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ものがたり屋 参 釦 その 2

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

釦 その 2

 それは滔々とした流れ。
 立ち止まることの決してない流れ。
 けれどその一瞬を切り取ることができたら?
 それでも流れは止まらないのだろうか?

「なんだか草臥れてないか?」
 夕方近くのカフェエリアでぼんやりと外を見ていたら、いきなり声をかけられた。
「草臥れてなんかいないさ」
 ぼくは椅子に座り直した。
「でも、疲れてるみたいだぜ」
 そういいながらぼくと向かい合うように腰を下ろした。柿野大樹だった。ちょっと骨張った顔に巻き毛が印象的な男だ。ぼくと同じ史学科のやつで、ときおり話をしたりする間柄だった。
「なぁ、草加部狙ってるんだろ?」
 手にしたカップを弄ぶようにしながら柿野がぼくの眼をじっと見た。
「なんの話だよ」
 ぼくはちょっとどぎまぎしながらテーブルに乗ったカップに手を伸ばした。
「草加部紗亜羅だよ。あの娘、目立つもんなぁ。いろんな奴が狙ってるって話だぜ」
 ぼくは黙ってカップに口をつけた。ブラックの珈琲がほろ苦い。
「お前ときどき彼女と一緒にいたりするだろ。だから、お前のことをあれこれ話してる奴もいるんだ。つい耳に入っちゃってさ」
「なんだよ、それ」
「ほら、ここで一緒にランチしたりとか、公園にいたりとかさ」
 柿野はカップに口をつけた。
「しまった。砂糖入れ過ぎちゃった」
 柿野はひとりごちると、またぼくの眼をじっと見つめた。
「まぁ、惚れてるなら惚れてるでいいけどね」
 ──そうだよ、勝手にさせておいてくれ。
「しかし、意外な組合せだよな。ふだんから目立たないお前がさ、草加部となんて。ほら派手な感じするもんな、あの娘」
 ぼくは思わず柿野を睨めつけた。
「正直な話だぜ。でも、やっぱりお前どこか疲れているよ」
 柿野はそれだけいうとカップを手に立ち去っていった。
 ──疲れてるか……。
 それにはそれなりの事情があるんだよ。そういってやりたかったが、しかしきちんと説明できないことでもあった。いや、説明しても解らないだろうな。
 カフェエリアのガラス越しに、秋の柔らかな陽射しが飛び込んでくる。傾きかけたその陽射しがすべてのものをオレンジ色に輝かせていた。
 この前、公園で観た紗亜羅の横顔がふいに浮かんでくる。あんなに綺麗な娘と親しくなる機会なんてきっと二度と来ない。
 ──でも、意外な組合せだよな。
 柿野の言葉が胸の裡に波紋を広げていく。
 ──だからなんだよ。ぼくは紗亜羅のことが大好きなんだよ。
 軽く下唇を噛みしめると、ぼくは紗亜羅の姿を見ることができなかったカフェエリアを後にした。

 風がすこし冷たく感じられる。公園の木立も枯れ葉が目立つようになってきた。やがて一面を覆う枯れ葉の上を歩くことができるようになりそうだった。
 陽射しの温もりが心地いい。公園のベンチには陽だまりができていて、風の冷たさをそこまで感じることはなかった。ちょうどその陽射しが当たる場所にぼくと紗亜羅は身を寄せるように座っていた。ジャケットを通して触れあっている部分をぼくは意識しながら紗亜羅の横顔を見つめた。
 傾きはじめたオレンジ色に染まりきった陽射しがその横顔を美しく輝かせている。いつまでも見つめていたい紗亜羅。この瞬間を永遠に心に刻み込んでしまいたくなる。
「前にいってたよね、映画観たいって」
 紗亜羅の視線を意識しながらぼくは口を開いた。
「そうだっけ」
「バリバリのアクション映画が好きだからって」
 紗亜羅は一瞬小首を傾げてそれから思いだしたように頷いた。
「そうそう、ちょっと観たいなって思ってる映画があるの。だれに聞いたんだっけ」
 紗亜羅は腕組みをはじめた。
「ほら、この映画でしょ」
 ぼくはスマホで検索した画面を見せた。
「これよ、これ。『ウィズアウト』。なんかアクションがすごいって評判なんだよね」
 ぼくは紗亜羅の表情を確かめながら思い切っていった。
「明日、観にいかない?」
「明日か……」
 紗亜羅は上目遣いになって考えはじめた。
「明日じゃなくても、いいんだけど……」
 ぼくはつい口籠もってしまった。
「いいよ、明日なら」
 彼女は大きく頷いた。
「それじゃ、いま予約しちゃおう。横浜の映画館でいいよね」
 ぼくはそういってスマホで席の予約をしはじめた。
「午後にしてね」
 紗亜羅はぼくのスマホを覗きこんだ。
 ぼくは予約を終えると、スマホを紗亜羅に見せた。
「明日、映画館の前で待ち合わせでいい?」
「判った。楽しみだわ。ありがとう」
 紗亜羅の笑顔が眩しかったのは傾きかけた陽射しのせいだけじゃなかった。 

 翌日の午後。約束の時間に間に合うようにぼくは家を出た。紗亜羅と待ち合わせというだけで胸のドキドキが止まらない。しかも、大学とはまったく関係ない場所での待ち合わせだ。それは、だからデートということだ。
 ぼくは約束の時間に遅れないように一本早めの電車に乗った。
 車窓を流れる景色を見ながら、どんな一日にするか考えはじめる。もちろん、まずは映画だ。それから、できたらどこかで食事をしたい。ちょっと呑むのもいいよな。それでふたりの距離がぐっと近づけば、もしかしたらチャンスが来るかもしれない。
 ぼくは夕陽に輝く紗亜羅の横顔を思い浮かべながら、このチャンスをものにするんだと自分に何度も何度もいい聞かせた。
 そのときだった。突然急停止すると、車内にアナウンスが流れはじめた。
「お急ぎのところ申し訳ありませんが、信号事故のために停車させていただきます。現在のところ復旧に関する情報はありません。いましばらくお待ちいただくようお願いいたします」
 あと三駅で横浜だった。早めの電車に乗ったとはいえ、このまま停車が長引けば遅れてしまう。はじめてのデートだというのに、紗亜羅を待たせるのは嫌だった。
 彼女の機嫌を損ねることだけはぜったいにしたくなかった。
 ぼくはスマホで時間を確かめた。もう五分以上止まったままだった。これだと確実に遅れてしまう。
 ──駄目だ、やり直しだ。

 車窓を流れる景色を見ながら、どんな一日にするか考えはじめた。もちろん、まずは映画だ。それから、できたら食事しながら呑むのもいいよな。それでふたりの距離がぐっと近づけば、もしかしたらチャンスが来るかもしれない。
「新横浜、新横浜です」
 ぼくはアナウンスを聞くと、電車を降りた。ここで地下鉄に乗り換えることにした。ちょっと時間を食ってしまうかもしれないけど、トラブルに巻き込まれるのはごめんだ。これで約束の時間に間に合う。
 ぼくの読み通り約束の時間に間に合った。
「ねぇ、大丈夫だったの? JR停まってたんでしょ」
 ぼくの顔を見るなり、紗亜羅は心配そうに聞いてきた。
「うん。新横浜から地下鉄にしたから。紗亜羅は?」
「わたしは相鉄線だから関係なし」
 紗亜羅は微笑んだ。
 そのときだった。すぐ眼の前の交差点で激しいクラッシュ音が鳴り響いた。左折しようとしたバイクを右折してきた車が跳ねとばしたのだ。跳ねとばされたバイクは転倒したまま、歩道へと飛び込んできた。しかも、前をいく紗亜羅をさながら直撃するように。
 ──紗亜羅が危ない!
 ──一日に一度だけだ。
 心の中で別の声が響いてきた。それは冷徹ともいえる声音だった。
 ──構うものか!
 ──一度だけだ。もしそれを破ったら……。
 ──破ったら?
 ──大いなる禍を招く。
 ──それでも、紗亜羅を護るんだ!

「新横浜、新横浜です」
 ぼくはアナウンスを聞くと、電車を降りた。ここで地下鉄に乗り換えることにした。これで約束の時間に間に合う。ついでに紗亜羅にメッセージを送っておくことにした。
『映画館の中で待ち合わせしよう』
『OK』
 紗亜羅からの返信にぼくは安堵した。
 地下鉄で横浜に着くと、ぼくは映画館に急いだ。中に入ると館内のインフォメーションカウンターのところに紗亜羅がいた。
「待った?」
「ううん。わたしもいま来たところ。ねぇ、大丈夫だったの? JR停まってたんでしょ」
 紗亜羅は心配そうに聞いてきた。
「うん。新横浜から地下鉄にしたから。紗亜羅は?」
「わたしは相鉄線だから関係なし」
 紗亜羅は微笑んだ。
 そのときだった。映画館の入り口近くから衝突音が聞こえてきた。車に跳ねとばされたバイクが歩道を乗り上げて、人を巻き込んだ惨事だったことをあとで知った。映画館の前で待ち合わせしていたら大変なことになるところだった。
 ぼくたちは予約した席で映画を楽しんだ。紗亜羅はスクリーンに釘付けになり、そしてぼくはそんな紗亜羅の横顔に釘付けになっていた。
 映画が終わるとぼくたちは肩を並べて外へ出た。紗亜羅はまだ映画の余韻に浸ったままだった。
「このあと、どうする?」
 ぼくはゆっくりと歩きながら、できるだけさりげなく訊いた。
「あ、このあとね。麻美たちと約束があるんだ」
 紗亜羅は微笑みながら答えた。
「そうなんだ」
 努めて冷静に答えた。もしかしたら顔がちょっと強ばっていたかもしれない。でも、それは仕方ないことだった。
「今日はありがとう。とっても楽しかった」
 紗亜羅は立ち止まるとぼくに手を差しだした。
「また誘ってくれる?」
「もちろんだよ」
 ぼくはその手を握り返した。その手の感触をしっかりと心に刻み込むように。それは紗亜羅の素肌にはじめて触れた瞬間でもあった。例えようもない心地いいなにかに触れたようでぼくの心は震えていた。
 ここで別れるのは確かに残念だったけど、しかし紗亜羅との距離はすこしだけかもしれないけど縮まったはずだ。
 その想いを抱いてぼくは独り家路に着いた。夕闇が迫る街中を独り歩く。心は弾んでいたのに、しかし足取りはすこしだけ重かった。
 ──なんだか草臥れてないか?
 柿野の言葉が頭の中で谺する。どうやら身体中から力が抜け落ちていくような感じだった。
 酷く疲れていたのはなぜだろう?
 このときにはその理由がよく判っていなかった。ぼくは紗亜羅の笑顔と引き換えに、大切なものを失ったことをこのあと知ることになるのだった。
はじめから つづく

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