山ガール

ものがたり屋 弐 山ガール 2/4

 うっかり閉め忘れた襖の影、街灯の届かないひっそりとした暗がり、朽ちかけている家の裏庭、築地塀に空いた穴の奥。

 気づかなかった身のまわりにある、隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

山ガール 2/4
 はじめはただの錯覚かと思った。しかし、確かに聞こえる。
 ──リンリンリン。
 車の中からその音は聞こえてくる。
 俺は車の中をそっと見廻した。もちろん稜子のリュックサックなんてどこにもない。それでも鈴の音が、車の揺れとともに聞こえてくる。
「どうかしましたか?」
 俺の様子を不審に思ったのか石井さんが声をかけた。
「いや、鈴の音が……」
「ああ、この音。それわたしのデイパックについてる鈴の音です。ほら、うしろのシートにあるでしょ」
 石井さんがうしろをちらりと見ながらいった。
 確かにうしろのシートにかなり使い込まれたデイパックがあった。
「熊除けです」
「熊……、いるんですか?」
「そりゃね、こんな山の中ですから。熊だけじゃない、いろいろな動物がいます。よく見ると判りますよ、道の両側にはサルがいるのが見えるはずです」
「猿、ですか」
「ええ」
 石井さんは頷くとなにごともなかったように視線を戻して、ハンドルを握り直した。
 ──リンリンリン。
 石井さんのデイパックの鈴の音。
 でも俺には稜子のリュックサックの音にしか聞こえなかった。
 この音を聞きながらふたりで山を歩いたのだ。
 高尾山や秩父山。本格的な山登りとはいえないかもしれない。けれどただのハイキングではなく、稜子にとっては登山だった。
「山を侮ってはいけないのよ」
 稜子の口癖だった。
 他の人から見ればハイキングに毛が生えたようなものでも、稜子はきちんと準備をして、そして俺を山へと連れていってくれた。
 ついこの前、富士山にも登った。
 いわゆる弾丸ツアーといった強行軍ではなく、ちゃんと山小屋で一泊して頂上を目指したのだ。
 富士の山頂から見た日の出は俺のココロを大きく揺さぶった。
 いままで生きてきて景色を見て心の底から感動したのはたぶんはじめてだった。俺の存在がどれだけちっぽけで、だからこそどれだけ大切なものなのか。それがよくわかった。
 目に映るものすべてが愛おしく思えた。ほんとうに他愛のない話だ。富士山で見た日の出に感動して、そしてなにかが変わった。
 富士山に登ったあの日、ふたりはいつものようにまず稜子のアパートに戻った。
 リュックを下ろすと、稜子は風呂の用意をするね、といって浴槽を洗いはじめた。スポンジに洗剤に染みこませて、シャワーを使って浴槽を洗っている。
 そんな稜子の後ろ姿を見ていて、俺は堪らなく稜子とひとつになりたくなった。
 それまでに身体の関係はまだなかった。
 どうしてだろう?
 唇を重ねることはあっても、互いにしっかりと抱き合うことはあっても、しかしまだそこまでの関係にはなっていなかった。
 しかし、この日。
 俺は立ち上がると風呂場を洗っている稜子を後ろから抱きしめた。
「駄目だったら、濡れるでしょ」
 稜子は笑いながら身をくねらせた。
 しかし、俺は稜子を離さなかった。そのままきつく抱きしめると、身体を入れ替えて向かい合うようにして、さらに両腕に力を入れた。
「ねぇ、濡れちゃうよトシヤ」
「濡れてもいい。どうなってもいい、お前が欲しい」
 そういって俺は唇を重ねた。
 最初はおずおずと応えていた稜子だったが、やがてその口づけはとても深いものになった。
 稜子の手からシャワーヘッドが浴室の床に落ちると、お湯を跳ね上げた。ふたりの足にそのお湯がかかる。
 俺は構わずそこで稜子の服を脱がせようとした。
 稜子はなにもいわず、心の中をのぞき込むようにただじっと俺の目を見つめた。
 やがて黙って頷くと、俺の服に手を延ばした。
 互いの服を脱がせあい、その場で全裸になると、もういちど抱きあった。それからふたりでベッドへと向かい、そしてそこで俺は稜子とひとつになった。
 ──リンリンリン。
 鈴の音が聞こえる。
 俺は稜子の抜けるように白い肌を思い出していた。
 あのとき、いままでに経験したことのない一体感と放出感を味わった。稜子とのセックスはそれまで経験してきたこととなにかが違った。それは互いの感情がいままでにないほど高まっていたからだと思っていた。これこそが愛なのだと。
 それが……。
 携帯でのメッセージで終わってしまった……。
「もうすぐですよ」
 石井さんの声に、俺は現実に戻った。
 あたりはさらに真っ白な世界になっていた。目に映るもの、そのすべてがただただ白い。
 そんな雪の中に旅館の門があった。門柱は太くそして立派なものだった。
 車はゆっくりと門をくぐり、そして車寄せへと進む。
 車を降りて、俺はちょっとした戸惑いを覚えた。
 かなり古い老舗旅館だと女将さんから電話で聞かされていたので、古くて寂れた建物を想像していたが、まったく違っていた。
 確かにかなり昔に建てられたものだろう。しかし、通ったばかりの門柱に勝るとも劣らない堅牢な作りだった。まるで大名屋敷のような雰囲気を醸し出している。使われている木材は確かに年代物かもしれなかったが、古さよりも時を重ねた重さを感じさせた。
 そのどっしりとした建物を、真っ白な雪が覆っていた。
 なにかに気圧されたように俺は一瞬その足を止めたが、石井さんに促されて中へと入っていった。
 玄関は広く、そして天井が高かった。時の流れの澱のような暗さがそこにはあった。
 靴を脱いで上がる。そこはロビーになっていた。磨き抜かれた床板が黒く輝いている。ここにも時を重ねた静けさが漂う。
 右手にはフロントのカウンターがあり、左側にはソファが三組ほど並んでいた。
 一番奥のソファに和服を着たやや太めの中年女性が座っていた。女将さんだった。
 俺の姿を認めるとその場で立ち上がり、にっこりと笑顔で会釈した。俺もその場で会釈を返すと、そのソファへと向かった。
「わざわざ来てくれて嬉しいわ。遠かったでしょ。さぁ座って」
 女将さんはそういいながら、仲居にお茶を出すように指示をした。
 俺たちは向かい合うようにしてソファに座った。ソファがすこし軋むような音を立てた。これもかなりの年代物だ。
「ごめんなさいね、建物はもちろんだけど、ここにあるものはどれも古いものばかりで」
 そういながら、仲居が持ってきたお茶を俺に勧めた。
「それで、明日からすぐに働けるかしら」
「ええ、大丈夫です」
「そう、よかった」
 そういって笑うと、目が丸顔の中に埋まりそうだった。
「それじゃ、石井に案内させるから、寮で荷物の片付けなんかをして待っていてくれるかしら。夕食の時間にみんなに紹介するわ」
「はい、わかりました」
「ああ、それから履歴書、持ってきた?」
「ええ」
 俺は頷くと脇に置いたバッグから履歴書の入った封筒を取り出して渡した。
 女将は封筒から履歴書を取り出して中を確認すると、にっこりと笑って口を開いた。
「これ、お預かりするわね。それじゃ、今晩」
 そういうと女将さんは立ち上がり、フロントの奥へと消えていった。
 ひとり残った俺は石井さんに寮へと案内された。
 寮はさすがにそこまで古い建物ではなかった。十年もののアパートといった感じだろうか。雪が多いからか、窓は二重サッシになっているし、大きめの暖房機も備えてあった。
 四畳半の部屋に入ると、俺はまず暖房機をつけて部屋を暖めながらバッグから服などを取り出して、押入に片付けていった。荷物は多くなかったからすぐに手持ち無沙汰になってしまった。
 窓の外から見える景色も白一色。やがて夜の帳が降りてくるころだ。
 さしてやることもない俺は風呂へ入ることにした。
 客が使う大浴場をいつでも自由に使っていいということだった。
 温泉につかるのはいつ以来だろう? とても久しぶりなことは確か。
 風呂の用意をして大浴場へと向かった。
 旅館の中の廊下は広く、そして天井が高かった。深めの絨毯に足下が沈む。老舗といっても格式のある旅館だ。
 寮から大浴場まではすこし遠かった。旅館の外側をぐるりと回って反対側へいく格好になっていた。大浴場という立て札のところを右に折れると、大浴場へと通じる廊下に出た。窓の外は白い。
 この廊下はさすがに隙間風が入ってくるようで、旅館の廊下と空気が違う感じがする。外気の一部に触れているようだ。
 雪の白さを思い出させる寒さがあった。
 男湯の引き戸を開けて中に入る。
 そこは脱衣場だった。脱衣用の棚が壁際に並んでいる。脱いだ服をそこに放り込むと、俺はすぐに浴場へ入っていった。
 目の前には大きな湯船があり、右側には蛇口とシャワーが並んでいる。
 幅は三メーターほどだろうか、しかし奥行きは七八メートルはあるだろう。思ったよりも大きい湯船だった。湯煙がとても濃くて、一番奥はほとんど見えない状態だった。
 中途半端な時間だからか、客はもちろん、湯を使っている人はひとりもいない。
 俺はそのまま一番奥まで歩いていくと、洗い場で簡単に身体を流してから湯に浸かった。
 ここから見ると、今度は入り口が湯煙でぼんやりとしか見えない。
 湯の中に身体を沈めて、上を見上げた。
 ここも天井が高い。
 ちょうど湯船の真ん中あたりが一番高くなっていて、窓になっている。そこから外の空気が下りてくる。
 白濁した湯は、少し熱めだったが気持ちのいい温度だった。
 普段は烏の行水の俺だったが、このときばかりはのんびり湯に浸かり、そしてゆっくりと身体を洗い、風情を楽しむように寛ぐことができた。
 部屋に戻ってしばらくすると、石井さんが俺を呼びに来た。片付けも終わり、スタッフがちょうど夕食を食べているところだという。
 石井さんに連れられて、配膳室へと向かった。
 大浴場の途中に配膳室はあった。
 のれんの掛かった引き戸があり、それを開けるとそこが配膳室だった。かなり大きめの部屋だ。配膳用のスティール製の台がいくつも並び、そこでスタッフの人たちが食事をしているところだった。
 俺が働く配膳のスタッフは四人。責任者の原田さん、大和田さん、田辺さんと黒田さんだ。原田さんと大和田さんはそれなりの年配の人で穏やかそうな表情が印象的だった。
 田辺さんは三十代だろうか。しっかりした青年というイメージだ。黒田さんは、もしかすると俺と同年代かあるいはちょっと下だろうか。まだ大学生だという。春には大学に戻る予定らしい。
 その他に、仲居さんたちもいた。こっちは女性がざっと十人ほど。年代も千差万別。一度に名前をいわれても覚えきらないので、また追々ということにしてもらった。
 配膳室の奥が板場になっていたが、こっちのスタッフはすでに全員が寮に戻ったということだった。
 配膳台には焼き魚とほうれん草のお浸しが並んでいた。いわゆる賄いだ。それぞれが思い思いにおかずを取り、食事をしている。
 俺もそれに倣っておかずを取ると、ご飯をよそって食事をはじめた。
 よく考えたら、今日初めてのまともな食事だった。なのに、あまり味がしなかった。それは決して味付けが薄かったせいではなく、雪に閉ざされたこの場所にいることに、なんとなく戸惑いを感じているからなのかもしれなかった。
 食事を終えると、俺はそのまま寮の部屋に戻り、布団を敷いて寝てしまった。
 気疲れしていたのか、布団に入るとすぐに眠りに落ちた。
 夜中に──リンリンリン──という鈴の音が聞こえたような気がしたが、それは夢の中のことだったのか、深い眠りに忘れてしまった。
 翌朝から仕事がはじまった。
 はじまりは基本的に六時。まずお客さんの朝食の用意だ。
 用意があらかた終わると、ちょうどお客さんたちが食事をするための座敷へと出向いている時間になる。その間にお客さんの部屋にいき、布団を上げていく。
 そのあとは、食事の後片付けだ。食器を洗い終えると、つぎに夕食の準備に取りかかる。といっても盛りつけをするのではなく、器の用意などだ。
 お客さんの数が多いと、盛りつけするために器を並べるだけでも天手古舞いになってしまう。あらかじめ用意できるものは用意しておく。
 これで午前中の仕事はだいたい終わりだ。
 時間はちょうど十時頃だろうか。チェックアウトの時間と同じぐらいになる。
 これでようやく俺たち従業員の朝食の時間だ。昨日の夜と同じように、配膳台に賄いのおかずが並べられ、それぞれがご飯をよそって食べる。
 このあと三時までは休憩だ。
 各自がそれぞれの時間の過ごし方をしてもいい。俺は夜の睡眠時間が短いので、この間を利用して昼寝することにした。
 午後は昼食からスタートになる。
 三時に昼食を摂ると、そのままお客さんたちの夕食の準備に取りかかる。盛りつけなどしていき、配膳があらかた終わると、だいたい夕方の六時頃になっている。今度はちょうど夕食の時間だ。
 お客さんたちが夕食を摂っている間、俺たちは部屋へ布団を敷きにいく。
 そのあとは食器の後片付け。
 お客さんの数にもよるけど、終わるのはだいたい九時から十時の間ぐらいだろうか。夕食の片付けを終えて、明日の朝食の準備を済ませると仕事は終了。
 俺たちの夕食の時間になる。
 食事を終えて部屋に戻るとだいたい十時を回っている。それから風呂に入ったり部屋の片付けなんかをしていると、あっという間に日付が変わる寸前の時間になっている。
 そしてまた翌朝を迎えるということになる。
 仕事自体はそういういい方をしてもよければ、とてもアナログなものだ。いままでにやってきたこととはまったく違う。どちらかというと身体を使う面もある。
 仕事のやり方を教えてくれるのは、若い田辺さんと学生の黒田さんだ。
 黒田さんとは歳がほとんど同じなので、話もよく合い、気兼ねなく話せるのでとても助かっている。
 とはいえ、まだ馴れないからか仕事が終わると、気苦労と疲れでクタクタになっている。
 だから仕事が終わったあとに浸かる温泉は格別だ。
 いままでそんなに風呂が好きではなかった俺も、この温泉だけはささやかな楽しみになっていた。
「そうだ村田君、温泉にはいつも夜入ってるの?」
 一週間ほど経ったある日、仕事を終えて夕食を摂っていると、不意に田辺さんが尋ねてきた。
「ええ、そうですけど」
 俺は箸を止めると頷いた。
「そうか、夜、入るのか……」
 田辺さんは意味ありげにつぶやいた。
「それがなにか?」
 俺は気になって訊き返しながら、田辺さんと黒田さんの顔を見た。
 ふたりはなにも答えず、顔を見合わせて黙っていた。
「また、そんなバカな話を」
 そこへ、若い仲居の早川が割って入った。
「そんなバカなって、どういう?」
 俺は訊き返した。
「ただの噂。都市伝説。誰もいない浴場に、泊まってもいないはずの老人が入ってくるって話。もう、ここに来た人たちはみんな聞かされてるけど、誰も見てないわよ、そんな爺」
はじめから  続く

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気づかなかった身のまわりにある隙間のような闇に、もしかしたらなにかが潜んでいるかもしれない……。

しこたま酔っぱらって帰った菊池。
翌日、酷い二日酔いで目醒めた彼だったが、見たこともない靴が玄関にあった。
出かけるついでにその靴を捨てたはずだったが、不思議と目につくようになり、
その夜、彼のアパートの廊下になぜか靴音が響きだした……。

怪しくてそしてとても不思議な世界をどうぞ堪能してください。

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