見出し画像

ものがたり屋 参 釦 その 3

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

釦 その 3

 それは滔々とした流れ。
 立ち止まることの決してない流れ。
 けれどその流れは戻すことはできないの?
 流れを止めることなく、流れは変えられないの?

 はじめてその場所へ連れていかれたのは、まだぼくが幼いころのこと。
 国道から外れて道ともいえないところを山に分け入る。子どもにはかなりハードな道ゆきだった。しばらく歩いていくとやがて視界がいきなり開ける。眼の前に広がるのは日本海だ。海岸へと降りていく。岩だらけの波打ち際を歩いていくと、やがて岩肌の合間の隙間が見えてきた。人がやっと入れるようなその隙間を奥へと進んでいく。すぐにそれが洞窟へと続く通り道だと判る。
 洞窟の中は意外に広かった。岩へとぶつかり砕ける波音が響いてくる。仄かに射しこむ光を頼りに眼を凝らすと、洞窟の奥にちいさな祠があるのが見えた。
 いつからそこにあるのか、それは誰も知らないという。ただこの洞窟の中にあるこの祠を護ってきたのが時任の家だと、そのときはじめて聞かされた。
 ぼくをそこに連れていった祖父はその話をしながら、祠の燭台にあった蝋燭を灯した。蝋燭の炎が揺れるとそれに合わせて祖父とぼくの影も揺れる。なんだか現実の世界とはかけ離れた場所に連れてこられたような心細さに押しつぶされそうだった。
「これは時任の家に伝わる話だ。だから一族以外の誰にもこのことを話してはいけない。まずそれを覚えておけ」
 そのときの祖父の顔はいつも遊んでくれたときの優しい顔とはまったく違っていた。厳しい眼でぼくをじっと睨むように見つめた。
 ぼくは訳も判らずただ頷くことしかできなかった。
「ここは刻を祀る場所だ。この祠を刻の祠と呼んでいる。もうずっと昔から、時任の家のものはこの祠を護ってきた」
「刻を祀るって?」
 ぼくは疑問をそのまま口にした。
「刻を司る神様をお祀りしているんだよ。刻ってのは一度も立ち止まることがないだろう。もちろんその流れを止めることはおろか、逆にすることもできない。それは刻を司る神様のおかげなんだよ」
 祖父は諭すようにいった。
「ずっと昔から、それはどれぐらいか判らないほど昔から時任の家が護ってきた。だからなのか、時任の家にはときおり特別なことができる男の子が産まれることがある」
「特別なこと?」
 祖父は重々しく頷いた。
「必ず遺伝するわけではなく、ときおりだが刻を巻き戻すことができるものが産まれることがある」
「巻き戻すって……」
「そう、時間を巻き戻してやり直すことができるんだよ」
「どうやって?」
「それはその能力を授かったものにしか解らない」
 祖父はぼくの眼をじっと見つめた。
「智哉、お前にはそれができるはずだ」
「なぜそんなことが判るの?」
「わたしもそれができるからだよ。だから時間が巻き戻されたとき、あっ戻ったと判るんだ。そのとき、わたしはなにもしていない。いつもその場にお前、智哉がいたからだ」
「そんなぼくはなにもしてないよ」
 ぼくはただ途惑って答えた。
「だからそれを自覚してもらうために、ここに連れてきた。智哉、これはとても大切なことなんだ。だからちゃんと覚えておいてもらいたい。でないと、大いなる禍を招くことにもなりかねない」
「どうすればいいの?」

 最低の気分で眼が醒めた。
 頭が痺れたままのようで、身体が妙に重かった。まるで鉛を飲み込んでしまったような気分だ。口の中にも金属っぽい味が残っている。こんなことははじめてだった。
 ぼくはベッドを出ると重い身体を引き摺るようにバスルームに向かった。洗面台の鏡で自分の顔を見る。
 ──これがぼく?
 そこには確かにぼくの顔が映っていた。けれど、どこかに違和感があった。気分が優れないからだろうか。それともどっぷりと眠ったはずなのに疲れがまったく抜けていないからだろうか。
 蛇口を捻ると冷水で顔を洗った。何度も何度も両手で冷水を掬い、顔を洗う。それでもなぜか気分が晴れることはなかった。
 思い切ってシャワーを浴びた。お湯の温度を下げて全身に浴びる。すぐに冷水にしてみた。それでもなぜか身体がシャキッとすることはない。ぼくの身体に染みこんでしまったなにかをシャワーでも洗い流すことはできなかったようだ。
 それでもぼくは大学へと出かけた。いつもの朝と同じというわけにはいかなかったので、午前中の講義には間に合わなかった。
 ぼくは昼前のカフェエリアへいくと空いていた席に腰を下ろした。
 ガラス張りの窓から射しこむ陽射しは冬のものになっていた。それでも陽射しの暖かさは伝わってくる。午前中ということもあってかカフェエリアの人は疎らだった。
 ぼくはいつものように珈琲のカップを手に取った。湯気とともに立ち上る香りがぼくをすこしだけ落ち着かせてくれた。ひと口飲む。濃褐色の液体はいつもより苦く感じる。なぜだろう、まだ舌にざらつきを感じる。
『いま、どこにいるの?』
 スマホにメッセージの着信があった。紗亜羅からだった。ぼくは紗亜羅の顔を思い浮かべながら、何度もメッセージを読み返した。
『カフェエリアにいるよ』
 期待に胸を膨らませながら返信した。
『お昼、一緒していい?』
『もちろん』
 ぼくは速攻で返信した。
『待っててね』
 やがて講義が終わる時間になると、それまで静かだったカフェエリアが急に騒がしくなっていった。疎らだった席は学生たちで溢れ、喧噪に満ちはじめた。
 すぐに紗亜羅もやってきた。そのとなりには本城麻美の姿があった。それからもう一人。確か、久能結人という学生だった。本城麻美の幼なじみとかいっていたはずだ。でもぼくにはふたりの関係はそれ以上に思えて、ちょっぴり羨ましかった。
「昨日はありがとう」
 紗亜羅は席に抱えていたバッグを置くと、にっこりと笑いかけてきた。
「こちらこそ。楽しかったよ」
「よかった」
 紗亜羅は頷いた。
「先にお昼頼んでくるね」
 紗亜羅は笑顔でぼくにいうと、麻美と連れだってキッチンカウンターへと向かった。
「時任君だっけ。なんだか顔色があまりよくないみたいだけど」
 紗亜羅の後ろ姿を眼で追っていたぼくに久能が話しかけてきた。
「そうかな」
 てきとうに返したぼくを久能はじっと見つめてきた。やや長めの髪が軽く巻き毛になっている。その視線にはどこか不思議な力があるようだった。
 ぼくはふいに落ち着かない気分になり、座り直すと腕を組んだ。それから視線を逸らして、紗亜羅を探した。
 すぐに紗亜羅の姿を見つけた。焦げ茶色のセーターに淡いベージュ色のミニスカートを穿いている。どこを歩いていても、ぼくはすぐに紗亜羅を見つけることができる。だってこんなに好きなんだもの。
 紗亜羅は麻美とふたりトレーを持ったまま話しながらこっちへと向かっていた。すぐそばまで来たときだった。別の男子学生がそれまで座っていた椅子を大きくうしろに引くと、いきなり立ち上がった。麻美と話をしていた紗亜羅の前にいきなり飛び出してきた恰好だった。
「きゃ!」
 その男は紗亜羅にぶつかり、紗亜羅は持っていたトレーをその場で引っくり返しそうになった。
 ぼくは思わず腰を浮かせた。
 ──危ない! やり直しだ!
 ぼくは心の中に思い描いたリセットボタンを押した。
 いや、そのはずだった……。
 ガッシャーン。
 派手な音が響き、紗亜羅が手にしていたトレーは引っくり返ってしまった。おまけに皿に盛られていたパスタが紗亜羅のセーターに飛び散った。
「なにしてるんだよ」
 ぼくはその男に詰めよろうとした。
 しかし、そこでぼくはつんのめるようによろめくとそのまま意識を失ってしまった……。

「智哉、いいか。時間を巻き戻すのは、どうしてもやり直さなければいけないときだけにしなさい」
 祖父は厳しい顔のままぼくにいった。
「なぜなの?」
 いきなりなんの説明もなく洞窟に連れてこられて、祠の前でまったく想像もしていない話を聞かされたぼくはただ疑問だらけだった。
「時間を巻き戻す。その巻き戻した時間の分だけ、お前の命は削られていくことになる。時間を巻き戻すには、命に等しい力が必要なんだ。だから」
「だから?」
「もし、その力を使うにしてもこれだけは肝に銘じておくんだ。どうしても使わなければならないとしても、一日に一度限りだと」
「一日に一度だけ……」
 ぼくは首を傾げた。
「できたら、使わずに済ませるようにしてくれ。どうしても使わなければいけないときだけにするんだ。それも一日に一度だけだ」
 祖父はそういうとじっとぼくの眼を見つめた。
「もしそれを破っちゃったらどうなるの?」
 ぼくは思わず訊いた。
「そのときには大いなる禍を招くことになる」
「どういうこと?」
「時間を巻き戻すには命に等しい力が必要だといった」
 ぼくは固唾を呑んで頷いた。
「命が削られるということがどういうことか解るだろう?」
 祖父は念を押すようにぼくの眼をじっと見つめた。

「ここは……」
 眼に飛び込んできたのは真っ白な天井だった。窓からは冬の陽射しが射しこんでいた。どうやらぼくはベッドに寝かされているようだった。
 上体を起こそうとして、そっと押しとどめられた。
「無理をしない方がいい」
 久能だった。
 ぼくは辺りを見回した。カーテンで仕切られたここにはベッドだけがあった。すぐ横にはラックがあり、そこにぼくの荷物が置かれていた。その傍らの椅子に久能が座ってぼくを見ている。
「ぼくは?」
 久能の眼をじっと見た。
「保健センターのベッドだよ。カフェエリアで気を失ったのを覚えているかい?」
 ぼくはただ頷いた。
 そうだ、男が紗亜羅にぶつかりそうになって、ぼくはやり直そうとした。それなのにそのまま紗亜羅が手にしていたトレーに乗っていた皿と料理ごとそこにぶちまけられてしまい、思わず詰めよろうとしたぼくは……。 
「紗亜羅は?」
 ぼくは辺りに久能しかいないことに気づいて尋ねた。
「彼女は麻美といっしょに部屋の外にいるよ」
「どうして君がここに?」
「どうやらぼくには君の話をきちんと聞くことができると思ったらしい」
「それは紗亜羅が?」
 久能は静かに頷いた。
「君は君だけの秘密を抱えているだろう、時任君?」
「なぜ、それが?」
「どうやらぼくの周りではとても不思議なことが起こることになっているらしい。もっともこの世界には不思議なことが、いまの科学では証明できないようなことがいろいろと起こるからだよ。そして、ぼくはそんなできごとをそのまま受け取ることができる」
「不思議なこと?」
 久能は微笑みを浮かべて頷いた。
「ぼくはもちろんだけど、麻美も紗亜羅もそれから彼女の友だちたちも、いろいろなことを経験しているんだ。とても不思議なことを。だから紗亜羅はぼくに君の話を聞いてもらいたいらしい」
「どんな突飛なことでもいいのか?」
 ぼくは天井を見上げたままつぶやくようにいった。
「どんなことでも構わないよ」
 じっと眼を瞑ってなにから話せばいいのかちょっと考えた。頭に浮かんだのは祠だった。祖父に連れていかれた海岸沿いにある洞窟。それに刻の祠。
「時間を巻き戻すことができる、っていったらどう思う?」
「詳しく話を聞かせてくれ」
「君だけの秘密にしてくれるなら話そう」
 久能はぼくの眼を見つめたまま、ただ頷いた。
 ぼくは祖父に洞窟の刻の祠を前にして聞かされた話をそのまま伝えた。
「その刻の祠のある洞窟がある場所はどこなの?」
 話を聞き終えた久能はしばらくしてからそっと口を開いた。
「珠洲岬の近くだよ。狼煙へと向かう海岸線の途中だ。知らない人には見つけられないはずだ」
「そこを君の家の人たち、つまり時任家の人が代々護ってきた」
「ああ、そうだ。信じてくれるかい?」
「もちろん」
 久能は頷いた。
 ──大いなる禍を招くことになる……。
 祖父の言葉が甦ってきた。
「ねぇ、ぼくにとっての禍ってなんだと思う?」
 ぼくは久能に尋ねてみた。久能はすぐにその問いには答えず、その場を離れて、またすぐ戻ってきた。
「たぶんこのことだと思う」
 久能はどこから持ってきたのかハンドミラーをぼくに差しだした。小振りの手帳のようなサイズの鏡だった。
 ぼくはそれを受け取ると、じっと久能の顔を見た。そこには哀しげな笑みが浮かんでいた。ぼくは覚悟を決めると、恐る恐るその鏡を覗きこんだ。
 ──巻き戻した時間の分だけ、お前の命は削られていくことになる。
 そこに映っていたぼくの顔は信じられないほど老いていた。顔全体は深い皺にまみれ、あちこちに染みができていた。そして髪は薄くなり地肌が透けている。しかもそのほとんどが白くなっていた。
 ──巻き戻した時間のツケをこういう形で支払ってしまったということなのか。
 ぼくは呆然としながら、鏡から眼を逸らすことができなかった。
 刻の祠。
 洞窟の中で聞いた岩へとぶつかり砕ける波音が、ぼくの心の中で谺していた。いつまでも、いつまでも。
はじめから

■ 電子書籍 Kindle 版・ePub 版 各シリーズ大好評販売中

「Zushi Beach Books」では、逗子を舞台にした小説はもちろんのこと、逗子という場所から発信していくことで、たとえば打ち寄せるさざ波の囁きや、吹き渡る潮風の香り、山々の樹木のさざめき、そんな逗子らしさを感じることができる作品たちをお届けしています。

NOTE では基本的には無料公開を、そして電子書籍としては ePUb 版を販売してきました。より多くの人たちに作品を届けるため、Kindle 版の販売もはじめました。Kindle Unlimited でもお読みいただけます。
ストーリーを気軽に楽しみたければ NOTE で読んで、一冊の本として愛読したい作品は Kindle 版や ePub 版を購入する。
そんなスタイルで Zushi Beach Books の作品たちをお楽しみください。

また、今回の Kindle 版の販売にともない、「ものがたり屋 参 その壱」「ものがたり屋 参 その弐」の各話について NOTE でお読みいただけるのは、その 2 までとなります。完結編となるその 3 は、Kindle 版でお楽しみください。
よろしくお願いいたします。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?