そう、わたしがこんなことをしなきゃいけないんだ。
もう何度も込み上げてきた思いを胸の内にこぼした。
●遠くて青い空
最初に目に飛び込んできたのは、遠くに見える丸い青い空だった。
いったい自分の身になにが起こったのか、まったく解らなかった。ただ遠くに空が見える変わりに、あたりは暗かった。
背中を思い切り打ちつけたらしい。痛かった。両手をつき、仰向けのまま体を起こそうとしたが、すぐに起きることができなかった。
なんとか上半身だけ起こすと、賢司は両手を目の前に広げて見てみた。確かに暗かったが、なにも見えないというほどではなかった。
あたりを何度も見てみた。
すると、すぐに近くでむっくりと起きあがる影のようなものが見えた。
恐る恐る四つんばいになって賢司は近づいてみた。
すぐ間近まで這っていくと、手を伸ばそうとした。
●棘
あらかじめ立てておいたプランを、何度も何度も頭の中で繰り返しシミュレーションしてきた。
そのお陰か戸惑うことはなかった。
確かに思っていた以上に脈拍は早くなり、心臓の鼓動も激しくなっていた。けれど、それが元でトラブルになるようなことはなかった。
栗原は林を抜けると、あたりを見回してから、ゆっとりと車に戻った。
ポケットからキーを取り出す。
鍵穴に差そうとしたが手が震えていて、簡単にはいかなかった。慌てているわけではない。きっと慣れないほど重いものを担ぎ上げたからだ。
自らにそう言い聞かせると、大きく深呼吸をしてから、もう一度キーを差し込んだ。今度はすんなりといった。
ドアを開けると、ドライバーズシートに滑り込むように腰を降ろした。そのままエンジンをかける。
が、すぐには発車しようとはせず、ハンドルに両手をかけたまま、ぼんやりと前を見ていた。無灯火だから当たり前の話だが、あたりは真っ暗だった。きっと夜空を見上げれば瞬く星が見えただろう。しかし栗原にそんな心の余裕はさすがになかった。
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